山田花子の場合

 栄伍は結局、上司の大坂に電話するのを選んだが、かけた電話口でこっぴどく怒られてしまい、速攻で一一〇番にかけ直した。


 所轄の警察官はそれから数分で現場に到着し、浅草と同棲相手の山田を署へ同行していった。

 もちろん、阿佐比と栄伍も自分たちの車両で警察署へ向かうこととなった。


 恋愛調査官は特別職司法警察職員であるが、職務執行できるのは、DV防止法、ストーカー規制法、レンコン法の三つだけである。

 今回、阿佐比が浅草を逮捕したのは、刑法第二〇四条傷害罪なので、今後の事件処理については警察へ引き継ぐこととなる。


 このあたりの事務処理規程については、調査庁が設立された当時に整備されており、調査官は調査に際して、関係犯罪により対象を逮捕した場合には所轄警察へ引継ぎを行い、発端となった状況の報告書などを作成することとなっていた。


 この日、栄伍と阿佐比が警察署を出ることができたのは夜八時を過ぎてからのことだった。

 正確に言うと、阿佐比作成にかかる書類は小一時間で完成、引継ぎと相成ったのだが、栄伍の書類作成が手間取ってしまったため、この時間となってしまった。


 途中、栄伍は

「これ、続きは調査庁に戻ってからってことでだめですか」

と阿佐比に尋ねてみたが

「こうした環境で書類を作るのも経験よ。やらなきゃ早くならないわ」

と一蹴され、周囲に強面の刑事がいる中で身を細くしながら書類を作ることになった。


 かたや阿佐比はというと、知り合いの警察官がいたらしく、なにやら話し込んでいた。

 時折笑い声が聞こえてきたり、楽しそうな様子であった。


 途中、大坂から

「まだか」

というドスの効いた電話が二回あった。

 栄伍は

「もうすぐできます!」

「もうすぐ警察署を出ます」

などと、そば屋の出前のような回答を繰り返して、大坂の失笑を誘った。


   ※※※


 栄伍の苦労が詰まった処理から三日が経った。


 浅草は山田に対する傷害の罪で勾留が決定し、警察署の留置場に入ることになった。

 しばらくは警察や検察の取調べが続くということだったので、栄伍と阿佐比は被害者の山田から話を聴くことにした。


 こんな事件が起きても、一応は浅草の免許受験申請は有効であったし、結婚関係でもない二人の恋愛関係のいざこざに関する事案はまさしく第三係の担当事務であったからだ。


 栄伍は阿佐比とともに、再び山田宅を訪れた。

 先日の暴力沙汰の痕跡はほとんど見られず、部屋はきれいに片づけられていた

「山田さんに伺っておかなければならないことがあります」

 阿佐比は神妙な面もちで尋ねた。


「浅草さんとの関係を今後どうするおつもりなんですか」

 これは業務上絶対に必要な質問だった。

 あんな暴力沙汰があった場合、当然に二人は別れるものと思いがちだが、そうではない。


 暴力を受けた女性は、

「あれは私が怒らせた」

「私に原因があった」

「今まで無かったことだから、もう二度とないだろう」

と口にするのを、この阿佐比も上野も何度も目にしている。

 そして、そうした女性達がすぐにまた暴力に遭うのを何度も見てきた。


 山田は

「警察の方ともお話してるんですが、彼、留置場ではすごく反省しているらしくて。私にも謝りたいって言ってるみたいなんです」

「じゃあ、山田さんとしてはヨリを戻すかもしれない、と?」

 思わず栄伍は口を挟んだ。


「あ、でも、まだ決めたわけじゃなくて。でも、一回彼と話してから決めてもいいかなって。今回は私が結婚免許のことで彼をバカにしたのがきっかけだったし…」

 いつものパターンにはまりつつある情景を見て、栄伍は内心ため息をついた。きっと、阿佐比も同じ心境だろう。


「山田さん、これだけは覚えておいてください。一度、パートナーを殴った人は、何かあればもう一度殴ります。これは絶対です」

 阿佐比が強い口調で言った。


「そう、なんですか……」

「そうです。だから、私はこれを機に別れることをおすすめします。はっきり言っておきますが、このような無免許状態での同棲関係で、パートナーを殴ったとなれば、免許取得にはかなり影響がでるでしょう」


「え?」

「結婚免許は結婚に向いていない人をハジく制度です。あまり認識されていませんが」

「でも、みんな持ってるし、形式的な試験なんじゃ…」


「ほとんどの人にとっては、そうです。でも、このケースはそうじゃありません。今後、浅草さんとのお付き合いを継続するのであれば、結婚という道が無いのかもしれないということを覚悟してください」


「え…そんな、急に…。どうしたら、どうしたらいいですか。私。被害届を取り下げて、彼が無罪になればいいんでしょうか」

 思わぬ方向に話が転んできた。しかしこれは、山田に浅草への未練が残っていたなによりの証左だ。


「そういうことを言っているのではありません。もうここまで来たら免許への影響は変わらない、ということを言っているのです」

「そんな…」

「…私の提案はここまでです。どうぞ、よく考えてください」

 阿佐比はそう言って話を切ると、今回のトラブルに関する法的な手続きについて、至極事務的に話し出した。


 山田はまだ浅草との関係について話したいようだったが、阿佐比は「別れた方がよい」とだけしか返さなかった。

 そうして一通りの説明を終え、部屋を辞そうとしたところ、山田が

「…結婚できなくてもいいです」

と言い出した。


 栄伍は浅草と別れるという意味かと思ったが、山田は

「結婚できなくてもいいから、彼と一緒にいます」

と真逆の意味であることを話し出した。


「別に彼と一緒にいるだけなら、結婚なんてしなくていいじゃないですか。どうして必要なんですか。そりゃ、私だって人並みに免許持ってるけど、これは皆が取りに行ったから取りに行っただけで…」

 山田の顔は真っ赤だ。


「結婚に資格なんて必要ないんじゃないですか。好き合ってる二人が一緒にいたいって言ってるんだから、それでいいじゃないですか。昔は婚姻届だけ出せばよかったんでしょう?」

 だが口調はどんどん強くなっている。


「結婚なんて個人の自由を国が免許にするなんておかしいじゃないですか」

 最後は涙目だった。

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