11 奇襲

 ゴミ捨て場の死体は片付けられていたものの、辺りにこびりついてしまった血はそのままとなっている。現場保存という事で事件が解決するまで、このゴミ捨て場で鼻をく異臭を放つのはゴミだけでは無さそうだ。乾き切っているとは言え大量の血痕――そして、何かが腐った臭いがこびりついていた。


「おえー……酷い臭い……」

 当然、血痕の付いているゴミをまとめた布袋などもそのままだ。野菜の屑や食べ切れなかった肉、中身は様々だろうがそのどれもが異臭の元となっている。

「アイラ……本当に平気?」

 気遣うようなチェイシーの視線に気が付くと、アイラは「あははっ」と明るく笑って見せた。

「さっきも言ったじゃん、平気だよ。ほら、さっさと調べよ! 今の時点で、もうお風呂入りたくてしょうがないよ」

「そうね……ドレスに臭いが付きそうだわ、さっさと調べちゃいましょうか」


 現場に着ていたアイラは顔をしかめ、チェイシーの方は白い手拭いで鼻を押さえている。それでも、気持ち程度にしか臭いは遮れなどしないのだが。

 そんな中、チェイシーは血溜まりを避けるように歩み寄ると、辺りをぐるりと見渡す。横の壁にまで飛び散っている血痕に眉を寄せて、それから行き止まりの方へと足を進めて壁を見上げた。


「そもそもなんでこんな場所に逃げ込んだのかしら」

「確かにねー、普通広場の方に行くわよね」

「それに、こんな場所に追い込むなら表の店や客が気が付かないのもおかしいし……自分から付いて来るか、それとも無理矢理連れて来られたのか」


 ゴミ捨て場のある位置から出れば狭い路地とは言え、常に人は居る。店の外に取り付けられた道を照らす灯りも、小さいとは言え店の数ほどはあるのだから決して少ないとは言えない。

 アイラは「うーん」と何かを考えながらも、ゴミ捨て場のしゃがんでは地面に流れた血の跡を確かめる。一番多く血痕の残っている場所から路地に向かっての血は不自然に思えるほど少ない。


「仰向けで倒れてたって話も変だし。普通だったら逃げてる時に襲われたなら背中を向けてると思うし」

「尋常じゃない魔素の量だし、色々と引っ掛かるのよね」

「魔法具もないアタシには分からないよ。気になるって何が……あっ! ねぇ、チェイシーちゃん! ここに何かあるよ――」


 ふと地面に転がる何かが光った。手拭いを取り出すとゴミ捨て場の溜まり場近くに落ちていたそれを拾い上げ、アイラは観察するようにひっくり返したり、手で軽く転がす。チェイシーが覗き込むと、一見すれば人の爪ほどしかない赤い硝子の欠片にも見えた。しかし硝子と違い、それはまるで塊から零れたような欠け方をしている。


「硝子かしら?」

「いえ……この光り方、たぶん宝石の欠片よ。でもルビーみたいな色じゃない……アタシも見た事ないし、なんでこんなとこにあるのかしら」

 アイラは興味深そうにしているチェイシーへ手拭いごと手渡した。青い瞳に赤い欠片を映すと目を細める。しかし次にはゆっくり目が見開かれ、手拭いの中でその宝石を――握り潰した。硝子の割れるような音に、今度はアイラが息を飲み驚いた。

「チェ、チェイシーちゃん?」

「やられたわ」

 至って平常に近い声ながらも、チェイシーの声はどこか悔しそうでもあった。

「何が?」

「今朝リーンシアが言ってたでしょ、聖騎士団本部で魔物の気配がしたって」

「でも見回りでそんな気配もなかったし、居なかったって話だったし……見張りだって多くしたんでしょ?」

「相手が盲点を衝いてるとしたら?」

 低い声色にアイラがただならぬ雰囲気を感じ、生唾を飲み込んだ後ですぐさま表情を引き締めて「分かったよ」と頷いた。

「何すればいいの?」

「聖騎士団本部へ行くわよ。急いだ方がいいわ、あそこには――」


           *


(一体いつまで居るんだか)


 今日で二日目、リングのせいか一斬の体は相変わらず重い。人狼達五人は一度寝室に戻されたものの、寝室から大広間まで集まるように直行させられ、初日と変わらない状態で放置され続けていた。必要な量の食事は与えられているものの――


(――きっちぃな……)


 やはりぼたりと音を立ててソファアに落ちた涎を無理矢理拭う。空腹感と吐き気が込み上げて来て、視界がたまに霞んでいく。食事は無理やり口に押し込んだが、スープはただの水を啜るような、パンは泥を噛み締めているような……とにかく味がしなかった。本格的にまずい状態だ――そう考え、一斬は思わず苛ついたような舌打ちをしてしまった。

 脳内では危険を知らせる鐘を打つ音が聞こえ始めている……そんな気すらする。


「一斬さん、大丈夫ですか?」


 まだ聞き慣れない、心配そうな声を掛けられて顔を上げると若い神父が立っていた。部外者のはずなのだが、先ほどから他の人狼達の面倒を見るように声を掛けたり、体調の悪そうな者には部屋の中に置かれている水を運んでいるようだった。普段なら他所の人間を警戒するはずだが、そんな余裕すら残っていないらしい。一斬以外の人狼は大人しく水を受け取っていた。

 心配そうな顔で覗き込んでくる瞳は青と金が半分ずつ、この場に居る全員が金色な事を考えたら異常とも言えた。手には水の入ったコップが合った。妙な臭いはしない――それを確認した後で「すまねぇ」と受け取って飲み干す。少しだけ調子が戻ったような気がしたが、空腹感と吐き気は治まらない。


「お辛いですか」

「結構な。逆に、あんたは随分と平気そうだな」


 他の人狼達は何かしら体調には異常を来たしているようだが、この神父……イヒトだけは他と違い平気なようで、足取りもしっかりとしていた。目の色も虚ろとは言い難い。しかし一斬や、他の人狼達も口を揃えたように、目の前の男が「同族」というのは分かっていた。


 ――この男は何者なのだろうか?


 そう考えながら見ているとイヒトはおもむろに辺りを見渡した。そして、急に真剣な表情で一斬へと向き直る。何か意を決したような、そんな顔だった。


「あの、実はあなたにお訊きしたい事があって――」

「俺に?」

「はい……あの、ハバース戦争で功績を収めた人狼って……あなたの事ですよね?」


 ――ハバース戦争。


「やはり、そうですか」


 その言葉に顔色を変えた一斬の表情にイヒトは予感でもしていたかのように呟いた。しかし、その言葉を聞いた瞬間に一斬は警戒するかのように目を細め、相手の反応をうかがうよう注意深く観察していた。

「それが……どうかしたか?」

「実は、私もあの戦争に参加していたんです」

 イヒトの言葉に、今度こそ一斬が目を見張る。その反応にイヒトは少し笑って見せた。

「とは言っても、救護班だったのですが……」

「そうだったのか……あそこに。あんたそういうのは無理そうだと思ったが」

「あはは、当時は若くて体力のある人間は手当たり次第に連れて行かれましたから」

 苦く笑った後で、イヒトは「それに」と話を続けた。

「コンカラットは外部からの侵略が多い地域で、あそこの統治者は侵略者を嫌いますしね。周りの村から若者を連れて行って自分に反抗する者達の戦力を削いだ上で、忠誠心を確かめる意味もあったかもしれませんが」

「あんたいくつだ? 若く見えるが」

「三十年以上は生きておりますよ」

「そうかい……なら――」


 ――そこで突然、扉が乱雑に開かれた。重いはずの石の扉が、壁にぶつかり鈍く大きな音を立てる。


 扉が開かれた瞬間に見張りだったはずの兵士が二人、部屋の中に倒れ込んだ。怪我を負っているのか、血の臭いが辺りを包む。突然の出来事にペルモの短い悲鳴が聞こえ、次に驚いた声が響いた。部屋の隅に居たはずのローレライの声だ。


「ナーシャ……!?」


 ――見張りが立っていたはずの場所には、<人喰い>に噛み殺されたはずのナーシャ・ヒュイが立っていた。


 その短く切り揃えたブロンドの小鳥のような髪と、少女の面影を残したような容姿が踊り子の中でも特に評判だったのを覚えている。林檎のような張りのある頬、少し膨らみのある唇、そのどれもがナーシャの魅力を引き立てるパーツだった。

 だが今のナーシャの異様な雰囲気は恐らくこの場に居る全員が感じ取っている事だろう。肩を噛み千切られていたはずなのに、今彼女の肩は服が破れている事以外に傷がない。ナーシャの自慢だった赤みのある肌は酷く青白く、目も虚ろだ。頭はまるで首が座っていないかのように揺れ、焦点の合わない目はうろつきながら天井や地面を、黒目があちこちに移動している。


(こいつは……)


 目の前のに対し、一斬は驚愕が隠せなかった。そして、が何であるか理解した瞬間、一斬の全身に悪寒が走った。


「全員逃げる体勢を整えろ!!」


 体の重さも跳ね退けるように一斬は声を上げ、戸惑う人狼達に構わず自分はに向かって走り出した。すぐさま両手を振りかざす。小さな火球が手から放たれ、まるで放たれた矢のようにナーシャへ向かい飛んで向かって行った。だが焦点の合わない目が向かって来る炎を見た瞬間に、ぐるりとそちらへ向けられた。


 すると突然目は炎の矢をしっかりと捉え、途端にナーシャの口元が歪む、まるで笑むように。目の前まで炎が来た瞬間――何か壁にでも当たったかのように炎はナーシャの目の前で形を歪ませて消えた。その様子を見ても一斬は構わず続けて火球を放ちながら、ナーシャへと走っていく。体は重いが、そうは言ってられない。火の熱とは別に汗が一斬の額を伝った。


 今度は向かってくる炎を無視してナーシャは一斬へと微笑んでいたが、不意に開いた口から生え揃った牙が見え――その瞬間、次の攻撃を仕掛けようとしていた一斬の意識がいきなり遠のいた。頭を急に揺さぶられたかのように、視界が揺らぎ、激しい頭痛が始まった。


(!?)


 足を踏み締めたはずだが、頭を急に殴られたような感覚に堪えられずに地面へそのまま倒れた。訳が分からないまま頭を押さえる。感じているのはまるで無いはずの毛が全身逆立つような寒気と――同時に体が熱を巡るような高揚感こうようかん


 ――ウォオオォ、オォオォン。


 ナーシャからまるで狼の遠吠えのような声が響き、部屋一帯を包みこんだ。離れた場所に居るはずのバンガジャ達も一斬同様に呻き、苦しむような声が耳に入る。


「い、一体何が……!? 皆さん! しっかりしてください……!!」


 イヒトだけはこの遠吠えを聞いても平気なのか、そんな声が聞こえた。その声で僅かに正気を取り戻した一斬は懐を探ると、硬く小さな感触が手に伝わった。それを握り締め、取り出す。白いコルク栓のような――小さな耳栓を耳に急いで付けると、遠吠えのような声はき消された。

 ふらつきながらも立ち上がった一斬の目が怒りで吊り上がったのを見て、遠吠えを止めたナーシャは不思議そうな様子で眺めていた。この部屋の中に不釣り合いな、とぼけたような様子に一斬が歯を噛み締める。


「この――!」


 一斬が今度こそ攻撃を仕掛けようとしてきた時、不意に後ろからが勢いよくぶつかって来た。ただでさえ体が重く、本調子でもないせいか避けるのが遅れ、あっさりと前に倒れてしまう。


「ぐあっ!?」


 そのまま、は背中へと乗って来た。体を急いで持ち上げようとしたが、首を勢いよく捕まれ押さえつけられる。人の手だった。信じられない気持ちで一斬は抵抗を試みるが、後ろに向かい伸ばした手はあっさりと掴まれる。


「何をしてるんですか! 止めてください!」


 イヒトの悲鳴じみた声が聞こえ、急いで一斬が顔をなんとかずらして相手を見ると――そこには牙を剥き出しにして、唸り声を上げているローレライが居た。涎が地面に滴り落ちる。その獰猛さを浮かばせた顔は獣のそれであり、誰がどう見ても異常な様子だった。しかし、ローレライのその目、表情に、一斬は見覚えがある。


(――こいつは……!)


 咄嗟とっさに一斬がナーシャへ視線を向けると、少女らしい顔をした何かは、まるで面白いものでも見ているかのように舌なめずりしてはつやめいた笑みを浮かべて見せた。

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