014 初めての殺人
「斬り霧アイリス——『剣能』発動」
詠唱の直後、渦を巻く鋼鉄が細長い切っ先へと白光を走らせ、濃霧が放たれる。
やがてそれは廊下でひしめく数多の生徒達を包み込み、その身を侵している『操毒』を斬り捨てていく。
復讐の為でなく、誰かの為に——いや、波月永絆という心の底から信頼を置く女の為に魔剣を振るう。煮えたぎっていた業火とは比べ物にならない程に暖かなその親愛は、蓮花の口元に柔らかな笑みを作らせる。
仮にも結界内の、それも敵の操り人形と化している生徒全員の救出という重大な役目を担っているにもかかわらず、蓮花は心を躍らせずにはいられなかった。
「さあ、あなた達は自由の身だよ。早く家に帰りなさい」
聖母のようにそう諭し、生徒達を校舎の外へと帰してゆく。まだ『操毒』の効力が残っているのだろう。放たれた文言を命令のように認識し、生徒達はまるで夢遊病者のように幽鬼めいた足取りで下駄箱を目指してその場を後にしていく。
「これで全員、かな……」
生徒を見つけ次第、アイリスの『剣能』で解毒を行う。思えば何ら危険などない単純作業だった。それだけでも、永絆が蓮花をより安全な道を進んでいけるように気を遣ってくれたことが分かる。
本当に、不器用でどこまでもお人好しな人だ。
「……って、なんかもう、ナズ姉にどっぷりだなぁ。あたしったら」
心の底から誰かを愛することを、心のどこかで自分とは無縁だと思っていた。一生、氷の仮面を着けて鋼の鎧を纏って、本当は壊れやすく脆いそれらに縋って一生を過ごすのだと。そう、思っていたのに。
感慨深いな、と窓から夜空を見上げて蓮花は思いに耽る。
と、そんな矢先。
「……っ」
新たに現れた三つの影を見て、短く息を飲んだ。なるほど藤実は本当に、どこまでも悪趣味で悪辣な悪党だ。
本当なら、手術を受けた後の時間を病院のベッドの上で持て余していただろうに。
病衣に身を包んだ三人の少女達。
鈴木由奈と、その取り巻きである田口と井口。
片喰蓮花の人生を大きく歪ませた断片である、仮初めの友達。
彼女達を前にして、蓮花は自分が無意識のうちに魔剣の切っ先を彼女達に向けていることに驚く。
それほど憎んで、しかしそれ以上に悔やんで考えずにはいられなかった。もし仮に、藤実による『業毒』の介入なんてものが無かったら、この三人は自分の中に眠る業をひた隠しにしたまま本心も本性も明かさず、蓮花と共に楽しい学校生活を送っていたのではないかと。
「……でも、まあ、それは違うってことも分かってるんだけどね」
蓮花は口元を緩めて呟く。
そうだ。必死に取り繕って、足並み揃えて、他人の為に自分を殺す上辺だけのつまらない関係。そんなのが続いていたらと考えると。それもそれでゾッとする。
蓮花は変わったのではない。
本当の自分を炙り出し、それを受け入れて、素の自分を愛してくれる人を心の底から愛するようになった。ただそれだけのこと。
変わったのではなく、前に進んだのだ。
だから。
「だから、あんた達があたしに絶対にされたくないことをするよ」
欲に忠実で、欲に踊らされ、欲を喰らうこの女たちに、蓮花は。
「『お情け』っていう、あんた達にとって最低最悪の屈辱を、ね」
嘲るような笑みをたたえ、侮蔑の色を瞳に宿して、魔剣を振る。切っ先から溢れ出た濃霧が三人の体内へと入り込み、『操毒』を断ち斬っていく。
それを成した後、蓮花は振り返ることなくそのまま歩いて前に進む。一方で田口たちは反対の下駄箱の方へ無心のままに帰っていく。
その様はまるで、今しがた思い出と呼んでいたものと決別したかのようで。
蓮花は、ハリボテの日々を斬り捨てて愛する女のところへ向かう。
「ナズ姉……」
ふと立ち止まって、窓から紫紺に染まる夜空を見上げた。けたたましく轟いていた血の色のような雷が止み、自分の息遣いが耳朶に響くほどの静けさが辺りを包んでいる。
戦いは、幕引きに近いのだろう。
「今、行くから」
そう言って、再び前に進む。
前へ、歩む。
*
「――ふざ、けるな! こんな結果、認めないぞッ!」
それが、血まみれでよれよれの身体を引きずりながら、必死に逃げ回る藤実剛志の心の叫びだった。
「ぼくが今までのぼく以上の完全体になろうとしているのだ! 生命として、生物として、新たな進化を歴史に刻もうとしているのだ! ここで朽ちる訳には、いかんッ!」
薄闇に包まれた廊下。屋上から血や肉片を垂らしながら階段を駆け下り、たとえ転げ落ちて別の部位がひどく損傷しても尚、這って引きずってでも前に進む執念。
もはや自らが『操毒』で手に掛けた生徒達よりずっとゾンビらしいその姿を、蛍光灯が不気味に照らす。
「ぼくはぁ! ぼくとしての限界を超えてぇ! ぼく以上の存在になるぅ! これは何よりも優先されてぇ! 何よりも尊ぶべきことなのだぁ!」
息絶え絶えに、そして所々で吐血しながらも、己の業を叫ぶ男。
血走った眼を左右非対称に動かし、窓ガラスに身を寄りかかりながら、やがて藤実はある場所へと辿り着いた。
「ここは……」
理科室。
自分が担当する科目ではなく、一見無縁だと思われる場所だが、『剣能』すらまともに使う体力と魔気が欠けている藤実でもまだ戦える方法が眠っている。
彼は盛大に口角を釣り上げ、「キヒッ」と笑んでからそれを探す。
「あのアマに、天罰ををを……! ぼくが征く覇道の前に立ちふさがるというのなら、即刻排除せねばぁああッ!」
机の上に乱雑に置かれていた器具たちを乱暴に払い捨て、探す。
そして、目当ての品を見つけ出す。
「あ、ああ、あったぁっ! これで、あのアマの端正な顏ごと身も心もぐちゃぐちゃのぐちょぐちょにしてぇぇぇぇ!」
瞬間、扉が爆ぜ、
「えええ!?」
風切り音が鳴り、雷鳴が轟いた。
*
ヴァージの雷光が藤実の腕を斬り飛ばした時、永絆はその痛苦への共感や焦燥は微塵も抱かず、次の算段を練ることに意識を注いでいた。
そもそも、飼い犬が通行人に吠えるが如く、その『捕食』はヴァージが勝手に行ったことなのだが、主である永絆は別にそれを咎めはせず、寧ろ手のかかる準備を自動的にこなしてくれることに感謝の念すら抱いていたぐらいだ。
何せ、『消す』ことに時間をかけるぐらいなら、一秒でも早くその手間を削って蓮花と合流したいと思っているのだから。
「ああおああああああぁぁぁ……!? 腕、腕ががががびちゃびちゃぐちゃちゃぐちょぐちょにににににににににににににににに」
藤実が手にしていたビーカー、それが何なのかは科学に疎い永絆では分からない。だが、何はともあれ、そこからはとんとん拍子だった。
斬り飛ばされた拍子に手から零れて宙を舞ったビーカーが、そのまま藤実の頭に降って液体が額を伝い、顔面を濡らしていく。
「じゅ、わぁじゅわじゅわじゅわじゅわああ!! あああああ!?」
炭酸飲料のように泡立つそれは、みるみるうちに皮膚を溶かしていったのだ。
「なんか、そんな実験とかあったっけな……」
目の前に広がるグロテスクな光景。それに対して無頓着にそう漏らすや否や、
「ところで、連帯責任って言葉について質問するが」
躊躇なく剣を振るい、藤実の腹を掻っ捌いた。
「ごばッ!?」
プツン、と糸が切れた人形のように膝を落として、口と腹から滂沱と血を流す。すると今度はむやみやたらに身を激しく動かし、
「ばりゅっ! ばりゅぅっ!」と形を成さない呻き声を上げる。
それを気にせず、永絆は続ける。
「『教師である自分が受け持つ生徒達に、ある意味で洗脳に近い命令をしてそいつらが別の生徒に行った罪の罰は、果たしてその教師も受けるべきなのか』。イエスかノーで答えろ」
本当に理解したのかは定かでは無いが、藤実は答える。
「……の、のー……」
確かに、己の罪と罰を否定した瞬間だった。
「クズが」
呻き悶える藤実の背後より、ヴァージの雷光が彼の背中に頭突きするかのように接触する。それはまるで、熱々の鉄板を当てているかのようで。
「ぶじゅうううううううううううううううううううううううっ!?」
「罰だ。もうくらってんだろ、とっくに。そんで、恐らく蓮花はてめえのそれとは比べ物にならないほど辛くて苦しくて怖かっただろうよ」
極めつけに、永絆は自分の親指の腹を噛み千切り、それによって垂れる鮮血を、呻き叫ぶことで開いている口の中へ数滴か放り込んだ。
その行為がどんな意味を持つのか。当然、永絆は分かったうえでそうしたのだ。
「ぼぶッ——」
ヴァージの『剣能』である『滅喰』。それが藤実の口腔を抉じ開け、引き裂いて、喉を掘削しながら雷光を散らし、彼の身体を文字通り喰らっていく。
臓器や骨肉が破れ、砕け、壊れていく音が教室中に響き渡り、風船が割れる様な破裂音が連続すると共に血が溢れ出し、缶に穴の開いたジュースの如く散乱してゆく。
スプラッター映画のようなワンシーン。
そんな、目を背けたり我慢出来ずに吐きそうになったりするような惨い光景に対し、永絆は「なあ」と語りかける。
「人が人を殺して排除しないのは何でだと思う?」
原型を失くしつつある肉塊は、答えない。
「法や秩序、道徳や倫理観がブレーキをかけるからだ。そこに手間や面倒、罰されることへのリスクも当然ある。——じゃあ、その危機や危険、危惧が無かったら?」
その文言を本来聞いていた筈の耳や脳は、窓ガラスにへばりついたりそこら辺の器具と共に机や棚に散乱したりしているだろう。
「殺して排除することが手っ取り早い。それが私の持論であり、この血みどろな魔剣の世界の宿命なんだろうよ」
そう言い切ると、永絆は『剣能』を解いて踵を返す。
「私は、私と私が愛する奴らの平穏を守る。それを害するもんは問答無用でぶった斬る……そんな決心が、ようやく固まった」
言い残したその言葉には、嘘偽りや迷いは無かった。
自分がどれだけ残酷なことをしたか。どれだけ無惨な非道を働いたか分からないほど、永絆の倫理観は薄れてはいない。
しかし、それ以上に守るべきものがあって、そのための力があるのなら。
――波月永絆は、躊躇なくその手を、その剣を血で汚す。
彼女は、そういう人間になった。そしてこれから先も、そういった大義名分を掲げて幾つもの斬撃を敵と定めた者達に刻みつけていくだろう。
でも。
それでも、やはり。
「——おっ、ええぇぇ……っ!」
トイレの便器に思い切り嘔吐する。頭の中がぐるぐるし、胃が痙攣して吐瀉物が溢れ出て止まらない。
意味も無く涙が溢れて、どうしようもない不安に襲われ、強く己の身を抱く。
無意識に爪を立てていたせいでブラウスの腕あたりの繊維が破け、挙句の果てに肌まで掻き毟ろうとする。
そうでもしなければ、その衝動に心身を委ねなければ、正気なんて保っていられそうになかったから。
——ひとを、ころした。
とても残忍に。残酷に。残虐に。
——人を殺した。
相手がどれだけの悪行を成していたとしても、その罪は重く。
——人殺し。
ぞっとする程低く冷たい声が、自分にそう言ってくる。
——人殺し。人殺し。人殺し。
聞きたくない。
そうやって耳を塞ぎ、目を瞑っても、糾弾が絶えることはなく。
人殺し人殺し人殺し人殺し
——そうするしかなかった——
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し
——そうするしか他になかった!——
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し
——善人ぶってなんかいられなかった! 他に手段なんて無かった! 人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し
——もう、やめて……——
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し
——これ以上、私を私から遠ざけさせないでっ!!——
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人——
「見つけた」
優しい声が、聞こえた。
そして、暖かな温もりが、背中から身体を包み込んだ。
おかしいなと思って、ゆっくりと振り返ってみれば。
「帰ろ? ナズ姉」
愛しい相手が。
片喰蓮花が、柔らかな微笑みをたたえていたのだった。
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