第18話 恋です
あのとき、キスまでしておけばよかった。
朝ご飯に出たキスの天ぷらを眺めながら、頭がぼんやり考える。霧がかかったようで自分の思考さえ判然としない。
ああ眠い、ねむい……朝だからってここまで眠いのは久し振りだ。
というか、朝に天ぷらって。昨日の残り物か。わたしの親らしい。しかしキス一匹、これでどうやって茶碗一杯の白米を食べろというのだ。
「柚葉。早く食べなさいよ」
「はーい」
抑えめな声に急かされて口にしたキスは、脂っこくて冷やっこい。
キスなんて罪作りな名前だ。昔の魚学者と文学者は相当仲が悪かったのだろう。それとも口から食べるとおいしいとか? だとしても、もう頭はないぞ。
わたしのキスあげる、とか言ってメイに迫ったらどうなるかな。十中八九こっちじゃない方を想像される。そうして照れて……うやむやになるか。それでも迫ったらどうなるかな。メイなら受け入れてくれる、だろうけど……。
「ほら、柚葉。天ぷらが冷めるよ」
「もう冷めてるよ」
強気には強気を返す。わたしもいっぱしの思春期っぽいところはあるのだ。
口にした天ぷらは、やっぱり冷たかった。
◆
サボった日から一週間。なにが変わったかと言えばなにも変わっていない。わたしとしては盛大な告白をしたつもりだし、メイも盛り上がっていたはずだ。
人はそう簡単に変われないということかな。そもそも今のわたしとメイがどういう状態なのかもわからない。わたしの想いを受け入れてくれたのだろうけど、それを確認する方法もないし……結局は不安なのかな。自分が思っているのと違う答えが返ってくることが。
告白までして不安に駆られる精神、我ながら軟弱じゃ。
「柚葉ちゃん、おはよう」
「あ、あやや。おはよう」
「あやだよ」
自分の席に座っているわたしは綾矢を見上げる。後ろから佐紀がちょこんと顔を出した。
「おはよう。柚葉。元気ないわね」
「そう? おはよう」
「顔は変わらないけど声が低いわよ」
鉄面皮で悪かったな。目線で訴えたが、まったく気づかない。
「ふたりって仲直りするの早いよね」
仕返しのつもりでちょっと前の出来事を掘り返す。1日に何度も喧嘩と仲直りしていたことは記憶に新しい。
ふたりは顔を見合わせてから、不思議そうに言う。
「そうかな?」
「そうらしいわよ。ほら、機嫌が悪い日、柚葉の目の前でやったし」
「あーあれ……恥ずかしいところを」
双子も大変だな。機嫌が悪い日は誰にでもあってどうしようもないし、そりゃ喧嘩にもなる。
「あれは仲直りってより、正気に戻る感じだよね」
「言いたいこと言うとスッキリするわね。なんでも言える相手がいて助かるわよ、まったく」
あの喧嘩はそういう機能も果たしていたのか。わたしは突発的に浮かんだ邪な思いつきを脳の片隅に追いやるべく、冗談を考え出す。
「佐紀は綾矢にもっと感謝した方がいいよね」
「な、なんでよ!」
「そうだよ佐紀。次の土曜日、女の子らしい服を買いに行こうってば」
「わたしは今の方向性でいいのよ」
この間と似たような言い合い、でも喧嘩にはならない空気だ。
思い違いをしていたのかもな。ふたりは仲直りが早いというより、これ以上ないくらいの仲良しで、常に手を取り合っている。あのときも人間的な障害に立ち向かっていたのだ。
あるいは、それが理想なのかもしれない。
◆
隣の教室のドアを開けると、毎度のことながら教室中の注目を浴びる。嫌だと思いつつも、メイのためならと視線の矢を突っ切っていく。半ばまで進んだところで足を止めた。
なんとなく目を落とすと、目の前の席にメイが座っていた。メイはなぜか緊張したように顔を強張らせている。
「席替えした?」
「うん。今日」
そう言えば3時間目だかに隣からうるさい物音が聞こえていたな。
「こんな時期に?」
「クラス中の希望で……」
担任はさぞ困っただろう。高校生は主張も強くて厄介だ。
どうでもいい話をしていたら、メイを立ち上がらせるタイミングを逃していた。わたしは手を差し伸べる。
「では行きましょうか、姫」
「ひ、ひめ……」
メイは俯いて手を取った。冷たかった手が急激に温もりを持つ。
ツッコミより照れを引き出してしまうとは、メイの王子様としては失格だな。わたしは自嘲気味に笑う。
しかしメイは茹だったような瞳を真っ直ぐに向ける。
「参りましょう、姫」
胸の辺りがざわめいた。味な真似してくれるじゃないか、かわいいなこいつめ。
さっきまで確かに感じていたはずのメイの温もりがわからなくなる。自分の体温と混ざってしまった。
考えるより早く体がメイを意識する。教室から出て行くまで、あるはずのない大量の視線に当てられている気がした。
誰もいない別棟への渡り廊下まで来ると、ひどく安心する。同級生の騒がしさも遥か彼方に、わたし好みの静かさだ。
この胸の鼓動以外は。
「メイ、手」
「あ!」
自分を包んでいた手が離れ、気持ちが盛り下がった。
「ごめん、嫌だった?」
「違う。もっと」
手を追って握り直す。メイは突然ふらつき、咄嗟にそれを支えた。ダンスのワンシーンのように密着し、わたしがメイを覗き込む格好になる。
「メイは、嫌じゃない?」
「あ、えっと」
「わたしは好き」
「わ、わたしも……」
赤くなった頬を見せられた。きっとわたしも赤くなっている。好きと囁く恥ずかしさを勢いで振り切っただけだ。
やがて必死に主張する羞恥心に耐えきれなくなり、ぎこちなく離れる。
「い、いこっか」
「う、うん」
気まずくなってしまった。
偶然とはいえ若気の至りが過ぎる。自分が恥ずかしくてたまらない。鉄面皮でも上気する気持ちは止められないのに。お互いに火の玉染みた顔を見ていないのが救いか。
これでいいのか――ふと思い出す。綾矢と佐紀が喧嘩という形で障害を倒しているのは、信頼があればこそ。わたしももっとメイを信頼するべきだ。
意を決して振り向く。真っ赤に染まった顔、静かに荒い呼吸、右往左往する視線はわたしをかすめる。火照っていると言い表す方が適切だった。
見てはいけないものを見てしまった。一瞬でわたしは罪悪感に取りつかれる。
空き教室の前に着き、足を止めた。
どちらもドアを開けようとしない。
ならばとわたしが手を伸ばすと、メイの手と触れ合う。
「あ」
「ゆっ……ごめん」
「いや、こっちこそ」
不明瞭なやり取りを経て、わたしがドアを開ける。
これじゃあカップルとは言えない。
やっぱり付き合ってないのかな。
入って真っすぐに、中央にセットされている机と椅子に向かう。空き教室はその様相を変えることはない。ここは安心する場所だと、今さらながらに思った。
「…………」
「…………」
メイといるにしては珍しく、居心地の悪い沈黙が降りる。だからって教室から出ようとかそういうつもりは微塵もなく、ただ時間が流れるのを待っていた。
こういうときは話題が必要だ。この空気を忘れてしまえるような話題が。
「この空き教室、ずっと空いてるよね。前はそうでもなかったのに」
「そ、そうだね」
「ずっと鍵を閉め忘れてるのかな。この机と椅子が戻されてたこともないし」
「うん、そうだね」
静寂が戻った。会話が続かない。
しかしわたしはこの勢いを失うわけにはいかないと、お弁当に手を伸ばす。
「食べよう。お昼休み終わっちゃう」
「そうだ……そうしよう」
角張ったやり取りになった。
ふたりしてお弁当の蓋を開け、メイのものをチラリと見る。
「その卵焼き……」
「な、なんか変かな」
「ううん、綺麗」
そう言うとメイは、えへへ、と目尻を柔らかくした。椅子の上をこするようにもじもじする。
わたしの視線はメイに移っていた。
「これ、わたしが作ったの。巧くなれたみたいだね」
「そう。メイはいいお嫁さんになれるね」
口にしてから、とんでもないことを言ったと慌てて手で抑える。
メイはポカンと口を半開きにしていた。
「プロポーズ?」
「違う!」
思わず叫び、メイがびくつく。
「あ、いや、ちが……」
「そうだよね、あはは」
メイは笑っている。
笑っているけど、その顔にいつもの光はない。
わたしのらしくない照れが、メイの笑顔を――。
「あ、ゆずのから揚げおいしそうだね」
ここでから揚げをあげて水に流す。メイはそう提案してくれている。
でも、それこそ違う。わたしは酷いことを言ってしまったのだ。それも恋情を抱いた相手に。
責任は取るべきだ。
責任――思いつくものがひとつあった。いや、しかし、本当にそれでいいのだろうか。アニメやドラマの論理をそのまま現実に持ってくるのはいかがなものか。
それでも、メイに償いたい。
不安はある。かつてないほど。でも自分の感情が友情ではなく恋情なら、変えていくのも筋ってものだ。
決心し、向き直ると、素直な自分が出てくる。わたしはメイとそういう関係になりたいだけ。
自分が否定したことを行動によって肯定する――そんな気取った考えはきっかけでしかない。
「どうかした、ゆず」
「メイ。あのさ」
緊張からか、思っていることが声にならない。体が縛られたかのように固くなり、喉は張りつく。
メイは不思議そうな顔をして、けれど待ってくれた。
「あの……」
決心しろ、柚葉。声にするだけでいい。いつもみたいに、ポロっとこぼせ。
「キス、しない?」
声になると、緊張は解けた。息が深く吸い込める。
代わりに全身が燃え上がり、体温は最高潮を記録した。
「キ、キスって、あのキス?」
メイは元々染めていた顔をさらに赤くする。冷静なもので、わたしは、人間ってここまで赤くなるのか、などと思っていた。
「そう。魚じゃない、愛する方の」
メイは固まっている。顔を染める赤だけが踊っていた。
「……欲望的な方の」
「う、うん」
それはどういう意味の。聞く前に、メイは椅子から立って離れた。わたしも倣い、メイの前に立つ。
「じゃあ、して」
「え、いいの?」
メイは頷くこともなかった。ただぎゅっと、加減を知らない子どもみたいに目を瞑り、待っている。
その顔を見たとき、わたしの中から理性がはじけ飛ぶ音がした。可憐で、他のなによりも心を激しく上下させる。間違いなく人生の宝だと確信した。
そっと唇を当てると、柔らかい感触がある。
それ以降、感触を思う時間はなかった。メイの熱と、メイと大切なものを触れ合っている事実が、わたしの中に沈殿し、緩やかな情動を広げる。
自分が自分でないような、夢現の時間。
思えば不思議だ。これが友情なわけがない。いつだってメイのことを考えて、とんでもない不安に駆られて、照れることも多くて、だから一緒にいたかった。
これは紛れもない――。
「メイ」
唇を少し離し、隙間から呼吸するように言う。
「なぁに? ゆず」
「わたし、恋してる」
ふふっ、メイは楽し気な笑みを見せる。
「わたしもだよ」
そう。
短く呟いた一言に、ありったけの感情を乗せて。
わたしは自分の感情が、ここまで激しいものだったのかと驚く。
それは、きっと、メイだから、なのだろう。
恋情と友情を分けるものは、結局自分の中の定義でしかない。自分で決めた勝手な線引きだ。
でも、いいと思った。だって、わたしは女子高生だし、なにより。
気持ちは確かにあるから。
その百合は恋情ですか? 友情ですか? 花空青畑 @kagamimozi2002
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