第7話
「大丈夫かなあ……。ファウバスィーヤは大丈夫だって言っていたけれど……。もし彼女に何かあったら……あったら……どうしよう……」
世界を滅ぼすしかない。
悪い考えに呼応するように暗くて重くて冷たいものが、固く蓋をしたはずの場所から染み出してくる。
自分では制御しきれないことは分かっていたけれど、ダギルハーズは片腕を押さえてぐっと我慢した。これを解放してはならないとよくよく理解しているけれど、独りで抑えきれる自信など微塵もない。
自分の腕を痛い程掴むダギルハーズの手に、そっと暖かなものが添えられる。小さなそれは二人の子どもたちのものだった。
「大丈夫だよ、お父さん。お母さんのことだもん、いつもみたいに笑って帰ってくるよ」
「そうだよ、魔物の首をお土産に帰ってきたときみたくるんるんで帰ってくるよ」
「うん……そうだね……」
娘と息子の慰めに薄く笑って、ダギルハーズは二人を抱き寄せた。父として子どもを気遣うべきであるのに、ファウバスィーヤが側にいないダギルハーズはてんで駄目だった。子ども達の小さな手で頭を撫でられ、それでようやく冷たいものをもとの場所に押し込められた。安堵の息を吐いて、ダギルハーズは子ども達を更に抱き締めた。
子ども達の暖かい体温が強ばっていた体にゆっくりと巡っていく。ダギルハーズは深く呼吸した。子ども特有の芳しい香りに体が弛緩していく。抱き締められてきゃあきゃあとはしゃぐ子ども達の声に気分も浮上した。
「二人ともありがとう。お陰で元気が出たよ」
「よかったー」
「えへへ~」
顔を見合わせて笑う子ども達を見てダギルハーズも目元を緩ませた。こんなかわいい子ども達のいる世界を滅ぼそうとするなんて、と頭を振る。
けれどファウバスィーヤのいない世界など想像するだけでも嫌だった。ダギルハーズに取ってなにより大切な、太陽のような存在、それがファウバスィーヤだった。
初めの出会いからファウバスィーヤは太陽のように眩しかった。
ファウバスィーヤとダギルハーズの出会いはなんとも情けないもので、街の悪童共にいじめられていたところを助けてもらったのが始まりだった。
その頃のダギルハーズは自分が世界で一番不幸だと思っていた。
実の母親からは邪険に扱われ、周囲からは生意気だなんだと難癖をつけられ、絡まれ、暴力を振るわれる。自分がいったい何をしたのだ、と毎日叫びたいほどダギルハーズの日常は辛いものだった。
そんな苦しいだけの日常にファウバスィーヤは現れた。短いやりとりだけで悪童共を追い払ったファウバスィーヤは、助けてもらっても素直に礼のひとつも言えなかったダギルハーズを見限ったりはせず、辛抱強く待っていてくれた。一言ありがとう、と言っただけでこれ以上ないほど喜び、満面の笑みを返し、ダギルハーズを驚かせた。
自分の言葉でこんなに感謝されたのは生まれて初めてだったダギルハーズは、まず困惑し、それから時間が経つにつれじわじわと喜びが滲んできた。繋いだファウバスィーヤの手は、彼女の人となりと同じく暖かかった。
生きていても良かったのだと、生まれてきて良かったのだと、初めてダギルハーズが思えた瞬間だった。
物心ついた頃から母親に笑顔を向けられた覚えがなかった。ダギルハーズを見れば顔を歪め、お前がいなければ、いるせいで、お前なんか産まなければ、いなければ良かった、と恨み言を吐かれるのが常だったから、それを悲しいものだと認識していなかった。そういう
家の外で見かける仲の良さそうな家族にそうではないと思い知らされて、悪童共に聞きたくもないことを言われて、暴力を振るわれて。こんな世界早くなくなってしまえ、と思うのに時間はかからなかった。
けれど、ファウバスィーヤは諦めて壊れてしまえと思っていた現実に、間違っていると声高に抗議した。母親に正面切ってダギルハーズを素晴らしいと称賛し、持ち得る限りの語彙を尽くして誉めちぎり、罵倒を訂正しろと詰め寄り、遂には母親を論破した。勢いで圧倒したとも言う。
以来、母親はファウバスィーヤに怯える様になり、彼女が家に来ればそそくさと席を外し、酒を飲んで理性が外れた時を除いて罵倒しなくなった。ダギルハーズは家で呼吸がし易くなった。
正直なところ、自分の人生を
けれど、ファウバスィーヤの言ういつか分かってくれるわ、という言葉を信じてみたい、と思うようになった。
母親は変わらずダギルハーズを誉めることも好きになることもなかったけれど。
学舎で一番の成績を取って、町長の親戚に見込まれ養子に、と申し出があった時に浮かんだのは一番にファウバスィーヤのことだった。彼女と一緒にいられるなら、と駄目もとで出した条件を呑んでもらえて、これでずっと一緒にいられる、と喜んだ。母親のことは欠片も考えなかった自分を薄情だと思ったが、愛してくれない人間をいつまでも慕っていなければならない理由など、ダギルハーズにはなかった。
ファウバスィーヤが言うから王都に保護者として連れて行く気になっただけで、本当は縁を切ってしまいたいくらいだったのだ。
──だから、実のところ。
泥酔した母親が自業自得で死んだとき、ダギルハーズは心の底で、ほんの少し安堵していた。これで母親に煩わされずに済む、と。
けれど、ファウバスィーヤに抱き締められて、悟った。
死人と関係が悪くなることなどない。けれど、良くなることもない。
自分はもう一生母親から欲しかったものが与えられないのだ、とダギルハーズは悟った。
うんざりしていた。嫌悪の心も芽生えていた。
それでも、いつか。
ファウバスィーヤの言うように笑いあって過ごせる日が来るのではないか、と。そう思っていたのも事実だったのだ。
襲ってきた心の冷えに伴って、凍えて震えるダギルハーズの体をファウバスィーヤがずっと抱き締めて、泣いてくれなかったら、どうなっていたかわからない。
その時の寒さを思いだ仕掛けた体が勝手に震える。ダギルハーズは子ども達を抱き締める腕に力をこめた。
「お父さん? くるしいよ」
「さむいの? 震えてるよ」
「あのね、二人とも」
呼び掛けに子ども達がダギルハーズを見上げる。姉のカザーラはファウバスィーヤそっくりの、弟のフラートもファウバスィーヤによく似た瞳にダギルハーズを映していた。
「もしもお母さんがこのまま帰って来なかったら、お父さん、きっと世界を壊しちゃうと思うんだ。だからその時は世界が壊れてしまう前にお父さんを殺してね」
ダギルハーズはは眉を下げて、申し訳無さそうに頭も下げた。
「おとーさん!」
「なに言ってるの!」
「おかーさん帰ってくるもん!」
「かってに覚悟決めないで!」
子ども達は父のあんまりにもあんまりな言葉にもちろん泣き出した。大好きな母が帰って来ないのだって悲しいのに、大好きな父を殺せだなんて、泣くしかない。
ダギルハーズの服を左右から引っ張り合って、声の限りに泣いた。それがまた妙に気の合った引っ張り合いで、
「も、もしも、もしもの話だから、二人とも落ち着いて……」
「おかあさんかえってくるもんんんん」
「おとうさんしんじゃやだあああああ」
「ごめん、ごめんね、お父さんが悪かった、お母さんはちゃんと帰って来るもんね、大丈夫、ごめんね、お父さんも死なないよ、だから放して……」
「うええええええええええん」
「うああああああああああん」
「ごめんね、本当にごめん、お父さんが悪かったから、二人とも揺らすの待って、ちょっとお父さん酔いそう……目が回ってきちゃった……」
そう言って顔を青ざめさせたダギルハーズを見て、子ども達は泣きながらようやく服から手を放した。そうしてダギルハーズに抱きつく。途端、感じる服の濡れた感触に、ダギルハーズは猛省した。
不安を隠して気丈に振る舞ってくれていた子どもに甘えすぎた。
「あら大惨事。どうしたの?」
「ファウバスィーヤ!」
「おかーさん!」
「お帰りなさいぃ!」
「うふふ、ただいま!」
勝利のポーズをばっちり決めたファウバスィーヤがそこにいた。
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