急
浅草一郎の場合
第八十四条(結婚免許)
他者と婚姻しようとする者は、恋愛調査庁の結婚免許(以下「免許」という。)を受けなければならない。
※※※
話は少しさかのぼる。
浅草は、花子と喧嘩した翌日には奈良第一支部を訪れていた。
事前に調査庁のウェブサイトで確認していたので、免許取得のために訪れるべきが「広報営業課」であることはわかっていたが、支部の受付で「訪問先」に加えて、「訪問理由」を訪ねられた際、
「結婚免許をとりたいんです」
と発言することが、自分にとって非常に苦痛だった。
もっとあっさりと口にできるかと思っていた。
しかし現実はそうではなく、絞り出すようにして声に出したそのワードは、自分の耳に音声として戻ってきた時に、自分の気持ちを沈みこませた。
受付の案内を受けてエレベーターに乗り込み、二階で降りると正面が広報営業課であった。
入り口の扉は両方ともに開かれたままで、アクリル板を備えたカウンターが入り口と水平方向に延びていた。
浅草の他に来庁者はいなかったらしく、中に入ると、先にカウンターの向こうに立っている女性から声を掛けられた。
「どのような手続きでのご来庁ですか」
浅草はもう一度、あの不快なワードを口にせねばならないことにいらだちを覚えつつも、
「結婚免許をとりたくて……」
と声に出したが、言い終わる前に
「直接試験のお申し込みですか」
と、声が
浅草が黙ってうなづくと、右手奥のカウンターを示され、そこで必要書類等について懇切丁寧に説明を受けることができた。
申請のためには、住民票などの公的な書類がいくつか必要なことがわかったので、記入用書類だけをもらって家に帰ることにした。
それからバイトの合間をぬって、市役所へ行ったり、今まで行ったことのなかった法務局とやらへ足を向けて、ようやく必要書類を集めることができた。
行く先々で「何にお使いですか」と聞かれ、その度にフラストレーションが溜まっているのが自分でもよくわかった。
「結婚」ということをこれまでの人生で考えてこなかったわけではない。
しかし、好きな女性と一緒に暮らせているだけで自分の目的は達しているのであり、なにも「結婚」という制度にのっかる必要など全く感じていなかった。
今回も、花子がそう求めるから、それに応えようとしているにすぎない。
だが、この心のざわつきはなんだろう、と浅草は感じていた。
愛する相手が求めるのならば、それに応えてやるのは当然だろうという感情と、なんだか政府の思惑に乗せられてしまっているような薄気味悪さと、型にはまってしまうような束縛感を覚えていた。
集めてきた書類に基づいて、申請用書類を作成する。
ただ、結婚したいだけなのにどうしてこんなに書類がいるのかと思うとイライラは増してきたが、そこはぐっとこらえた。
時折、花子が書類をじっとのぞきこんでくるが、なにやらニヤニヤしているようだ。
自分の思い通りに事が進んでいるのが満足なのだろうか。
書類作成で一番負担だったのは、申請理由を書くことだった。
「私は別に結婚という制度に賛成なわけではありませんが、交際相手の求めに応じて免許を取ることにしました」
などと書けるはずもなく、当たり障りのないことを書いておいた。
どうせ形だけの審査が行われるのだろうと頭でわかっていたので、この無意味な記入作業にはさらにイライラした。
辟易としながらも、半日で書類作成を終えることができ、その翌日に再度第一支部へ行った。
前回、丁寧に説明してくれた職員がいるかと期待したがおらず、無愛想な中年の男性が出てきたため、再度一から説明する羽目になった。
細かい書類の不備を指摘され、それを一つ一つ訂正する。
幸い、添付書類に問題は無かったので、その場で受理してもらえることになり、試験日も一ヶ月後に決まった。
家に帰ると、リビングのローテーブルに
「一発合格!結婚免許」
「結婚免許試験直前問題集」
「これ一冊でOK!結婚免許飛び込み試験」
などと題された本が五冊置かれていた。
どうも花子が買ってきたものらしい。
それから五日間は、テキストと問題集くびったけになって勉強することになった。
一日一冊のペースでこなし、五冊目が終わりかけになって、我ながら良いペースで勉強できているなと満足感を高めていたところだった。
久しぶりにスマホのゲームをやろうとアプリを立ち上げると、使用不能になっていた。
なにかアップデートでもあったのかと思い調べてみると、どうやら運営元が課金契約で配給会社と揉めて、アプリ提供停止の処分をくらったらしい。これから、お互いが正当性を主張して訴訟になるようだった。
だが、そんなことは浅草には関係なかった。
今はただ、このゲームで遊びたかっただけだ。
たったそれだけのことが、他人の都合でできなくなった。
皆、勝手に自分の都合を他人に押しつけてくる。
イライラしているところに、花子が声を掛けてきた。
「えーっと、じゃあ、問題出すね」
「は?」
「勉強手伝ってあげるよ♪」
花子は上機嫌で問題集をめくっている。
花子に全く悪意が無いことはわかっているが、今はそんな気分じゃないので無視していると、
「ねぇ、答えてよぉ」
と肩を揺さぶって聞いてきたので
「知るか。勉強したくて、してたんちゃうぞ」
と言ってやった。
すると花子は
「なによ、その言い方。人が手伝ってあげてるのに。大体、一郎が免許とってないのが悪いんじゃん。なんで高校の時にとらなかったのよ」
とブツブツ言いだした。
「結婚するにしろしないにしろ、結婚免許持ってるのなんて当たり前じゃん。結婚制度がどういうもんか知ってるのが、日本人としての最低ラインでしょ。それも無いなんてほんとありえない。そんな人がいるから、この国からDVがなくならないんだわ」
もうほとんど独り言になっている。
「ほんっっと、人の気持ちがわからないのね」
ここでキレた。
自分の中でブチッという音が聞こえた気さえする。
「人の気持ちがわかってへんのはお前じゃっ」
渾身の力を込めて花子の顔を殴ってやった。
今まで女性はおろか、誰にも暴力なんて振るったことはなかったが、自分の中の爆発を発散するにはこの方法しかなかった。
花子が悲鳴をあげて助けを求めている。
構わず、殴りつける。馬乗りになってさらに殴り続けた。
そうして気が付くと、いつの間にか見知らぬ女に体当たりされて、手錠をかけられていた。
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