風雲急を告げる
奈良県庁の裏手に存在する第一支部庁舎から車を西へ走らせること二十分。幹線道路から、二筋ほど奥に入った住宅街の中に、そのハイツはあった。
書類によれば、平日日中のこの時間帯でも浅草は在宅しているはずである。もしいなかったとしても、結婚を希望している相手の女性と面接し、宅内の調査をすることができれば、調査の内の一つ、家庭訪問はクリアすることができる。
そう思って、ハイツの外階段を上っていた時、ガラスの割れるような音が聞こえた。 栄伍の後ろを歩いていた阿佐比が駆け出し、狭い階段で栄伍の横をすり抜けて、二階の廊下へと駆け上がる。
栄伍も早足でついていくと、二階の廊下に着いた時点で、今度は男の怒号が聞こえた。
「……おまえが……ふざけんじゃねぇっ!」
「もうやめてっ」
続いて女性の悲鳴も聞こえる。
もしやと思って、浅草の居宅玄関まで行ってみると、案の定、その声は浅草の家の中から聞こえていた。
栄伍はどう対処すべきかと逡巡していたが、阿佐比は迷わず玄関のドアを開け放った。
ドアには鍵はかかっておらず、狭い玄関には男物と女物の靴が複数散らばっている。
玄関からは奥へと通ずる廊下が延びており、突き当たりはLDKのようで、そこのドアも開け放たれていて、部屋の様子が見える。
LDKのフローリングに女性がうつ伏せに倒され、男が馬乗りになって、女性の髪を引っ張っている。
「この、このっ、あやまれっ」
男は栄伍達に全く気付く様子はなく、髪を引っ張っては女性の頭をLDKに何度も打ち付けていた。
女性の顔は赤く腫れ上がり、右目のまぶた辺りから出血していた。
女性は泣きながら、許しを請うているが男は全く聞き入れる様子はない。栄伍は写真でしかまだその男を見たことがなかったが、間違いなく浅草であった。
打ち付けられている女性は同棲相手の山田であろう。
阿佐比が
「やめなさいっ!」
と、男の数倍の大声を発して廊下を突進した。
そうして、右肩を前にして浅草へ体当たりをぶちかました。
阿佐比らの存在を全く意識していなかった浅草は跳ねとばされて壁面に設けられていたローボードに直撃。うつ伏せに倒れた。
阿佐比は構わず、浅草に馬乗りになると、後頭部を左手で押さえて、男の右腕を捻りあげた。
「上野、時間っ!」
阿佐比の鋭い声が響く。彼女の視線は浅草の挙動を注視するのに全力が振り向けられている。
「えっ?」
一瞬意味がわからず、栄伍は戸惑った。
そしてすぐに『逮捕時間』を意味するのだと思い至り、
「あっはい、午後三時二十二分です」
と時計を見て言った。
「浅草一郎、傷害の現行犯で逮捕する」
阿佐比は、捻りあげた腕をそのままに、左手を後頭部から離して自分の腰の後ろに回して手錠を取り出した。
浅草の右手首に手錠がかけられる。
阿佐比に馬乗りになられてなお、じたばたと動いていた浅草の動きが止まった。
事態の重大さにやっと気づいたのだろうか。それともこれ以上の抵抗の無駄を鉄の輪で理解したのだろうか。
続いて阿佐比が、左手にも手錠をかけ、浅草の身体を調べ始めていた。
(ああ、凶器がないか調べているんだ。次は俺は……)
現行犯逮捕、という行為を初めて目の当たりにした栄伍は、とりあえず警察を呼ぶために一一〇番通報するのか、上司である大坂に状況報告するのか、どちらを先にしたらいいのだろう、と、非常に新人らしい悩みで時間を無駄にし始めていた。
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