4.5 沼地の支配者


 ――私は死ぬのだろうか。


 そんな考えが頭を過り「何を弱気な」と己を叱咤しったした。まだ死ぬ訳にはいかない、まだ死ぬ訳には……しかし、村に移り住んだ時から天候が変わりやすい事は分かっていたのに出かけてしまったことを、後悔せずにはいられない。


「ケェコ」

「クェッコ、ケコッ」


 何体居るのか数えてはいないが、数体になる蛙の群れは執拗しつようにラングレーを追い駆け回していた。自分が囮となり、スコットの父親は逃がす事が出来た。

 しかし、足を噛み付かれてしまい、そこから痺れが回り始めているのは嫌でも気が付く。既に視界は激しい雨のせいかかすみ始めていた。雷鳴も轟き、何度か雷が落ちているのが分かった。しかし自分が今どこを走っているのか、もう分からない。だがとにかく逃げなければならない――それだけは明確だった。

 姿は見えないが頭上の葉っぱからは何かが移動し、枝が揺れ葉っぱ同士が擦れ合い音を立てている。


「ハァッ、ハァッ――!」


 何度も何度も浅い呼吸を繰り返して、逃げ続ける。泥が傷に染みて痛んでいたというのに、疲労のせいか、それとも麻痺毒のせいか。走っていた足は引きずるようになり、徐々に足が動かなくなっていき……遂に――沼の端まで来てしまったようだ。


「はぁっ、はぁ……!」


 巨大な沼が目の前に広がっている――しまった、とラングレーは血の気が引いた。


「ゲココッ」


 水面に水泡すいほうと波紋が広がり、次々と白い蛙が顔を出し始める。びしゃり、と水音を立てて岸に上がって行く。木の上からも何匹もの白い蛙が飛び降りてきた。


 犬ほど大きさかつ真っ白な体、姿は蛙だが後ろ足はなく、長く鋭い尾と前足の代わりに羽がある。羽には蝙蝠のようで、手はないが関節の部分を杖のように使って這いずって移動しているようだった。ラングレーを見て何かを確かめるように口を動かすと、薄っすらと細かく生え揃った牙を覗かせる。


 水棲すいせい小魔獣しょうまじゅう――ウォーター・リーパー。彼らは犬のように群れで狩りをする。

 

 そう思い出した瞬間、誘導されていたのだと気が付き――ラングレーの体からついに力が抜け落ちた。膝がぬかるんだ地面に突く。悔しさのあまり、痺れていく手は泥を掴んだ


「ミィ、シャ……!」


 これから起こる恐怖の中、ラングレーは思わず最愛の娘の名を呟いた。まだまだ伝えたいことがあった。だが周りの魔物たちはようやく力尽きた獲物を皆で分け合う瞬間が来たと――最初に、ウォーター・リーパーの一匹がラングレーへと牙を向けた。


 ――もう駄目だと、ラングレーはキツく目を閉じた。


「ギィィッ!?」


 しかし獲物に飛び掛かるはずの体は、ラングレーの予想に反して目の前で大きな氷柱へと刺し貫かれた。地面に一度叩きつけられ、跳ねた体はそのまま地面へと倒れてピクピクと何度か痙攣けいれんした後、動かなくなった。


 ――まさか、そんな。


 信じられない気持ちでラングレーは力を振り絞り、顔を上げる。すると黒く巨大なに乗っている――最愛の娘の姿が、ぼやける視界の中でも見えていた。ウォーター・リーパーたちが向かってくるに、喉を鳴らして威嚇音を発するが何かは止まる気配がない。


 そして、そのまま、は白い蛙たちの群れへと突っ込んで来た。


 巨大な体が白い体を跳ね飛ばし、何匹かの喉を正確に裂いた。言語は違えど、蛙たちの口から次々に悲鳴が上がり始めているのが分かった。やられていく仲間を見て慌てて距離を離していく。


 ラングレーの目の前に立ち塞がっているのは、巨大で、人の骨格を残した黒い狼だった。そして、その背には――


「お父さん!」

「ミ、ミーシャ……」

 力尽きかけたラングレーは狼の背から下り、抱き締めてきた娘を震える手で抱き締め返した。冷たい雨に打たれていても、その温かさは今が現実のものだと教えてくれる。しかしミーシャは、父親との再会を喜ぶのも束の間、彼の耳に何かをめる。

「ミーシャ……?」

「お父さん、じっとしてて、もう大丈夫だから」

 父親を落ち着けるような声に驚きながらも、ラングレーは背を向けている黒い狼へ視線を向ける。唸り声を上げ、姿勢を低くしながら蛙達に威嚇している姿――というより服装には見覚えがあった。腰には、特徴的な剣もぶら下がっている。


「まさか――」


 何か言い掛けたラングレーの疑問は蛙達の金切り声でき消された。咄嗟にミーシャが父親の耳を押さえる。狼は一瞬だけその声に怯んだが、すぐ息を大きく吸うと――


「ウオォオオォォゥ――!!」


 まるで地を揺らすように狼が吼える。金切り声を上げていた蛙達はその声に驚き、体を恐ろしさから跳ねさせ、一瞬怯んだ。


 ――その隙に狼が弾かれるように飛び出し、一番近い蛙達の群れへと突っ込むとその喉元へと牙を立てた。


「ゲコォッ!?」


 蛙の口から発せられた驚いたような声を無視して、喉を食い破り、狼はそのままもう一匹へと食らい掛かる。群れを襲い始めた狼に対して、獲物を横取りされると踏んだのか、蛙達は矛先を襲撃者へと向けた。連携し長い舌を勢いよく飛ばし、狼の足や体へと粘着質な舌を巻き付け、動きを止めようとする。


 しかし逆に舌を掴んだ狼が力を込めて引っ張ると、白い体はあっという間に浮き上がり――逆に狼の牙の餌食になった。


 何匹かは力強く噛み付き離れようとはしない。だが蛙の頭を大きな手で掴んだ狼は自分の肉が千切れても構わず無理やり引き剥がすと、頭を握り潰した。さらに傷口は血が泡立つように噴き出したかと思えば、すぐに塞がる。


 激しい雨に打たれながら黒い毛並みが濡れても、狼はまるでバネのように手足を動かし、次々に蛙達を牙や爪の餌食にしていった。主に蛙から飛び散った血は水と一緒に地面へと吸い込まれていく。


 雨が少しずつ止んでいく。視界が晴れていくと、地面に転がるように横たわった蛙達の屍にミーシャは息を飲んだ。その凄惨とも取れる光景をただ見守るしかない。

 そして数が指で数えられるほどに蛙の数が減った頃、二人の背後にある沼から大きく何かが飛び出す水音が上がった。


 ――現れたのは巨大な白い蛙だった。体の大きさは狼を遥かに上回る。


 その体に見合った重さなのか、地面に音を立てて着地した巨大な蛙は辺りの様子――同胞達が屍となっている様子を見て――飛び出しそうな目を恨めしそうに狼へと向けた。白い蛙が一斉に巨大な蛙の方へと逃げて行く。狼はゆっくりと立ち上がった。そして、血だらけの口元を長い舌で舐めた。牙を剥くと再び唸り声を上げ、腰に差していた細身の剣――刀に手を伸ばす。

 まるで飛び掛かる前のように姿勢を低くした狼に対し、蛙は大きく飛び跳ねる。


 巨体にも関わらず、その体は上空へと舞い上がった。そして羽を広げてまるで攪乱かくらんさせるかのように何度も旋回せんかいしながら飛び回り――そして翼を畳むと勢いよく降下してきた。


 そのタイミングを見計らってか、狼も地面を蹴る。柄から、僅かに刀身が覗いた。


 ――大きく雷鳴が鳴り響く。雷から放たれた閃光が辺りを包み、狼の手に握られているが眩い光を発した。


「グ、ゲッ――」


 それは一瞬だった。


 巨大な蛙から小さく声が漏れた瞬間、体には斜めの赤い線が浮かび――そこから一気に鮮血が噴き出した。狼の手には血を付けた刀が握られている。


 血を吹き上がらせた巨体は落下し、再び沼へと水飛沫を大きく立てて沈んでいく。今度は二度と浮かび上がらないだろう事は、段々と落ちた個所から広がって行く赤い水から分かった。蛙達が再び悲鳴を上げて一目散に逃げて行く。


 地面に着地すると逃げていく蛙達、静寂せいじゃくが戻った沼を見回し、刀の血を服で拭い……狼が長く息を吐いた。柄に刀身を仕舞い、ゆっくりとミーシャとラングレーに振り向く。泥を跳ねさせながら歩いていくる狼を呆然としながらも見上げる二人に、目線を合わせるように屈んだ。


「――大丈夫か?」


 血の滲んだ毛並みと服装……その姿に対して、声や瞳、仕草は二人を気遣うものだった。

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