破
上野栄伍は新任調査官である
第二条(基本理念)
国民は、恋愛及び交友関係の正常化及び婚姻制度の再構築の必要性に対する理解を深めるとともに、正常な婚姻制度の構築実現に寄与するよう努めなければならない。
※※※
もちろん、書生とも縁はなく、恋愛調査庁奈良支局奈良第一支部調査課第三係の係員である。
役場らしく大変長ったらしい所属名であるため、部内電話の応答の際には
「はい、奈良第一調査三係、上野です」
と応えるようにしている。無論、自分で考えたのではなく、先輩諸氏が電話でそう応答しているのを聞いて真似しただけなのであるが、これでも長すぎて何度か舌を噛み、したたかに血を流した。公務災害にならないのだろうかと本気で考えたことがある。
上野の仕事はDVやストーカー以外の恋愛関係にもとづくトラブルの解決と調査である。
つまりは恋愛関係に留まっている状態でのトラブルであるが、これはトラブルの総数がDVやストーカーに比べて少ないので、実際にはDV担当の第一係やストーカー担当の第二係の応援に行くことが多い。
係といっても、上野含めて三名体制であり、上野の他に係長の大坂、主任の
課の執務室は、課長席が一つ、各係ごとにデスクが三つずつ並んでおり、その他に事情聴取するための部屋が三部屋、渉外用の応接室が一つあるだけだった。
コーヒーを入れたり、持参した弁当などを入れる冷蔵庫は、バックヤードにこじんまりと設けられており、一般来庁者の目に触れることはない。室内の調度も、いわゆるお役所的な無機質なものであり、全面灰色と形容しても間違っていない。
唯一、課長のデスクのすぐそばに観葉植物が鉢植えされているのが、室内の緑の全てだった。
資料関係は全て壁面のロッカーに納められており、収納という意味では非常に機能的な執務室といえる水準だったが、若手の栄伍にとってはどれも同じに見え、どこに何があるのかを把握するのに半年かかった。
そもそも、入庁してまだ二年目の栄伍にとって、恋愛調査庁の業務自体、慣れないことが多い。
そもそも、誰かと恋愛関係になったことのない自分がこのような仕事に就いていていいのだろうかと思うことがあった。
また、栄伍は恋愛調査庁が第一志望だったわけでもない。
国家公務員の総合職試験に合格はしたものの、成績順位の低さから希望の官庁(法務省が第一志望、警察庁が第二志望だった)には門前払いを食らい、もう何番目の志望かわからないくらいの順位で書いていた恋愛調査庁にひっかかったのだ。ひっかけられた、と言ってもいいかもしれない。
恋愛調査庁は、新法成立以来、それはそれは不人気行政庁であった。
栄伍なりに、入庁してよいものかどうか葛藤はあったが、今更民間に志望を変えるつもりも熱意も無かったので、法律に携わる仕事ができるなら、という安易な考えで入庁を決めた。
しかし、そこで待ち受けていたのは、新人研修の名の下に行われる軍隊ばりの初任訓練であった。
特別職司法警察職員たる恋愛調査官は、警察官職務執行法の一部準用が許されており、武器の使用、つまりは拳銃の所持が認められていた。
一般人は拳銃を所持することができない。
この日本国において、それが認められているということは、厳格な規律に縛られ、それなりの訓練を突破しているという評価が必要であった。
警察と違って歴史の浅い恋愛調査庁は、それを厳しい訓練によって対外的に示そうとしていた。
この方策は、のちに全くの無駄であったことが世論調査で判明し、大幅に方向修正が加えられることになるのであるが、上野が入庁したころには、まだその気配はなく、三ヶ月に亘って厳しく辛い訓練を受けることとなった。
この三カ月の間に、上野は「もう辞めてやる」と百回以上口に出し、千回以上は頭の中で実行プランを練っていたのだが、目の前の給料と同期生との友情に励まされてなんとか訓練を終えることができた。
そうして配属されたのが、ここ奈良第一支部であった。
恋愛調査官は国家公務員であるため、全国転勤が基本であるが、ある程度の出世をあきらめれば、地方での固定勤務も可能である。
栄伍はまだ新人であり、自分の将来について何の感慨も抱いていなかったので、訓練修了時における希望任地についても、白紙回答をしていた。
結果、関東出身の栄伍には縁もゆかりもない古都奈良の地へ赴くことになったのである。
奈良第一支部は奈良県の県庁所在地である奈良市を管轄する三つの支部の内の一つである。
東大寺や春日大社、興福寺といった世界遺産古都奈良のある地域を中心とした奈良市街を抱えており、県下において取扱い件数は最も多い。
といっても、東京や大阪といった大都市に比べれば、所詮は一地方都市である。
「のんびりした面もあるのが、良いところだ」と着任したときに、係長の大坂が話していた。
栄伍が浅草一郎の件を聞いたのも大坂からであった。
「広報営業から調査が一件入った。飛び込みで免許試験を受ける男の調査だ」
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