小話 おやじたちの憂鬱
小料理屋の2階に通され、襖を開くと、そこには既にゆったりとくつろぎ、盃を傾けている30年来の親友の姿があった。
一応体裁を整え
「ご家老、遅くなって申し訳ありませぬ。」
と一礼すると、彼はひらひら手を振って
「やめてくれ、今日は俺達二人だけだ。昔通り、よっちゃん、たっちゃんでいいから。さぁ、一杯どうだい。」
と、笑みを向けてきた。
変わらずの気安さに、こちらも肩の力が抜け笑顔を返す。
盃を受けて美酒でのどを潤すと、
「しかし、今回は本当に助かりました。娘にあんな笑顔戻るとは、義勝には本当に感謝しきれない。」
と改めて礼を言った。
「なあに、俺の方こそ。うちのユイが毎日嬉しそうに梅子先生の話をしてくれるよ。最近は俺も仕事が忙しくて稽古に付き合えなくなってきたからありがたいかぎりさ。それに、聞けば四書五経や算学も素晴らしく秀でているとか、梅子さんの講義の様子を見たうちの家中の者も、藩校並みの水準だとすこぶる感心していたぞ。」
義勝の言葉に、胸が震えた。
「役に立っているなら、こんな幸いなことはないさ。私は会津に戻ってからずっと後悔していたから…。」
江戸で生まれ育った娘の梅子は、幼い頃よりたいそう利発だった。
我が家は娘二人で、男子がいなかったというのもあったかもしれない、学習意欲も向上心も旺盛な娘につい、目も手もかけてしまい、16歳になるころには、文武ともに同年配の藩士の子弟では全く歯が立たないほどの、強者に成長した。
江戸ではそれでも良かった。才ある他藩の女子との交流もあったし、理解ある師の存在もあった。
しかし、会津に戻ってより、みるみる梅子はその輝きを失っていった。
地域になじめず、これまでの美点を欠点とされ、これまでの自分を丸ごと否定されるごとに、娘は日に日に傷ついていった。
親としては、もう少し上手くやればよいのにと思っていたのだが、元来人付き合いに関しては器用な方ではないらしく、次第に思い詰めていったようだった。
食も細くなり、部屋に閉じこもることが多くなっていき、私もこんなことなら、江戸であのように才を伸ばす教育など受けさせぬ方が良かったかと後悔の日々を送っていた。
そんなある日、私の暗い表情を察して、義勝殿が声をかけてきた。
今でこそ筆頭家老という重職にあるが、同い年であり、
事情を話すと、逡巡した後、一つの提案をしてくれたのだ。
「うちの娘の教師になってはくれないか。」
と。
義勝殿の娘は幼い頃より病弱で滅多に表には出てこない。と噂されていたのだが、実情は少し違っていたらしい。
「いやー、ここ一年ほど娘の成長が著しくてな。子というものは伸びるときにはかくも成長することかと驚いてばかりだ。武芸をやりたいというから、母上に最初はお願いしたのだが、直ぐに上達してきて、母上を打ち負かすようになり、今では俺が相手をしている。」
「ご家老がですか、まだ11歳の娘さんですよね。」
「左様。しかもこれがまた筋がいいのだ。いやはや血は争えんのう。しかも、武芸ばかりでなく、書も読みたがってな、女子なので
昔から義勝殿は武芸の方が達者だった…。
「そんなわけだから、こちらとしても渡りに船だ。大野の娘が才気煥発だという話は、江戸からの便りでも伝わってきていたし。ここで、腐っているなど誠に勿体ない。ぜひお願いしたい。」
といういきさつで、今は娘同士が師弟関係となっている。
「ユイ様はおおらかでいて、向学心もあり、とても教えがいのある生徒だそうです。ご無礼ながら、男子であるなら、とても優秀な家老候補だったと残念がっていましたよ。」
「それはそれは、しかしユイの男勝りに驚いてはいなかったか?」
「うちのも大概ですから。でもはじめは少し叱られました。『お父様がかぐや姫のような方だとおっしゃるから、どんな姫様かと内心びくびくしておりましたのに、あれは牛若丸ではありませんか』とね。」
「ははっ。牛若丸とは。言い得て妙だな。」
「しかし、義勝殿はなんで私にかぐや姫のような娘だなんていったのですか。」
「それはだな、なんというか、時折あいつが空などを見上げている時に、遠くに行ってしまうのではと思わせるような、切なげな表情を見せる時があるのだ。何というか望郷の念のようなものを感じるときがあってな。…それにほら本当に輝くばかりに愛らしいだろう。」
と、義勝殿は幸せそうに笑う。
それから私たちは可愛い娘たちについて、しばらくの間、親馬鹿談義を繰り広げた。
「さてところで、少し仕事の話をいいか?」
義勝殿が先ほどまで下がっていた目じりを、キリリと上げて訊ねてきた。
「何なりとご家老様。」
と返すと、
「近頃の諸藩の様子、おぬしはどうみるか。」
と、ここの所ずっと我々の頭を悩ませているこの話を振ってきた。
「会津にとっては極めて良くないですね。桜田門の件以来、
「なるほど。さすがだな。」
「なんの、神谷君の受け売りですよ。」
「ほう、
神谷秀里は、私の甥で藩きっての秀才だ。
藩命を受けて長崎へ遊学したこともあり、国内事情のみならず、諸学国の動向にも明るい。ともに横浜に赴いたときなどは、外国語を操り、赤毛の夫人と会話しだして随分度肝を抜かれたものだ。その彼は今江戸家老の補佐をしており、今もこまめに状況を伝えてきてくれるのだ。
「神谷君が言うには、本当のところいつ戦が始まってもおかしくはない状況だそうですよ。」
「それほどか…。」
「幕府の緩慢な対応に、諸外国が痺れを切らしているという要因もあるようです。特に危険なのは、諸藩とつながる商人も出てきていることですかね。」
「それは、戦に備えてということか。」
「おそらく。武器弾薬が流れている可能性も否定できません。」
「くぅう。我が藩は金がないからのう…。ますます京都に行っている場合ではないな。」
今京都は、尊王攘夷を声高に叫ぶ浪人達が集まり、不穏な様相を呈している。
そのため、京の治安維持と公家の監視を強化するために、幕府より「京都守護職」という治安回復と御所の警護そして不逞の輩の取り締まる職の打診があったのだ。
「殿は京都行きの件、やはり受けるおつもりで。」
「火中の栗を拾いに行くようなものだと、進言したのだが、お心は変わらぬようだ。他の重臣どもも、
義勝殿は、そういってやりきれない表情を浮かべ、酒をあおる。
「ご家老、踏ん張りどころです。頑張ってください。こんな時に京都に赴き、治安維持にいそしむなど…財政的にも、政治的にも会津を窮地に陥れる危険なことです。」
藩の財政はここのところずっと赤字続きで、ここで京都行など…勘定方としても見過ごせない案件なのだ。しかも危険極まりない場所で。
「殿もそんなことは分かっているそうだ。分かっていてもやらねばならない時があるんだそうだ。わしは不忠者とまでいわれたぞ。」
「そんな…。ここ数年の干ばつなどの天災で米はずっと不作のまま、そんな状況なのに幕府より、品川砲台、蝦夷地の警備などを任され、財政は逼迫しています。十分尽くしたではありませんか。これ以上は無理です、祥山家が滅びなくとも、我が藩は破綻してしまいますよ。しかも京なんて。藩士の命がいくつあっても足りない…。ありえませんよ。」
「わしも、そう思う。だから、明日もう一度殿に掛け合おう。」
「お頼み申します。」
「微力を尽くすが、万一儂が手打ちになったら、母上とユイのことはおぬしに任せるからの。」
そういって、義勝殿はからから笑った。
翌日
義勝殿の健闘も虚しく、会津藩は正式に京都守護職を賜ることを決定した。義勝殿は殿の怒りを買い、家老職を罷免のうえ、蟄居を命じられたのだった。
時代の流れは激しく、我々にはとても厳しいものだ。
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