第14話 お泊りですか?
正座する足がしびれてきた。わたしはひとり緊張の中に取り残されている。ゆずの部屋に招かれてからは日常的な会話が続き、ゆずのスマホが鳴って部屋の外に出ることで会話が途切れた。どうせならと、スマホのメッセージアプリを使ってお母さんに連絡する。まだ遅くなります。うちは緩いから許してはくれるだろうけど、悪いことするなぁ。
足を伸ばして呆けているとドアが開き、ゆずが入ってくる。心なしか困り顔だ。
「親、どっちも帰って来られなくなったって」
「泊まります!」
考える暇もない反射的な返事だった。ゆずの困り顔が決定的なものになり、わたしは少し誇らしい。
「マジで?」
「マジで」
ゆずは考える素振りを見せた。
「パジャマ、わたしのでいい?」
「うん」
「夕飯は手伝って」
「うん」
「お風呂一緒に入ろ」
「うん……え」
「それじゃあ決まり」
またゆずは部屋から出て行った。
あれ、とんでもない約束しちゃった?
急いで部屋から飛び出し、ゆずを追って走り回る。キッチンで冷蔵庫とにらみ合うゆずを発見したのは、何度か空振りの部屋に入った後だった。
ゆずの後ろから冷蔵庫を覗きかけて、はしたないと目を泳がせる。
「あ、メイ。手伝ってほしいんだけど」
「わたしにできるかな」
「わたしよりはできるよ。取りあえず献立が決まらない」
それは一大事だ。了解を得て冷蔵庫の中身をざっと確認する。正面には水出しの麦茶がプラスチックのポットに満たされ、隣に残り物らしい料理がラップしていくつか置かれていた。それらの下の棚になっているところを開けると、使いかけのハムとタラコが収納されている。ドアと接着した棚には牛乳、調味料一式と卵がたくさん。
「どう、メイ先生」
「…………オムライスにしよっか」
「お、ベストアイデア」
わたしには大量の卵を使う料理しか思いつけなかった。ごはんあるよー。炊飯器を開けたゆずの声に安堵する。
オムライスのライスはケチャップライスにしようかな。それならタマネギが欲しいけど、さすがに人の家の食料をガンガン使うのは気が引ける。ごはんは白いままでいいや。
「メイ、わたしはなにをすればいい?」
「ゆずは……まずお米を炊飯器に戻して」
「はーい」
先手を打ってお皿にご飯を盛っていた。それだとオムライスのオムができるまでに乾いて冷える。
良いお米は冷えてもおいしいと聞く。聞いただけで、冒険する気にはなれない。どうでもいい雑学で頭を楽しませて、材料を並べる間の暇を潰す。
「卵にサラダ油、一応砂糖と、ケチャップは後でいっか」
「メイ、わたしはなにを」
「じゃあキッチンペーパー準備しといて」
「キッチン……ペーパー……」
フライパンの上に手をやると、空気が温まっていた。今だ、サラダ油を垂らして広げる。ちょっと多かったかも。
「メイ、キッチンペーパーは」
「はいこれ」
「ありがとう」
長四角の箱から頭を出している白い紙を引っ張ると、頑丈で光沢のある本体が出現する。
「これ、クッキングシートだ」
「違った?」
「うん、キッチンペーパーは油を拭いたりする紙で、これはケーキの型とかに使う固いやつ」
「な……面目ねえ」
「よく間違えるよね」
わたしも始めたての頃はわけがわからなかった。レシピを見ながらクッキーを作っていたら、突然予熱されたオーブンが現れたり。
できるようになったな、わたし。
「へー。オムライスって目玉焼きみたいな作り方するんだ
「えっ!」
気づくと、フライパンに溶いていない卵が放たれていた。
「そ、そうなんだよ! あははは!」
菜箸を取り、加減もせずにフライパンの上で卵をかき混ぜる。さらに大急ぎで残りの卵を溶き、流し込む。
全然そうじゃない。オムライスは卵を溶いてから作るのに。砂糖も入れてないよ。めちゃくちゃだ。
けれど、ゆずは感心するような声を上げながら、わたしのでこぼこな調理を眺めていた。
◆
湯気に包まれたお風呂場では、シャワーの音が絶えずこだましていた。しずくが湯船に落ち、波紋が広がる。
オムライスはおいしかった。我ながらそこそこできたと思う。
ただ、食べてからお風呂の順番は間違った。食べた分、お腹が膨らんでしまう。ひとりならともかく、ゆずも一緒なのだ。
ゆずは泡を洗い流していたシャワーを止めると、手櫛で髪を軽く梳く。その動きに見惚れて――お互い裸なのを思い出して恥ずかしくなった。口元まで沈む。
不思議なもので、見つめたりしなければ裸同士でもあまり緊張はしなかった。中学は水泳の授業があったからそのお陰かもしれない。
「メイ、終わったよ。交代しよ」
「そ、そうだね」
わたしはゆずに背中を向けるようにして、湯船から洗い場に、うまくメイと交代する。
「なにしてるの?」
「い、いやーぁ」
さすがに湯船から背を向けるのは変に思われたらしい。正面を向けば鏡があるのに、わざわざ壁を向くやつはわたししかいないだろうな。
お腹を引っ込めながら正面に向き直る。シャワーで軽く髪を濡らし、続く手が止まった。
シャンプーがふたつある。違う種類だ。
メイはどっちを使っているのかな。どうせなら同じのを使いたい。イチゴの香りとハーブのシャンプー。どっちだ……あ、ハーブの方はネットのランキングで順位が高いやつだ。ゆずならそういうのは使わなそうだな。
「あ、メイはイチゴが好きなの? そう言えば果物好きって言ってたもんね」
ゆずの声が反響して、何度も耳に入る。
メイは。イチゴが。
ゆずはハーブ派だったかぁ。
「はぁ」
「もしかしてブドウとかの方がよかった?」
「あったらあったで使ってみたいかも」
果物は香りより食べる方が好きだけど。ごちゃごちゃしてきた頭を整理するべく、手のひらに溜まったシャンプーを泡立てる。なにも考えないで動いていると、頭の中は自然に片づいていく。
泡立てたシャンプーを頭に持っていくと、髪とこすれ合ってさらに泡が増した。これが楽しい。髪が地味に長いから気をつける必要はある。
「メイってほんと美人さんだよね」
「そんなことないよ!」
照れくさくて声が高くなった。ゆずの不意を突いたかと心配したけど、ふっ、わざとらしく笑っていた。
「綾矢がよく言うの。佐紀も見習え、とかよく言ってる」
「なんだ、綾矢さんか」
「まあわたしも思うよ」
体の中心を鋭い電流が走った。かと思えば髪から泡が迫ってきて目を閉じる。手探りでシャワーのレバーを探した。
「やっぱり変だよ、ゆず。最近」
「わたしは変じゃないよ。気づいただけ」
「へ、ん」
探り当てたレバーを上げ、噴き出したお湯が泡を洗い流す。顔の水を払って目を開けると、ゆずは顔のギリギリまで湯船に沈んでいた。
「考えて考え過ぎて、結局は放棄してメイと会っちゃった」
「考えてた?」
「そう。わたしはメイを好きになりたくない、とかね」
緊張の一瞬。髪を伝うしずくの滴る音が大きく聞こえた。
しかしゆずは表情を崩し、湯船の中から起き上がる。
「それも晴れちゃった。メイがあんまり正直になったもんだから」
「あれは……ゆずが先に告白してきたと思ってたからでもあって」
思い出すと恥ずかしい。あれじゃ告白したのはこっちじゃないか。こんな勘違いで舞い上がるなんて。そりゃ、元を正せば一番に告白したのはわたしだけどさ。
「お陰でわたしも正直になれたよ」
ゆずは湯船に視線を落とす。
「電話で呼び出したのも、家に誘ったのも、勢い任せだった。でも本当に来てくれた」
「それは、わたしも、ゆずとは一緒にいたいから」
「メイはいい娘だよね。結構、酷いこと言った気がするのに」
「そう……かな?」
ところどころ心当たりがあるといえばある。全部刹那的な、酷いにも入らない小さ過ぎることばかり。そのときはギョッとしても、今になると大して気にならない。
ゆずはロマンチストだから、そういう感覚も鋭敏なのかな。それともわたしが鈍感かな。
「わたしは臆病なんだな」
自分自身に言っているみたいだった。
臆病はわたしもそうだ。知らない人に話しかけようと思うだけで、自分が吹き飛びそうになる。話しかけられても気の利いたことは言えない。
「臆病でも、いいと思うよ」
返事が来なくなって、わたしは鏡を見た。自分の顔っていうのは、なんともコメントしづらい。綾矢さんは美人と言うけど、本当なのかな。
「メイはいつだって、わたしの――」
ゆずは顔にお湯を打ち、続く言葉を消した。
「先、出るね」
湯船から上がるゆずの頬は赤かった。
「パジャマ、置いてあるの使って」
この後、わたしはゆずのパジャマを着るんだ。そう思うと体が熱くてたまらなかった。
◆
指先と指先が触れている。暑苦しいまでに高まる温度は、しかし心地いい。顔を埋めたくなる衝動を抑えて、荒くなる息を潜めた。
お泊りするということは、こういう状況になるのは想像していた。でも、まさか本当に添い寝するなんて。
ゆずの顔は天井を向いている。仰向けで寝るタイプ、わたしと同じだ。こうしてみると、ゆずの方が美人さんだと思う。表情は固いけど、白い肌にそれを裂くような目がクールだ。
「ねえメイ」
「ひゃい!」
向こうが困っていた。急にこっちを向いたりするからだよ。
「な、なんですか?」
「敬語……。メイはどうしてわたしに告白できたの?」
「い、いや、いやぁそれは、ゆずが告白してくれたと勘違いしたからで」
「そうじゃなくて。どうして自分の気持ちが告白するような、恋だってわかったの?」
あ、そっちか。恥の深堀をするところだった。
「最近ゆず変だったじゃん」
「あー、わかるもんなんだね」
「わかるよ、ゆずだから。それでも変わらなかったの」
「変わらなかった?」
「だから」
言葉にしようとすると、鼻先にいるゆずを意識してしまう。ここでちょっと攻めれば、キス、とか……!
「メイ?」
「あ、ごめん。だからね」
また詰まった。ひとつ、ひとつ、確実に高鳴る心臓が喉を塞ごうとする。自分の中に自分より大きなものがつっかえていて、それが苦しい。
わたしは解放を求めてゆずの手を握った。重なる温もりよりさらに気持ちいい温もりがわたしを癒やす。
「ゆずがどうなっても、ずっと一緒にいたいなって思えたの」
言い切っても、やっぱり恥ずかしかった。体が燃えているみたい。調子に乗りすぎたかな。見ると、ゆずの顔も赤かった。白い肌に強調されるお陰で、リンゴを思わせる鮮やかさ。その顔がいたずらっぽく笑った。
「どうなってもって、わたしはモンスターにでもなるの?」
「そういうわけじゃないよ」
脇腹にくすぐったいものが潜り込んできた。不意打ちに声が漏れる。
「ゆず?」
「メイ、わたしと違う匂いがする」
ゆずの体がくっつく。パジャマの布がこすれ合う感覚が妙に癖になる。
初めての感覚だった。けれど、ゆずであることには変わらない。どんなことでも、それがゆずなら、わたしは好きでいられる。
一緒にいたいと思える。
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