妄想


「味方」が消え去ったことについては、僕はなんとも思わなかった。


 殺したわけでもなければ、死んだわけでもない。


 彼女は僕に対して何もしなかったし、僕も何もしなかった。だから、間違ってもここで悲しいという感情を抱くのはありえない。


 むしろ、邪魔者が消えて、せいせいしたと思っていた。


 それによって、僕はこのどうしようもない三年間を振り返ることができた。


 ——と。


 僕はそこで気づくのだ。


 たぶん、高校三年間で一回も会話をしなかったのは、僕が最初で最後だろう。


 あたりまえのことだ。なのに、それにどうしてこれまで気づかなかったのだろう。


 誰とも話さずに三年間を過ごした。


 誰とも、話さない。


 そう思うと、不思議とこれまでの高校生活が濃い霧に包まれたようになって、少しだけ悲しくなる。


 深い霧の中、僕はいつものように屋上につながる階段の踊り場でクラシックを聴く。


 下の階は、霧に飲まれて、何も見えなかった。


 屋上につながる扉は、かたく閉ざされている。


 重く、冷たい金属は、まるで絶対に開かないように決められているかのようだった。


 それを叩く。叩く。


 ——コンコン。


 開かない。


 ドアノブを回す。回す。


 ——ガチャガチャ。


 ようやく諦めて、また下を見た。


 やはり、白い霧で何も見えない。進んではいけないと警告されているようだった。


 窓の外を見る。


 一羽の小鳥が空中で静止している。


 羽を大きく広げ、空を滑空しているところで、ピタリと固定されている。



 時間が止まっている?



 ——違う。


 止まっているのは、僕だ。



 僕だけが、時間の流れから切り離されて、いつまでもこんなところにいるんだ。



 それに気づいた瞬間。


 霧はどこかに帰るように一気に逃げていった。


 階段を下りる。


 教室をのぞいた。


 みんな、騒がしく昼食をとっている。


 後ろから女子生徒たちの笑い声。


 僕ははっとして後ろを振り返る。


 彼女らは、僕のことなど眼中にないように通り過ぎ、また笑いあっていた。


 そしてその景色は、


 生徒全員の名前が呼ばれ終わっていた。


 ああ、妄想だった。


 僕は先ほどの灰色の世界を思い出しながら、体育館のステージにかかっている垂れ幕をぼうっと眺める。


 結局、誰とも会話をすることがなかった。


 それをまた考えていた。誰かと話したくなかった、と言えば嘘になる。


 僕だって、誰かと他愛のない会話をしてみたかった。


 けど、それらは僕の願いの前には、勝てっこなかった。


 それに、これはなのだ。


 仕方がない。


 仕方がない。


 もうあと数時間もすれば、このくだらない退屈な高校生活も終わる。


 そうすれば、僕の願いは叶って、このルールからも解放される。


 もう思い出すことすらできない、印象に薄かった入学式。


 暑い、という記憶しかなかった、体育祭。


 退屈でおかしくなりそうだった、文化祭。


 何度も憂鬱に潰されそうになった、委員会、球技祭、マラソン大会、エトセトラ、エトセトラ。


 それらはすべて、僕には必要がなかった。


 けど、どこかで僕を支えていくんだと思う。


 今は要らなくても、どこかできっと、それを思い出すことがあるんだろう。


 そして、それから僕はこんな妄想をするのだ。



 一緒に部活の体験をしたり、バイトをしたり。


 J-POPを聴いて、爆笑しながら、夜まで遊ぶ。


 ファストフード店で駄弁たべって、時間を潰したり、ゲームをしたり。


 夜風よかぜに吹かれ、感傷に浸って、またJ-POPを聴くのだ。


 成績は下くらいだけど、勉強会を開いて、赤点を回避したり、写し合いで宿題をどうにか終わらせる。


 夏休みに入って、短期バイトで金をたくわえ、プールに行ったり、誰それの家に泊まって、朝まで語り合う。


 部活に足を引きずりながらも参加し、教師に叱られ、過ぎ去ると、周りと教師たちのモノマネをしだす。


 制汗スプレーを貸し借りしたり、教科書や体操服を貸し借りしたり。


 いつの間にか部活を引退して、そして一人になる。


 勉強を始めて、毎日電車で単語帳とにらめっこをする。


 休み時間に、図書室で教え合いをしたり、塾に通いだす。


 必死に勉強をして、頑張って。


 大学に合格して、ガッツポーズをして、抱き合う。


 そして、涙を浮かべながら、この卒業式に参加する。



 ————涙があふれていた。



 悲しみの涙でも、痛みの涙でもない。


 これは、ねたみの涙だ。


 僕の周りにいる人間は、僕の思う高校生活を経験していても、不思議ではない。


 だって、それはありふれた青春なのだから。


 矛盾した自分が嫌いだった。


 妬ましいと思いながらも、それに飛び込まず、自分の願いをただひたすらに望むだけ。


 ちぐはぐな僕が、僕は嫌いだ。


 涙がまたあふれた。


 そこからは、よく覚えていない。

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