小話 勤王の志士、草莽の臣
二条城御殿の黒書院にて、第15代将軍は、幕府の政権を朝廷に返上する「大政奉還」を上表した。
これにより、江戸幕府260年の歴史に終止符が打たれた。
一先ず倒幕が成ったということで、今宵は祝宴が催されている。
まるで、下剋上。戦国の世のようだ。
自分も含め、ここで酒杯を酌み交わしている者どもの多くは、下級藩士や、脱藩浪士、農商出身だったりと、元は大した身分でないものが多い。
それが、今や藩の重役などに取り立てられ、時代の中心にいるのだ。
この時代の転嫁期にあって、流れを読めるものは浮き上がり、その逆も然りということなのだろう。
我が薩摩藩は、先ごろまで戦相手だったはずの長州藩と手を結んだ。
軍制改革を行った長州は、この短期間で、軍備の近代化が進み、幕府軍に対抗しうるほどに戦力を強化して、討幕に燃えている。
これが怨念の持つ力か。
天下分け目の戦い、関ヶ原。
長州の祖は、西軍の総大将となって敗北した。
その結果、所領は約120万石から、37万石に削られ、長年苦汁をなめさせられてきたという。
その時からの恨みは260年経っても薄まることはなかったようだ。
また、近年の政変や戦争においても、長州は多くの血を流し続けている。
そうして、血まみれになりながらも研ぎ続けてきた復讐の刃は今、祥山家の息の根を止めようとしている。
関ケ原まで遡ると、薩摩とて禍根がないわけではないが、今回長州と同盟を結んだのは、戦況等を見た現実的な戦略にすぎない。
討幕も、実利を見極めた結果の選択だ。
悪いが、我々はこの流れに乗らせてもらう。
さらば、昨日までの友よ。
清廉潔白が売りなのかは知らんが、あれだけ京にいながら、我々のような公家の取り込みを一切せず、幕府と朝廷に言われるがまま勤めを果たすだけの会津藩。
あれでは、陰謀を巡らす
長州の怨みと一身に受け、憐れな事だ。
宴会から離れた渡り廊下の片隅で、訣別の意を新たにしているところに、突如ひとりの男が話しかけてきた。
「中はものすごい熱気だね、
振り返ると、長州藩の
「これは、
私は、空を眺めつつ頭を掻いて答えた。
「ははっ。その図体で下戸ですか。」
土岐さんは笑いながら、隣に腰を下ろしてきた。
「甘いもんは好きでして。」
立派に成長中の腹を撫でながら答えると、
「なんだ、存外可愛らしいお人なんだね。今度お勧めの京菓子でも差し上げようか。牛皮と餡の塩梅が良い、亥の子餅なんかどうだい。」
土岐さんは、にっこりと誘惑してきた。
「そいつは楽しみです。それにしても…… 浮かれ過ぎではないですかね。」
少し遠くに聞こえる、バカ騒ぎじみた声に辟易していうと、
「連中は、酒にも、自分自身にもすっかり酔いしれているんだろうね。なんといっても我々は『勤王の志士』らしいから。」
土岐さんはクスリと笑った。
「『子曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。』ですか。果たして、やっている事がそれに見合うものかどうか…… 命は賭けているのかもしれませんが、そこに『仁』があるかは甚だ怪しいものだ。」
「酷いなぁ。ちゃんとこの国の為を思っているさ。でもこの中の幾人が、状況をきちんと把握して動いているのかは分からない。戦いは正にこれからが本番なのにね。まあ、時代を動かすという自分に陶酔したまま死んでいけるのなら、それはそれで幸せなのかもしれないよ。」
土岐さんは意地の悪い顔をした。
「やはり、これからが本番ですか…… 。幕府を一旦終わらせたあの男、全く油断ならない。さすが、初代将軍の再来といわれる胆略家です。」
「本当に、大坂城での外交饗宴なんかヒヤリとしたね。うちが、せっかく取り込んだイギリスを持っていかれるところだった。今回だって、してやられたよ。」
土岐さんは難しい顔で眉を顰めた。
討幕派としては、実は大政奉還を喜んでなどいられない。将軍にまんまと先手を取られただけだ。
我々は朝廷に手を回し、勅を得て討幕に進む直前だった。
奴は、先に幕府を無くしてしまう事で、その動きを抑え込んだのだ。
素早い動きに、朝廷は直ぐに政務は取れない。
結局実務は、祥山家が取ることとなり、おそらくそのまま新国家での指導者に収まる腹づもりだ。
「強敵です。やはり、殺してしまわぬ限り、我々の将来には憂いが残ってします。」
思わず視線が鋭利なものになったのだろう。
土岐さんが苦笑いを浮かべた。
「やっぱり物騒なひとだな、東里さんは。俺は嫌いじゃないんだけれどねぇ、最後の将軍。私心を捨て去って、内戦を避けようとする様は本当にあっぱれだよ。土佐のあの男が心酔したのも分からなくもない。」
私と土岐さんは、我々を繋いだ今は亡き、土佐の風雲児に思いを馳せる。
「幕府、保守派も馬鹿な事をしたもんです。京都見廻り組に殺させてしまうとは。あの男は新体制の樹立を説いてはいましたが、戦争を和平に変えようと必死だったのに。」
「頭の固い連中には見えないのさ。だから滅びる。まあ、あいつを殺ったのは本当は誰かなんて分からないけれどね。武器を売りこみたい長崎の死の商人達、血を好む変態公家…容疑者が多すぎるから。」
「まことに惜しい男でしたよ。しかし私は、あいつと違って、革命には血が必要だと思っています。人は、痛みを伴わずに手に入れたもんには、その価値を見出せないと思いますので。ですから、新時代への憂いは、全て血の底に沈めてしまえばいいと思っていますよ。」
「全く、本当に物騒なんだから。」
「祥山家に思い入れのある藩は、新しい世には邪魔です。このままでは政局は安定しないでしょう。武力討滅は必須なんですよ。その中で、私の命も飲み込まれてしまっても構わない…… その位に思っていたんですがね。そして、戦が終わり、真の夜明けが始まる時にこそ、あいつにいて欲しかった。」
「ああ。」
私たちは、飄々と笑う男を思い出し、ともに月を眺めた。
「とっとと決めてしまいたいな。内乱に乗じて外国が介入してくるのは本意ではないし。」
土岐さんは厳しい表情をした。
「そして、戦が終わり、新しい政権が成ったなら、何百年と続く封建社会を変える大改革が必要となるでしょう。土岐さん、あいつがいない今、貴方が武力なき戦いの方もしていかなくてはならないですね。当分忙しそうだ。」
「東里さんも一緒にやるんだろ。」
「私はどこまでいっても『武人』だから。きっと、政策だ何だとなった時には役には立たないですよ。」
自嘲気味に言ったら、土岐さんに背中をバシンと叩かれた。
「いたっ!」
私を見る土岐さんの目は、楽なんかさせないぞと言っていた。
「さあて、東里さん。満月ではないときに月を長く見ていると、桂男に招かれて命を落とすことにもなりかねないというよ。そろそろ中に戻ろうか。こっそり美味い茶でも用意するからさ。」
そう言って立ち上がった土岐さんに促され、私も腰を上げた。
酒宴は益々熱気を帯び、皆夢を語る。
立身出世を望む志士たちも少なくない。
私は、役目を終えたら草莽の臣に戻りたいのだけれど、果たしてその願いは叶えてもらえるだろうか。
まあ、取り敢えずは戦か。
多少強引な手を使ってでも、戦争の大義名分を手に入れなくては。
この手を血に染めたとしても、成し遂げたい事が、守るべきものがあるのだから。
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