009 片喰蓮花の斬り傷・黒幕

 何ともないといった様子で血染めの教室に入り、微笑を浮かべる中年の男。このクラスの担任教師、藤実剛志。


 彼はさり気なく言った。


「さて、君も魔剣を手にしたわけだが、使い心地はどうだね? ぼくか? ぼくはやはり快感の一言に尽きる。だって、人の身でありながら人外の力を手にしたんだ。当然、使いたくはなるよね。そこのモルモットたちに刺しておいた『業毒』の針も、結果としては上々だ。その女たちの中に眠る深く熱を帯びた業……特に鈴木さんの性欲、金欲、嫉妬心、プライドの高さときたらもう、この実験にはどんぴしゃりで――」


 それからも長々と語っていた藤実の言葉を聞く限り、この男が黒幕であることが判明した。『剣能』による実験。菊田への別の魔剣の譲渡。


 偶然、藤実の実験が蓮花を中心にとぐろを巻いたこと。

 

 聞いて、理解して、自然、藤実に斬りかかって。気が付けば、倒れ伏して意識が薄れかけていた。


「『操毒』で従わせるのはよかったけど、君の魔剣、見た感じ君にだいぶ懐いちゃっているし、いつ寝首を掻かれるか分からないから遠慮しておくよ。今刺した『猛毒』も多分完全には効かないだろうけど、足止めには十分だ。さて、そこで暫くクールダウンでもしておいてくれたまえ。ぼくはぼくで気味への対抗策を練るとするか。あ、それとその子達は一応ぼくの生徒だからね。救急車はこちらで手配しておくとするよ。それではっ」


 踵を返した藤実を追うことは出来なかった。

 明確に、蓮花は死を感じた。

 でも。


「……生きて、る」

 

 自分の体内に霧が入り込んでいてぎょっとしたが、身体がやけに軽くなっていることから、魔剣の霧が蓮花の体内に入った毒を『斬って』くれたのだと分かる。


 ふと、アイリスの鳴き声が聞こえた気がした。魔剣を手にする直前もそう、あの子はまだ、蓮花のことを見守ってくれている。

 

 そう思うとなんだか心が温かくなって、涙が頬を伝っていた。


 重傷で虫の息になっている鈴木たちが死んでいないのも、きっとこの魔剣が死なない程度に加減していたからだろう。

  

 自分に手を伸ばしている彼女たちに背を向けて、蓮花は教室を後にした。誰かに見つかると面倒なので、己を霧で隠して蓮花は学校を後にする。


 屋上の方で光るものを見た。菊田航太。彼がカッターナイフを等身大にしたようなものを持って蓮花を狙っていたのだ。

 あれが、アイリスを焼き殺した魔剣。

 

 今すぐ殺しに行きたい衝動に駆られたが、その後菊田はすぐに姿を消してしまう。――その理由が分かったのは、学校帰りに永絆の家に寄った時のことだった。

 

「街を歩いてたら近くで何度か物が爆発してさぁ。新手のテロか? って思って身の危険を感じて大急ぎで帰ったわ」


 確信した。それは菊田による攻撃だ。

 奴は蓮花自身よりも先に永絆を始末する気だ。

 そもそも、永絆との交流が把握されていること自体、蓮花の落ち度だった。


 ――殺すしかない。


 片喰蓮花は、もはや復讐の域を超えた殺人を決意した。


 そして。


 永絆をどう護衛するかを考えながら帰宅している時に、それと出会った。


「妖、精……」


 自然に漏れ出た言葉通りの容貌だった。碧色に輝き数多の光を纏った、地面につくほど髪が長い人のシルエット。

 

 蓮花の前に立つそれは、一本の黒い大剣を持っていた。

 一瞬、蓮花は身構えたが、別に襲い掛かってくることはなく、その妖精のような存在は大剣を地に放り、姿を消した。


 困惑が消えない。だが、同時に閃いた。でも、それは永絆を守るどころかこの血みどろな魔剣の世界に巻き込んでしまうこと他ならない。


 ひとまず、蓮花は黒い大剣を拾って家に帰った。霧の魔剣を手にした時のような現象が起こらないのは、恐らく魔剣使いは魔剣を一本しか振るうことが出来ないという制約でもあるからだろうと推測した。


 部屋の中、黒い大剣と向き合って考える。


 時間は、もう無い。

 

 焦りが、蓮花の思考を白熱させる。身が、心が引き裂かれそうな感覚。顔を両手で覆い、滂沱と涙を流して。それでも、これから先、血を流すよりは幾分もマシだろう。


 深呼吸して、泣いて赤くなった目を擦って、永絆の笑顔を思い出して。決意は、この胸に定まった。


 翌日以降から、菊田と藤実の動きは思ったより目立たなかった。同じクラスで一気に三人もの生徒が重傷で搬送されたのだ。慎重になるのも当然のことだろう。

 その間、蓮花もまた警戒は怠らずに、永絆の家に行っては彼女に世話を焼いたり相談に乗ってもらったりして暖かな時を過ごして。


 暫く経ったある日、森林公園で魔獣や生徒の群れ操作して実験をしていた藤実と菊田を目撃して、こちらの方も本格的に動かなければならないと決心する。

 

 予感は正しかった。

 馬鹿正直に、菊田が学校で直接言ってきたのだ。「今日の夜、お前を殺す」と。


 その時に通りかかった藤実の顔も、楽しみが抑えきれない子供のようなもので。


 ――その日の夕方、蓮花は永絆の家の玄関ポストに魔剣を刺した。



 ――身勝手な自己満足を、許してください。

 

 蓮花は永絆の部屋のドアポストに、黒塗りの魔剣を滑り込ませる。


 ――あなたに過酷な試練を背負わせてしまうかもしれないあたしの体たらくを、許してください。


 そのまま、心がはち切れそうな想いと共に部屋を後にする。


 ――最後まではっきりと悩みを明かせなかった自分を、どうか許してください。


 いつものようにスーパーへ行って、永絆が大好きな料理の食材を買って。その時ふと、どうしようもなく嫌な予感が駆け巡ってきて。


 急いで永絆の家に向かったら、そこには明らかに『こちら側』に属する女が居た。

 剣を蓮花に放った妖精のような存在と関わりがあるのか。そもそも、敵と味方のどちらなのか。


 その後に話を聞いて、自分があの魔剣を永絆に握らせてしまったことで彼女が命の危機に晒されていたことに対して言葉にならないくらいの罪悪感に駆られつつ、ターチスと名乗った大剣霊の詳細と永絆が語った現状というものに動揺した。

  

 事態は、復讐どころの話ではない。裏に潜む闇のさらに奥には、想像もつかないぐらいの脅威が待っている。

 

 しかし、もう怯える必要なんてない。


 あの時、永絆に言った通り、蓮花もまた彼女と戦い彼女との日常を守ることに決めたのだ。


 ――菊田からの襲撃があった時、蓮花は真っ先に奴のもとへ向かった。


 黒い大剣――『冥剣』を振るう永絆を信じ

て、蓮花は真っ先に摘むべき芽を捉えて。


 そして、剣を振りかざした。


『屋上のスナイパー』なんて呼んだ割には、狙いも定まらず、怒り狂った蓮花に対して腰が引けて手ごたえも無い。


「安全圏から臆病な手を使ってあたしを追い詰めた割には、拍子抜けするぐらい弱いんだね」


 そう冷ややかに放った時には既に、蓮花の魔剣は菊田が剣を持つ腕を捉えていた。


「――アイリスの何倍も、苦しめよ」


 濃霧が炸裂し、菊田の腕が魔剣を握ったまま切断された宙を舞った。無感動にそれを見遣り、蓮花は倒れ伏す菊田の蒼白な顔に切っ先を向ける。


「ご、めん、なさい……っ、ごめん、なさ」


「もう遅いよ」


 復讐は成す。アイリスの仇も取る。だけど、果たしてあの愛らしい犬はそれを望んでいるのだろうか。怒りは醒めていき、されど冷酷な考えが蓮花を支配する。


 どのみち、藤実同様この男も生きていれば遅かれ早かれまた危害を加えてくる筈だ。存在が有害。蓮花にとってはまるで無意味。だから、文字通り斬り捨てる。


 そう思って、今度こそとどめを刺そうとして剣を掲げて。


 瞬間に魔気と魔剣の――何より大好きな人の気配がして、少しだけ蓮花は我に返っていた。



「言ったでしょ。『忘れ物』を取りに行くって。だから付いてきて欲しいって」


 そんなはずがなかった。そんなわけがなかった。

 蓮花はただ、心細かっただけだ。怖かっただけだ。だから、『守る』という名目で永絆に魔剣を握らせ、再び縋った。


「『復讐』と言う名の忘れ物……でも大丈夫。もうじき、それも終わるから」


 終わらせたかった。本当に。


「ごめんね。そしてありがとう、——ナズ姉」


 いつものように彼女の名を呼んで、


「さよなら、あたしを弄んだ下衆野郎」


 本当の離別の意を込めて、魔剣を振り下ろした。


 ——そこから生じる筈だった死の匂いが感じられなかったから、やはりアイリスがまた止めてくれたのだろう。


 そして、そこからはあっという間だった。


 はじめは現実を受け入れられなかった永絆は、気が付いたら本質を突いてきて、気が付いたら歩み寄ってくれていて、気が付いたら彼女に抱き締められて告白紛いの文言を叩きつけられて。


 嬉しくて、申し訳なくて、『好き』の感情がとめどなく溢れ出してきて、同じぐらい身を刺すような痛みが心を蝕んで。


 でも、これだけははっきりと分かる。


 蓮花はもう、永絆に抗えない。

 彼女に何も隠すことが出来ず、彼女が好きだと言ってくれた自分自身にすら嘘をつくことは出来ない。


 そこまで、蓮花は救われて、支えられて、救われていたのだ。


 それが、蓮花の心が出した結論。

 それが、このエピソードの幕引き。

 それが、蓮花に加わった新たな感情の芽生え。


 これが、片喰蓮花が語った斬り傷。


 このメッセージを、永絆はどう受け取るのか。どんな返事を寄越すのか。

 

 時は再び舞い戻り、永絆は決断を下す。



 片喰蓮花と波月永絆の、小さいようで大きな一歩が、踏み出される——。

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