4 水棲小魔獣 ウォーター・リーパー

 沼地に続く道は墓地と同じく、人々が住んでいる場所からは少し外れた場所にある。鬱蒼うっそうと生え茂った森の中にあり、木を切り開き整備された道は人が踏み締め、根が枯れてしまったのか、剥き出しの地面と短い草が生えているだけだ。

「人が結構来るのか?」

 地面の抉れ方は車輪が何度も通った後のようだった。そんな道を見て、一斬が尋ねると「まぁな」と先を歩いているスコットは少し自慢げに答えた。

「ここら辺に生える薬草やキノコはちょっとだけ珍しいんだぜ」

「色んな薬の材料になるんですよ」

「へぇ……知らなかったな」

「まぁ、あの沼は観光には向かないけどな。迷い易いし、俺ら番人とミーシャとラングレーさん以外は運び屋ばっかりで後は全然入らな……」


 説明をしながら道を確認していたスコットが、不意に足を止めた。


「スコット君……?」

 様子がおかしい。ミーシャが何があったのかこうとして前に出ると――スコットの視線の先に何があるのか気が付き、息を呑んだ。


 ――道の真ん中に、大柄な男が一人倒れている。


「親父!!」


 震えていたスコットが弾けるように男性へと駆け出して行った。全員駆け寄ると、足音に気が付いてか男は微かに身じろいで上半身を僅かに起こす。それでも震えは止まらず、顔色も悪い。スコットがなんとか支えながら男の体を起こした。

「何があったんだ親父!」

「ま、魔物が……」

「魔物って……嘘だろ!? こんな町の近くにまで……?」

 男の言葉に、子供達の表情が皆不安げな物に変わっていく。お互いに肩を寄せて、涙ぐむ子供もいた。

 そんな中、一斬が何かに気が付くとすぐに回り込み、血の滲んでいた男の服の袖を捲くる。スコットが驚いた顔をしていてもお構いなしだ。

「お前、何を……」

「傷を見るだけだ」

 剥き出しになった男の腕には、横に広く付いた歯形が腕に残っている。傷は深くないようで、血は少し止血すれば自然と治まりそうな傷だった。だが一斬は歯形を見た瞬間に眉を寄せる。


「ウォーター・リーパーだな」


 一斬が呟くようにそう言った。スコットが眉を寄せ、子供達は「ウォーター・リーパー?」と聞き慣れない名前を繰り返すように言った。

「なんだそいつ……?」

「野犬みたく群れで狩りをする蛙の魔物だ。沼地を好むし、細かい牙が生えていて麻痺毒を持ってる」

「そんな奴らがどうして急に……」

「こいつらは餌を食べ尽くすと雨の日に一斉に移動するのさ。連日雨だったからな、そん時に移動したんだろ。とにかく、噛まれたのが一回だけなら人が死ぬほどの毒じゃない、今から村に運んで――」

「ま、待てっ……! ら……っ! ごほっ、ごほっ!」

「おい親父、無理すんなよ。今から村に――」

 息子の制止に首を横に振って、男は話を続けようと荒い息を交えながら一斬に向かって口を開いた。


「ら、ラングレーさんが、まだ、奥に……!!」


 男が絞り出すようにそう言った。全員が目を見開き、特にミーシャの顔色が一瞬で変わり――気が付けば沼へ真っ先に走り出していた。昨日の雨でぬかるんだ地面に足が取られても、奥へ、奥へと進もうとして――誰かが彼女の腕を掴んでいた。振り向くと睨むようにミーシャを見ている一斬が居た。


「離してっ、一斬さん! お父さんが……!」

 ミーシャがもがいて腕を振り払おうとするが、一斬が手を離すと肩を掴む。

「落ち着け!」

「でも……っ!」

「――俺も行く」

 その一斬の言葉にミーシャは驚き、咄嗟に言葉が出てこないようだった。


「ミーシャ!」

 慌てた様子でスコットが二人の方へと駆け寄って来た。しかし一斬は駆け寄って来るや否や「おい」とスコットに声を掛ける。

「お前は子供達と親父さん連れて村に戻れ、俺はミーシャと一緒にラングレーさんを連れて帰る」

「なっ……!」

 スコットがミーシャの方を一瞬見て、目を吊り上げると一斬の胸ぐらへと掴み掛かった。

「ミーシャが行くなら俺が行く!」

「お前じゃないと親父さんに肩貸してやれないだろ」

「な、なら村まで戻った後に……!」

「それじゃあ間に合わない。あの麻痺毒は一回じゃ死なないがな、何度も噛まれると心臓を止めかねない猛毒に変わる」

 低く告げられた言葉と一斬の表情は脅しのようでもあり、スコットの背筋を凍らせるには十分だった。


「頼む――行ってくれ」


 言葉を失ったスコットの腕を気付けるように叩いた一斬は短く、まっすぐ青年を見上げた。迷ったようにスコットはミーシャと一斬を交互に視線を向ける。決断を迫られていることが分かり、少しして頭を苛立たし気に搔いて「あーもう!」と言ってスコットは背を向けた。


「絶対戻ってこいよ! 帰って来なかったら承知しないからな!」


 その声が僅かに震えているのを、ミーシャはしっかりと感じ取っていた。


「うん、分かってるよ」


 だからこそ、ミーシャは力強くそう答えた。それ聞いてから背を向けたまま頷き、父親の元へと走って行くスコットを見送り、一斬は再びミーシャの方へと振り向いた。

「ラングレーさんが行きそうな場所、分かるか?」

「はい、こっちです!」

 ミーシャが今度こそ止まらずに走り出す。雨粒が鼻先を掠めても、今はそんな事などこの場に居る誰も気に留めはしない。スコット達の姿が茂みに隠れ見えなくなってから、一斬はミーシャと並んで話始めた。


「このままじゃ、おそらく間に合わない」


 突然そんな言葉を告げる一斬に、驚きながらも足を止めない。一斬は少女の方を見ずに前を見続けては走っている。一体何を考えているのか、ミーシャには分からなかった。

「お前は、覚悟があるか」

 確かめるように一斬がそう訊いて来た。

「覚悟、って……?」

「ラングレーさんを助けるには、覚悟が要る。俺もお前もな。危険に身をさらす覚悟はあるか?」

 いきなりだった。だがそんな質問を投げた一斬もどこか、後一歩が踏み出せないような――そんな面持ちのようにも見えた。泥で靴を汚しながらもミーシャは少し悩み、昨日の父親の顔を思い出した。


 ――心配するようにこちらを見て、そして励まし、抱き締めた父の手もまた震えていた事を思い出していた。


「私、まだお父さんに謝りたいことがあるんです」


 ミーシャも前を向いて走った。沼地の整備された道でも気を抜けば滑り、転んでしまいそうだった。ますます雨が降り続いている。今は小さな雨粒でも、このままだときっと視界すら塞いでしまうような激しい雨が降っていく予感がした。父親がその中で魔物に襲われる光景が自然とミーシャの頭の頭を過る。

 何度も来るそんな考えを振り払い、張り裂けそうな小さな胸を抑え、涙を抑え、必死に走っていた。


「またお父さんに会いたい。私、謝らなきゃいけないんです。だから……覚悟、します」

 泣き出しそうな声だった。だがその言葉に込められた想いはすぐに伝わった。

「そうか」

 静かにそう返し、一斬は不意に足を止めた。振り向いたミーシャの目の前で突然、一斬は手を地面に付ける。手が泥で濡れてもお構いなしだった。

「一斬さん……?」

 様子がおかしい――そう思い、駆け寄ろうとしたミーシャは微かに聞こえた呻き声――獣のような声に思わず身を固め、その場から動けなくなった。

「う、グッ……!」


 体の節々から骨が折れるような、そんな音が聞こえる。目の前の青年の姿が変わっていく。体が膨張し、肌を晒していた部分からは黒い毛並みが生えそろい、顔は人のそれから鼻先が伸びて、大きく裂けた口からは鋭利な牙が見えていた。目まぐるしい速度で変わって行く姿に、ミーシャは呆然とするしかなかった。


 ――羊飼いの村に伝わる伝承がある。


 それはただの言い伝えのはずだった。人は嘘を吐いて羊を盗む事がある、山を下りては羊を食い殺す狼と変わらない。狼のような人間は、普段は人に混じって人らしく笑い、人らしく過ごす。夜になると羊を盗みに来る。理性のない化け物になるのだと。確かそんな話だった。

 しかし、目の前の存在は伝承そのままの姿になっている。羊飼いの誰かが持っている本に絵が描かれていたのをミーシャは思い出した。


 ――その絵の通り、人の骨格を残した巨大な狼がそこに居た。


 曇り空もあって辺りが暗く成り始めているというのに、少女を見つめる狼の目は暗がりの中でも爛々らんらんと、金色に光っていた。うずくまっていた体を起こし、四つん這いのまま歩いてくる存在を前にしてミーシャは動けなかった。それは本能的な恐怖であり、思考は追いつかない。


「あ……」


 口を衝いて出たのは驚きと恐怖が混ざった震える声だった。つい先ほどまで普通に話していて、一緒に走っていた人物がいきなり獣に変わったのだから無理もない。動けない少女を前にして、目の前まで歩いて来た狼は口を開いた。


「大丈夫だ」


 聞いた事のある、まるでこちらを落ち着けるような声色に、いつの間に体の震えが止まった。涙が目に膜を張ったのか、黒い体は揺らいで見えた。しかしそんなミーシャを前にしても、狼は続けた。


「いいか、お前の親父さんは絶対に俺が助ける。お前も守る。だから――今だけは信じてくれ」


 その言葉に、大きく深呼吸をしたミーシャは覚悟を決めて目を一度閉じた。頬を涙が伝う。そしてもう一度目を開いた。そこに居るのが誰なのか、確かめるように。目の前にはやはり巨大な狼が、今度は立ち上がっていた。少女より二回りも大きな体だった。


 ――しかし理性の色を残している金色の瞳を前にして、今度こそ頷いて見せた。


「いきましょう」


 ――その声には確かな覚悟がめられていた。


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