4 戦端、鳥羽伏見 ~七重と拓馬~
風冴ゆる京の闇の中を駆け、私は目的地に辿り着いた。
今出川にある薩摩藩邸は、京の大名屋敷の中でも一際大きい。
9棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいて、その資力、勢力の大きさを窺い知る事ができる。
一応実弾は持ってきたものの、銃に装填しているのは、以前大猪を捕らえた時に使った、麻酔弾を対人間用に改良したものだ。
兄を連れ去る以上、会津藩絡みの仕業と分かってしまうから、余計な恨みは買いたくない。
薬の量を調整したので、当たればいい感じに昏倒してくれると思うんだけれど。
門番の注意を逸させた後、黒い洋装の軍服に身を包んだ私は夜に紛れ、最も警備が手薄な勝手口のような門の脇から中に入った。
事前に仕入れた情報を頭の中で地図仕立てにし、それを頼りに兄が収容されている場所を探す。
途中、巡回の薩摩藩士を麻酔弾で5人程眠らせつつ、稽古場を改造した獄舎に辿り着いた。
室内に忍び込もうと近づいた所、灯を持った見廻りがやってきたので、私は柱の陰に身を潜め、すれ違いざま、首を手刀で打って気絶させた。
慣れない潜入にしては、我ながら中々の手際に、忍びの者としての才能もあったのかも、なんて思いながらそっと板戸を開く。
夜目は利くので、目を凝らしてみると、床で半身を起こした人物がいた。
男は唯々静かにそこにおり、痩せこけた様から、一瞬それが兄だとは確信が持てなかった。
すると、
「こんばんは。こんな夜更けにどなたかな。」
と兄の声が飛んできた。
「兄さま、迎えにきました。」
声をかけると、兄はハッと顔を上げた。
「まさか、四郎か?」
「四郎は戦で亡くなりました。私は七重です。」
「そんな……ああ。四郎が亡くなった?」
兄は震える手を差し伸べてくる。
それをしっかり握り返し、細くなった体を抱きしめた。
「四郎は……死んでしまいました。戦場で銃で撃たれて。」
言葉にするとやはり辛い。
肩を震わせている兄を抱きしめたまま、私達はしばし亡き弟へ哀惜の涙を流した。
「七重、髪を切ったんだね。」
兄は優しく頭を撫でた。
「はい。遅すぎたかもしれませんが。」
四郎への後悔が滲んでしまったのだろう。
「四郎は自ら望んで京に来ていた。お前が次男として過ごしていたとしても、きっと同じ事が起こっただろう。そして、お前が『もののふ』だったからこそ救えた命、助かった人がたくさんいたはずだよ。」
兄の言葉は優しく、私もそう信じたい言葉をくれる。
でもこの痛みは私が一生かかって向き合うものになるだろう。
「ありがとう、兄さま。ともかく、まずはここを出ましょうか。」
気を取り直し、兄の両肩に手を置いて促した。
すると兄は信じられないことを言った。
「七重、すまない、せっかく来てくれたのに。俺は行けない。ここに居ることにする。」
「何でですか?」
つい口調が強くなる。
「もう戦争を止めることはできない。それに今の俺は目が見えないばかりか、一人で満足に体も動かせないんだ。戦場で盲いた病人なんて足手まといにしかならないよ。」
「そんな。」
とても兄の言葉とは思えない。
「役立たずの俺なんかいなくても、会津には秀里がいるからね、滅多な事にはなるまいよ。それに俺は今、代筆してもらいながら建白書を書いているんだ。」
「建白書?」
「ああ、新政府が目指すべき国のあり方、国家体制や経済政策、教育などについて、日本が外国に負けない近代化を成し遂げるために必要な事を提言するんだ。上手くいけば薩摩公が目を通してくださるかもしれない。ああ、会津藩の弁明も記しているよ。会津と薩摩、国の行く末を憂う気持ちは同じなのだから、会津に対し公明正大な処置をお願いするつもりだ。残り僅かな命……俺は、新しい世につながるものを残しておくために使いたいんだ。」
一理あるが、剛毅な武人で鳴らした兄とは思えない言葉に、衝撃が止まらない。
「……ざけるな。ふざけるなよ。じゃあ、会津はどうなるんだ。やらなくても済む戦を始めたのは薩摩だ。旧勢力を一掃して、新政権にはずみをつける気満々なのは分かるだろう。なぁ、兄さまにとって会津はもう過去の事なのか?将来に向けた理想を語るのも時には必要かもしれないけど、今目の前にある困難を乗り越えるため、傷つく人々を救うために動かないなんて……曇ったのは目じゃなくて、心の方じゃないのか?」
強い言葉が口をついて出てしまう。
「七重……。」
「覚悟してよ。殴ってでも連れて帰る。嫌でも目を開かせてやるから。」
「七重、待てっ。」
力ずくで連れ出そうと兄の腕に手をかけた時。
「逃亡するならもっと静かになさい。」
気配のなかった戸口をみると、先日街道で出会った大男が立っていた。
「こんばんは。拓馬君、その子は……君の……弟さんだったのか。」
手持ち行灯の明かりをこちらに向けて、男は眉を下げた。
「私も、味方のはずの同胞に命を狙われた身だから分かるが、行ってしまっていいのかな。君はこの国をより良いものにしたいのだろう。我々は君を買っている。君の才を生かす度量が今の幕府側や会津にあるだろうか。私は留まった方が良いと思うが。」
私達の近くまで進みながら男は言った。
「私はずっと、貴藩との融和を図ってきました。海外の列強が、日本を侵略したがっている今、国内で争っている場合ではないとそう思っていたからです。だが……。」
兄は困ったように私を見た。
「戦況は我々が押している。旧幕府側の戦略が拙いこともあるが、拓馬さん、君が必死に唱えても会津の軍制改革は思うようには進んでいなかったようだね。槍隊と洋式銃部隊じゃ話にならない。祥山家、会津には勝ち目はないよ。そして、先程君が言ったように、今さら盲いた君が戻っても何にもならないのではないかな。」
黒々とした貴石のような瞳が、静かな迫力を伴って決断を迫る。
「兄さま、こいつらは平和的解決なんて望んじゃいない。戦の参加者に褒賞だって必要となるはずだ。薩摩藩らはこのままだと江戸を目指すだろう。その先には会津がある。会津がそのまま討伐を受けて滅亡することだってありうるんですよ。あなたは会津藩士であり武士だ。囚われのまま朽ち果てようとするなんて、私は許さない。」
兄を渡すまいと、私も声を上げた。
「東里さん。この子は私の事が心配で、様子を見に来ただけなんです。見逃してやってください。」
攻撃的になる私の口調が心配になったのか、兄は大男の方を向いて言った。
「見に来ただけ……ね。外で見張りが何人も気絶していたけれど……まあ、いいよ。その子には借りがあるから。どうする、拓馬君、弟と行くのかい?今なら、私しかいない。君が望むなら口裏合わせてあげてもいいよ。」
東里と呼ばれた大男は意外な事を言った。
「どういうつもりですか。」
兄の声も戸惑いを隠せない。
「裏はないさ。あるとすれば、先ごろ我々を助けてくれた、可愛い砲術士の女の子へのお礼と言ったところか。」
東里は私に向けてニッと笑った。
「兄さまに選択権はない。私は引きずってでも連れていくつもりだから。」
私は2人に向けて宣言した。
「……東里さん、俺は弟に誘拐されるらしい。」
仕方ないなという表情で答えた兄だけれど、声には生気が戻っている。
「拓馬君、私は本当に君を気に入っていた。後は任せなさい。養生のため合法的に出て行ったようにしてあげよう。」
「東里さん、かたじけない。」
兄は深々と頭を下げた。
「次会う時は、敵同士であろう私が言うのもなんだが、体に気をつけて。」
「東里さんもお元気で。戦など早く終結させて、この国の将来について語り合いたいものです。」
兄の声には大分力が戻っていた。
私も東里という大男にお辞儀をすると、兄を担いで薩摩藩邸を後にした。
「あったかいなぁ、七重。すっかり逞しい弟になってしまったね。安心して眠ってしまいそうだ。」
背中から兄が柔らかい声を出す。
「かまわないですよ。今だけ甘えさせてあげます。医者のところに着いたら容赦しませんけどね。」
私は、すっかり軽くなった兄をからかいながら、夜闇の京の道を歩いた。
「そういえば、ユイちゃん婚約したんだって?」
突如兄が言った。
「… …今それを言いますか。」
「どうするの。その姿なら、まだ間に合うかも知れないよ。」
「どうともなりませんよ。命は惜しいですし。」
下手なことをすれば、完全にあいつに殺られるよ。
「勿体なかったね。」
「はぁ。良いんです。彼女が笑っていれば。」
年頃になっても、彼女が一人でいたならば、私がもらおうか。
そんな事を夢想した事があるなんて言えないや。
女子姿でい続ける事を選択したあの時に、運命は決まってしまったのかも知れない。
恋はしまっておこうと決めたのは自分自身だから。
「まぁ、『どうしましょう、想いが通じ合ってからの方が、切なさや不安が増すんですけど。』みたいな、颯介の惚気の面倒まで見なきゃいけないのは、本当勘弁して欲しいですけどね。」
ため息をつきながら言うと、兄も軽く笑った。
「くくっ。損な役回りだね。」
「全くですよ。」
「諦めたなら、早く次の恋を見つけることだね。そして、女の肌に慰めてもらいなさいよ。」
「まだそんな気にはなれません。兄さまとは違うので。どうせこっちでも作ってたんでしょ、女の人。相変わらず最低……。」
「いい男は一人じゃ寝ないものなんだよ。子供だなぁ。」
「まったく。帰ったら義姉上に、ボコボコにされてください。」
「弱った兄に冷たい奴。」
良かった。兄さま調子が戻ってきたかな。
すっかり軽くなっちゃってさ。
絶対に治して、馬車馬のように働かせてやるんだから。
見上げると、いつの間にか雲が切れ、少し霞んだ天の川が冬の空に広がっていた。
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