2 「颯介」
―もう死んでもいい。
湿った草の上に引き倒された後、男は舌でべろりと頬をなぞり、そのまま首筋に噛みついた。腕は押さえつけられ、びくとも動かない。
もう一人の男は自分の下帯をせわしなく脱ぎ捨てると、乱暴に僕の両足首をつかんだ。
最初は抵抗して声を上げたり、相手を突きとばそうとしたけれと、男たちは面白がるばかり。
ふと、虚しくなった。
本気で抗って、生きて、僕にそんな価値があるだろうか。
このまま、凌辱された上で殺されてもいいのではないか。
そんな気がしてきた。
それが、僕に似合いの最後なんじゃないかって…今朝感じた行かなくてはという焦燥は、この時を迎えるためのものだったんじゃないかって…
僕は、会津藩の徒組頭、白沢家の次男として生まれた。
けれど僕はほかの誰とも違っていた。
目は青く、髪は老人のように真っ白。肌も血など通ってないかのように白い。
子供の頃から妖の子と言われ、父や祖父に気味悪がられた。
なぜなら、見た目だけでなく、体質も妖のようだったから。
僕は何より日の光に弱い。日差しの強い日に外に出ようものなら、瞳や肌は赤く腫れあがり、高熱を出して倒れてしまう。
母は優しかったが、後妻ということもあり僕のせいでますます肩身の狭い思いをしていただろう。
腹違いの兄は優しかったが、僕と違ってすこぶる優秀だったため、父や祖父からは何かにつけて比較され嫌味を言われていた。
僕自身も、実は本当に自分は妖怪の子供じゃないかって思う時もあった。
僕は幼いころから妖が見えたし、身近な妖たちは僕に悪さなどせず、とても親切だったから。
そう、人間よりずっと…
8歳のとき、決定的な出来事が起こった。
黒い雲か空を覆っていたあの日、遠くに雷鳴が響き、僕は好奇心で外に出ていた。空に強い妖の気配があって、とても気になったんだ。
空を見やると、子犬のような妖が数匹、雲の合間を転がる様に駆け回っていた。
ピカピカする雷光の狭間を楽しげに行き来するその様子を僕も愉快な気持ちで眺めていた。
その時
「おい、妖怪。」
と声がかかった。
近所の子供たちが木刀などを持ってかけてきて、周りをぐるりと取り囲んだ。
「今日こそお前を退治してやる。」
「覚悟しろよ。」
言うなり彼らは、僕に打ちかかってきた。
慌てて頭をかばうものの、彼らは執拗に叩き続ける。
腕には焼けつくような痛みが走った。
こらえきれず膝をつくと、すかさず肩や背中に打ち込まれ、僕は倒れこんだ。
一人がわき腹を蹴った。吐き気がするほどの痛み。
続けざまに他の子たちも蹴りはじめる。
一人のけりが顔に入り、口の中が切れた。
口元から流れ出る血を見た彼らは漸く動きを止める。
「ざまあみろ、妖怪小僧め。」
「二度と姿を見せるなよ。」
彼らは口々に雑言を浴びせてくる。僕は遠くなる意識の中それを聞いていた。
そのうち、一人がこういった
「次は、こいつの母親だな。人間を裏切るとどうなるか思い知らせてやろうぜ。」
と。
―それはやめろ。
立ち上がりたいが体が動かない。あいつ等を止めなくては。
《止めろ!》
声がでたのだろうか、自分の声とも思えない響きが空間に響き渡った。
次の瞬間
強烈な光がジグザグに落ちてきたかと思うと、
「ズドォォォン」
という音とともに目の前に2体の妖が落ちてきた。
2尺ほどの犬のような姿の彼らが、ひと吠えすると、小さな稲光が発生し、僕を痛めつけていた少年2人が雷光を受けて倒れた。
「このくそバケモンがっぁ。」
怒り狂った少年は、僕の額を踏みつけて木刀を突き下ろした。
これは、終わったかもしれないな、と呆然と迫る切っ先を見つめていたが、
「カンッ」
という音ともにそれは弾き飛ばされた。
「大丈夫か、
少年から僕を引きはがし、腕に抱いた人物は心配そうな瞳でのぞき込んできた。
やったのは妖ではなく、駆け付けてくれた兄だった。
一方で、件の妖は止まらない。
咆哮をあげながら残りの少年たちに次々に稲妻を向ける。
「このままでは、まずいな。」
兄が僕を抱いたまま呟く。
横たわった少年たちは、体のあちこちにやけどを負い、苦し気なうめき声をあげている。
妖達の雷撃は次第に激しさを増し、周囲の木々にも雷を落とす。
地響きで僕たちの体も震えるほどだ。
「くらえ、このバケモノどもがぁ。」
先ほど兄に払われた中心格の少年は立ち上がると腰の刀に手をかけ、それを抜き放った。
そして、そのまま妖向かって突っ込んでいく。
それを見た兄は、素早く僕を地面に横たえると、少年の元に駆けた。
妖の一匹が空に飛びあがり、少年に牙を向けて降下していく。
兄は落下点に先に入ると、迫る少年の刃をはじき、力いっぱい彼を突き飛ばした。
うなりをあげて落ちてきた妖の牙は兄の肩に突き刺さった。
兄の苦悶の表情が見える。
「嫌だぁぁ。」
僕の悲鳴があたりに響く。すると妖達は動きを止めた、刹那、彼らは金の光となって天空に吸い込まれていった。
「兄上っ。」
僕は這いながら兄の元へ急いだ。
兄は答えなかったが、わずかに息をしている。
怪我はどれほどかと噛まれた場所をみて、僕は悲鳴を飲み込んだ。
そこには、噛み跡も血も無かったが、噛みつかれた右肩から指の先までが黒く焼け焦げている。
声にならない声で兄の名を呼び、僕は泣いた。
真っ黒い空からは大粒の雨が落ちてくる。
それはすぐに滝のような土砂降りへと変わった。
この一件では、奇跡的に死者はなかった。
しかし兄は右手を永遠に失ってしまった。
「腕の一本位どうってことない。雷獣が現れたのにみんな生きていれたんだ。幸運だったよ。」
何ともないことのように兄は笑ったが、周囲はそうではなかった。
大人は誰も見ておらず、僕も否定したため表向きは運悪く妖に遭遇しただけということになったが。裏では、僕が雷獣を呼び、少年たちを襲わせたということがまことしやかに囁かれた。
この日から、僕は見た目通り完全にバケモノということになったのだ。
家族は、僕を牢座敷のごとく屋敷の一番奥の部屋に閉じ込め、自由に外に出ることを禁じた。
大事な跡取り息子を傷つけられ、家名にも泥を塗るようなことになり、父と祖父の怒りはすさまじく、僕を切り殺さんばかりの勢いだった。
そして、その怒りはすぐに母に向いた。
バケモノの子をつれてさっさと出て行けとばかりに離縁の話が進んでいたのだが、心労が祟ったのか、母は程なく倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
離縁も間に合わず、他のどこにも引き取り手はなく、白沢の家に残ることになった僕は、なるたけ目立たぬよう、父の怒りを買わぬようひっそりと年月を過ごした。
父たちの目を盗んで訪ねてくる兄と話すこと、そして兄が差し入れてくれる書物(大体こっそり菓子もつけてくれる。)が唯一の生きる潤いだった。
3年ほど、そんな生活を続けていた。目立たぬように生きてきた甲斐もあり、父たちの監視も殆どなくなった。
兄は、今の生活を変えた方がいい、父にも一緒に掛け合うといってくれたけれど、僕はもう自発的に表に出たいなんて思うこともなくなっていた。
でも、今朝は朝から心がさざめき立っていた。
なぜか外へ行かなければならない気がして、落ち着かない。
意を決して、僕は頭巾で頭と顔を、大きめの羽織で指先までしっかり覆って表に出た。僕に無関心な家のものは誰も気が付かず、あっさりと家を抜け出ることができた。
幸い、薄曇りの梅雨空で僕には優しい天気だ。
人々の往来する通りに出ると、あらゆるものが動く様に圧倒されたけれど、久々に見る街並み、人の営みは新鮮でついキョロキョロと見まわしてしまう。
通り沿いには、雨粒の残る、伸び始めたばかりの白や薄赤のタチアオイが咲き誇り目にも鮮やかで、はっとするほど美しく感じた。
通りを眺めながら進むと、お寺の門前で市が出ていた。
売られている品々や人々の様子を、あれこれ夢中で見て回っているうちに、時はあっという間に過ぎ、空は鮮やかな橙と紫に染まっていた。
久しぶりの夕日にしばし見とれていた。
市もたたまれ、人々も帰り支度だけれど、僕はまだ帰りたくはなかった。
ぼんやりと、色彩を変えていく空を眺めていた。
そんな時、急に強い力で腕を引かれた。
あっ、と体制を崩したと思ったら、何者かに乱暴に抱えられた。
みると見知らぬ男二人で、僕を人気のない方へ、ぐいぐいと引っ張っていく。
振りほどこうとするが、相手の腕はびくともしない。
咄嗟のことで頭も心も混乱し声も出せない。
そして、人気のない草むらで押し倒された。
頭巾姿を女子と勘違いしたのかどうかは分からない。
ぎらついた眼で下帯を解きにかかる彼らが、僕に何をしようとしているのかは明らかだった。全力で抵抗しても歯が立たない。
途方もない絶望感が押し寄せた後。
ふと、もう死んでしまってもよいのではないかと思ったのだ。
このまま殺されるかもしれないが、生き残ったとしても、わずかに残っている誇りさえも失えば、生きている価値もない。
そもそも、大して存在価値がない僕なのだから。
全てをあきらめ、目を閉じようとしたとき、
「お前たち、そこまでだ。その子を放せ。」
と、凛とした声が響いた。
見ると、袴姿の少女が、木製の薙刀の切っ先をこちらに向けてにらみつけていた。
薄闇の中でも、映える緋色の髪が風にさらりと流れる。
キッと上がった眉の下の大きな瞳は強い光を湛えた瑠璃紺色。
-綺麗。
死にゆく僕が見る幻がこれなら、うん。悪くない。
そう思えるほど、その子は美しかった。
「ほう、別嬪さんが二人に増えたな。こりゃあいい。お嬢ちゃんも遊んでほしいってか。」
男は、いきり立った股間を見せびらかすようにして、少女に手を伸ばす。
彼女は全く動じることなく、無慈悲に男の無防備なそこを殴りつけた。
当然男は悶絶して倒れた。少女はすぐさま、驚くもう一人の男の溝うちに一発。仰向けにひっくり返ったところに、容赦なく急所にもう一発打撃をあたえた。
男2人がのたうち回る中、彼女は呆然とする僕の手をとった。
「立てる?」
と聞いてきたので僕は縦に首を振った。
「走るよ。」
彼女はその温かい手でぼくを引っ張り起こし、一緒に駆けだした。
しばらく夢中で走り、男たちが追いかけてこないことがわかるとようやく、立ち止まり息を整えた。
「よしっ、とりあえず追いかけてはこないみたい。君、大丈夫?」
彼女が心配そうに聞いてきた。
こんなに走ったのに、息一つ切れず、愛らしい瞳で見上げてくる。
いつにないほど心の臓が早鐘を打っている。
襲われた混乱か、全力で走った反動か、はたまた…。
僕はそんな状況に混乱していてうなずくことしかできなかった。
「あーあ、服がこんなに、よし、これ羽織ってなよ。」
僕の着物は乱れて、濡れて、破けていた。
見かねた彼女は自分の羽織を脱ぐと、僕に優しくかけてくれた。
彼女のぬくもりと、ふわっと甘く爽やかな香りが僕を包んだ。
僕がとても不安げな表情をしていたからだろう。
彼女は
「もう大丈夫だよ。」
というと、僕の乱れた髪を直しながら、優しく頭をなでてきた。
不意に、涙が込み上げてきた。
ほっとしたのもあったのかもしれない。
でもそれだけではない。
心の震えが、涙を呼び起こした。
胸が熱く、痛い。
ぽろり、ぽろりと涙が落ちる。
少女は、少し慌てたようだが、今度は優しく背中をなでてくれた。
僕の心はより高ぶり、一層涙が溢れてくる。
そう、これは悲しみではなく、喜び。
なんかもう、嬉しくて、幸せで、とにかく泣けてしまうんだ。
彼女はしばらく背中をなで続けてくれていて、僕が漸く落ち着いてきた頃、声を上げた。
「ほら、見て、あそこに蛍がいる。」
光の粒がふうっと横切っていった。
「あっち、もっと光ってるみたいだよ。」
彼女が手を引いて歩きだす。
田んぼの脇の水路近くに行くと、光の粒は一気に増え、ほわり、ほわりと優雅に飛び交っていた。
「綺麗…。」
蛍たちが織り成す幻想的な様子に思わず声が出た。
「本当に綺麗だね。私もこんなに観たの初めて。」
彼女が少し弾んだ声で答えた。
僕は漸くまともに声が出せるようになったので
「あの、さっきは助けてくれてありがとう。ほんとうに…本当に危なかったんだと思う。そして、あんなに泣いたりして、みっともないところみせてしまってごめんなさい。」
と、やっとお礼を言うことができた。
「そんな、あんな目に合ったら、びっくりして当然だよ。気にするなって言ってもすぐには難しいだろうけどさ、ほらこの蛍みたいに、嫌なことがあった分、いいこともあるよ。きっと、まもなくあんなこと吹き飛ばすくらいの、素敵なことがあるよきっと。」
そういって懸命に励ましてくれているけれど、彼女は知らない。
僕にとってとびきり素敵な出来事は今目の前で起きているということを。
―君に会えてよかった。
その後、彼女に(暗くなるまで出歩いたことに怒り心頭と思われる)家からの迎えが来たこともあって、僕たちは名のりあうこともなく、慌ただしく分かれた。
(彼女は送るといって聞かなかったが、僕の方が近くだからといって逃げるように去ったのだ。彼女に家族と一緒の僕を見せたくなかった。)
父たちは、予想通りに無関心だった。
兄だけは、暴漢に襲われたと聞いてとても心配してくれた。
そして、少女に借りた羽織の紋を見ると声を失った。
これが、僕と彼女との出会いだ。そして、僕はもっともっと彼女に会いたかった。
閉じこもっていては、彼女の所へは行けない。
僕は、助けてくれたお礼をきっかけに頻繁に
兄と挨拶に行った日、彼女は目を皿のようにして驚いていた。
「ええっ。男の子だったの?!」
どうやら僕のことを同年配の女子だと思っていたらしい。
その割には、あの日は夕闇で分からなかったであろう、僕の肌にも瞳にも髪にも異様さを感じていないようだった。
「嘘みたい。こんなに可憐なのに。うわぁ信じられない。」
彼女自身も赤みがかった髪に、濃紺の瞳をしているからだろうか?異質な僕の外見も自然に受け止めてくれた。むしろ、美しいとさえ言ってくれる。
僕は彼女にもう一度会う理由を探していたのだが、簡単な身の上を話してしまったからか、後日、向こうから思いもかけない提案をしてくれた。
一つは霊力の調整を学ぶこと。
彼女の祖母のサキ様は、とても霊力が強い。(これは、僕もサキ様も出会って瞬間にお互い感じ取った。)将来的には、本格的な師が必要だが、基礎的な御し方について、指導をして頂けることになったのだ。
そして、もう一つ。僕が、什(藩校に入る前の勉強仲間)にも入っていないから、一緒に勉強しようというもの。
彼女には江戸で学んだ梅子さんという教師がいて、かなり高度な勉強をしていた。
僕も書ばかり読んでいたから、独学ではあるけれど相当の知識をため込んでいた。
せっかくだから、一緒に学ぼうと誘われたのだ。誘いを受けたときの僕はそれはもう天にも昇るような心持ちだった。
きっとそこには、僕の境遇を聞いた彼女と彼女の家族、梅子先生の並々ならぬ配慮があったんだと思う。
そのおかげて僕は、外に出る機会を、学ぶ機会を、大好きな人と一緒にいる宝物のような時間を手にすることができたんだ。
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