22 向き合う覚悟
コナカルルの宿には使われていない部屋がある。
三階にある、大部屋でもないが二階の部屋よりは広い部屋。そこだけは客が入らないのではなく、わざと空けてあるのだ。
暇があれば宿に泊まっている者達で食べては飲んで、その日に合った事を誰かが欠伸を漏らすまで話しているのだが、今日はミーシャ一人だ。開けた窓から髪を揺らす心地のいい風が入り、明るい月明りが部屋に射し込む。だが灯りは隅に置かれたテーブルの上にある蝋燭のみ。
その部屋で何をする訳でもなく、ただぼんやりとミーシャは空を見上げていた。すぐ目の前にあるようで、遠い夜空に浮かぶ月は端が少し欠けている。不意に――扉が微かに軋む音を立てて開いた。振り向くとすっかり見慣れた金色の目と、目が合う。
「ここに居たのか」
「……一斬さん」
一斬は扉を静かに閉めるとそれ以上は何かを言う訳でもなく、ミーシャの隣にやって来て窓から身を乗り出すと、先ほど彼女がそうしていたように空を見上げた。
「体、もう平気か?」
そう労わるように声を掛けながらも視線が少女の方へ向く事はない。それでも気遣うような表情に、ミーシャも同じように月を眺め小さく微笑むと「はい」と返した。二人に視線を注がれている月はただ静かに町を見下ろし見守るだけだ。
「そうか」
その一言から少しの間、沈黙が続いた。ちりちりと、蝋の焦げる音がする。
「――あの」
先にその静寂を破ったのはミーシャだった。呼び掛けるような、それでいて迷っているのが分かる。一斬は窓から乗り出すのを止め、ミーシャへと向き直った。
「ごめんなさい」
発せられたのは掠れていて、弱弱しい――震えた声だった。
「なんでお前が謝るんだ」
思わず一斬の口からは責めるような言葉が出て来る。同時に視線を向けた少女は身を縮め、俯いていた。泣き出してしまいそうなその姿を見て……一斬は言葉を詰まらせた。
「……悪い」
代わりに出たのは彼女よりかはぶっきらぼうな、短い謝罪の言葉だ。
「いえ……」
それに返すミーシャの声はか細い。
――また、部屋には静けさが戻る。先ほどよりか、重く二人の肩に圧し掛かっているような気さえした。
だが今度は長く続かず、一斬は何かを言い掛けては口を閉じ、それを繰り返し……自分の頭を乱暴に
その顔は何やら緊張したような面持ちだった。ゆっくりとミーシャに目線を合わせるよう屈む。真剣な表情で見つめられ、ミーシャは自分の体が
「――明日、ちょっと一緒に出ないか?」
その言葉に一瞬、何を言われたのか分からなかったのか――ミーシャは口を開けたまま固まった。
「へっ?」
ほんの少しの間を置いて出て来たのは、ピンと張った糸のような空気には似合わない、酷く間の抜けた声だった。それを聞いても一斬がいつぞやのように笑い飛ばす事は無い。驚きで瞬く少女に、表情を変えず続ける。
「もちろん、お前が良ければ、だが」
控え目にそう付け加えて尋ねる姿を見ていると、ミーシャが思い出すのは故郷のカトリアンナで牧羊犬が飼い主に向かって首を傾げている様子だった。いつになく遠慮がちな態度に――ミーシャは自分でも知らずの内に、小さく頷いていた。
*
「
「帆を張り、声を上げ、
「
「さぁ、空に乗り上げた波に船首を向けろ。お前が
「
エルクラットは交易の他に漁港も盛んな都市だ。港からは常に幾つもの船が出続け、朝の早い時間から
年端もいかない少女たちは親の近くで糸車の巨大なはずみ車を手で回し、まだ
色彩豊かに様々な出店などが並ぶ市場とは裏腹に、この裏通りに近い場所に並ぶ建物からは開いた窓から漏れる女達の囁くような歌声以外は活気が感じられない。いつも宿から見える通りや広間と比べたら、店も少なければ人も居ない。
しかし空を仰げば窓から隣の窓へと糸が垂れ、洗濯された服がひらひらと風に吹かれていて、人が確かに生活している事が分かる。
「この辺は貧困街でな、働く場所と住んでる場所が混ざってる」
隣を歩いていた一斬がミーシャにそう語る。その場所は中央の噴水広場から、さらに離れた通り。荷車を押している若者たちを見て、一体どこまで押すのだろう……とつい考えてしまう。
エルクラットは華やかな都市という印象しか抱いて無かったせいか、荒い造りの家々を見ているとミーシャはどこか物悲しい気持ちを覚えた。
「……知りませんでした」
「聖騎士団も居ないからな、普段は誰も行こうとなんてしない」
そう言われてみれば、広場や大通りには必ず居る銀色の鎧を身に着けた聖騎士団は見当たらなかった。ミーシャの記憶から言っても、警備のために見回りや店に配属されることも珍しくなかったはず……そう覚えていた。
「どうしてですか?」
「居なくなっても困らない奴が多いのさ。嫌な話だけどな」
そう言った一斬の表情は笑っているにも関わらず、皮肉げにも悲しげにも見えた。女達の歌が遠くなっていくにつれて、辺りはどんどん廃れていく。路地が舗装されておらず、
しばらく進んだ先に、二階建ての空き家が一つあった。もはや窓にしがみ付いているかのように、両開きになっている古びた木の雨戸からは風が吹く度に軋む音がする。碌に手入れもされていないのだろう。他の家と比べて補修された跡はあったが割れた壁からは蔦が生えており、長い間放って置かれている事は明白だった。現に、天戸はあるのに入口に扉はない。
「あの、ここは?」
「前に俺とママさん……アンドリューさんが住んでた家だ」
そう言うや否や一斬は家の中へと入っていった。ミーシャも、おそるおそる覗きながらも後を付いていく。
中は、カビが生えた簡素な棚とテーブル、椅子が二つ、かまどと調理台らしき場所。必要最低限の物しか置かれていないようだった。
「こっちだ」
声を掛けた一斬は奥にある階段へと上って行った。ミーシャも慌てて後を追い駆ける。二階へ上がると、小さな机と何も敷かれていないベッドが二つだけ置いてある。先に来ていた一斬は窓から外を眺めていた。
「しばらくはここで生活してたんだ」
そう語る口調は懐かしむようでもなく、ただ静かだ。
――なぜ急にこんな場所へと連れて来たのだろう。
ミーシャが何か言葉を投げ掛けるべきか悩んでいると、不意に一斬が振り向いた。陽光を背にして照らされるその顔には影が落ちている。
「昔の話をしていいか」
逆光になっているせいで表情はよく見えないが、肉食獣のように暗がりの中でも瞳だけは強い輝きを放っている。人ではあり得ない目だが、その瞳が優しさを持っている事もミーシャは知っていた。
だからこそ――
「もちろんです」
近くまで歩み寄ると、その顔を見上げ、今度ははっきりと言葉にして答えた。
「お話しましょう、一斬さんの気が済むまで」
「……あぁ」
ミーシャの言葉に一斬がその顔を――言葉にならない感情を籠め、くしゃりと歪ませたのが見えた。
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