162 仮面の女

 彼女もまたその姿になっていることは、メラーレから聞いていた。


「もう起きたの? まだ寝てても良かったのに」


 ここ数ヶ月で聞き慣れたよりも少し低い声は、やたら耳に馴染んだ。十七年の時を経て、懐かしさが込み上げる。


「本当に戻ってるんだな」


 屋上に居たのは、仮面をつけた女だった。まるで仮面舞踏会にでも行くような、目と鼻を覆うものだ。

 暗闇に白く浮き出た銀色の髪は腰まで長い。黒髪のあやとは別人のようだが、彼女の元の姿を考えれば違和感はなかった。


「何でそんなの付けてるの?」

「女はね、少しでも若くりたいと思うのよ」


 地球ではほぼ二年で一つずつ歳をとっていくという。

 魔法で若返っていた絢と比べると大分差はあるが、ヒルスがターメイヤで最後に見た彼女とは十歳も離れていない計算になる。


「ふぅん。別にルーシャは年取っても奇麗だと思うけど? それより胸がなくなった事の方が問題なんじゃない?」


 顔よりもまずそこに目が行って、咲はニヤリと笑って見せる。

 はちきれんばかりの豊満な絢の胸は、鈴木を始めとする男子生徒の夢であり憧れだった。なのに今はルーシャに戻ってうっすらな傾斜を服にかたどるだけだ。


「何よ、その上げて突き落とすようなセリフは。すっかり元気になったみたいね」

「お陰様でね。ルーシャも色々有難う、感謝してるよ。僕はあの壁の前で死ぬかもしれないって思ってたんだ。今こうして話せるのは、ルーシャが掛けてくれた魔法とみんなのお陰だよ」

「私のミスで怪我したのに、貴方達は兄妹でお人好しなのね。それより彼が驚いてるわよ?」


 言われて咲はハッとれんを見上げる。ルーシャに戻った絢の姿に気を奪われて、彼の事を一瞬忘れていた。

 蓮は炎の上がった空に顔を向けたまま、呆然ぼうぜんと立ち尽くしている。

 ここは隔離壁の内側で、彼がさっきまで居た所とは違う世界だ。説明はしてあるけれど、突然日常を逸脱いつだつした光景を見せられては驚くのも無理はない。


「蓮」


 顔を覗き込むと、大粒の雪がビシャリと彼のほおに当たる。咲がそれを指で拭い落すと蓮はビクリと身体を震わせ、その手を覆うように自分の手を重ねた。


「ごめん。ちょっとびっくりした」

「仕方ないよ。メラーレの所に行っててもいいぞ?」

「いや、こっちに居させて」


 首を振る蓮に「わかった」とうなずいて、咲は屋上のフェンスを右手で掴んだ。

 戦いの音を遠くに聞きながら暗がりに目を凝らすが、その姿は見えない。


「ルーシャ、まだみんなは生きてる?」

勿論もちろんよ。アッシュがずっとハロンと戦っているわ。正直、彼がこんなに戦える人だなんて思っていなかった」

「そうか、良かった」


 咲は安堵あんどしてフェンスに身体を預けた。冷たすぎる鉄の感触を心地良く感じる。


「それで? その姿は何の風の吹き回し? メラーレは理由を教えてくれなかったんだけど」


 上目遣いに見る咲に、絢は口の端を上げて見せた。ほおに薄く刻まれたしわが、少しだけ歳を感じさせる。


「気を使ってくれたのね。私の魔力が足りなくて、若い身体を維持する余裕がないだけよ。あの姿を保つのにも魔力がいるの。今はそんな無駄なものに使う力はないんだって諦めただけ」

「足りない、って。魔法が使えなくなってきてるって事?」

「そう言う事。将来的にゼロになるかどうかは分からないけど、これも禁忌を犯した代償なのかしら。貴方がアッシュを助ける以前に、私たちが生身でこの世界に来ること自体良くなかったのかもしれないわ」


 最初に出た黒いハロンとの戦いで死ぬ運命だったアッシュを救えば、今のこの戦いに影響が出ると言われた。

 その鍵を握る咲は、あえて彼を救う事を選んだ。彼に生きていて欲しかったからだ。


 今ルーシャの言葉を聞いて思うのは、この戦いに影響を与えているのが『誰が』ではなく『一人一人』なのだろうということだ。


「僕が言うのも何だけどさ、犯人探しみたいなことはやめようよ。前にも言ったけど、ルーシャだけのせいじゃないんだからな?」

「ありがとう。貴方が守ったこの隔離空間を最後まで維持させなきゃね」

「頼むよルーシャ。僕は……」

「貴方はまだ戦うつもりなんでしょう?」

「僕ってそんなに分かりやすい?」

「分かりやすいわ」


 メラーレの前では意気込んであんな薬まで飲んだけれど、正直絢には止められると思っていた。

 けれど彼女は咲に「気を付けるのよ」と告げる。


「止めないの?」

「止めても行くんでしょう?」

「うん」


 はっきりと答えると、蓮が「あの」と横から口を挟んだ。


「怪我した咲が一人で行っても、無事でいられるんですか?」

「それは分からないわ。こんな光景見せられちゃ心配するのも無理ないわよね。けど、アレの所に行くんですもの、絶対なんて言葉は使えないのよ」


 絢が闇へ向けて右手を伸ばした。

 西の空、彼女が指し示した先に赤い光が小さく光る。ヤツの目だ。

 地上から照らしつける炎の色に、漆黒の影がくっきりと映える。それがハロンの輪郭りんかくかたどっているのが分かって、咲と蓮は息を飲み込んだ。


「あれが……敵なんですか?」

「そうよ。このコに怪我をさせたのもアレよ。だから、今の咲に貴方を守ってあげられる余裕はないの。一人で行かせてあげて貰える?」

「……はい」


 沈黙を挟んで返事すると、蓮は感情を閉じ込めるように唇を結んだ。


「ありがとう、蓮。ちょっと手伝ってもらってもいいか?」


 咲は旗ポールの横へ移動して、くくりつけてある縄を掴んだ。仰ぎ見た暗い空に、ヒラヒラと旗がはためいている。


「これを外してくれないか? 向こうに持っていきたいんだ」

「旗を?」

「蓮の部屋に旗があるだろ? あれを見て作ろうって言ってたやつだよ。戦場でアイツらの帰る場所を作りたくて」


 蓮の好きな本に出てくる旗の意味を重ねて作った。


「僕はもうたいして戦えないけど、この旗を掲げて勝利を祈りたいんだよ」


 「そうなんだ」と縄を解く彼の目に少しだけ涙が見えて、咲は「待ってて」と蓮の着る中條のコートを掴んだ。


「分かったよ」


 その言葉を彼に言わせてしまったことに心が痛んだ。

 キィキィと音を立てて下りてきた旗を蓮から受け取って、咲は絢に頭を下げる。


「蓮をお願いします」


 咲は蓮に笑顔を送り、屋上を後にした。

 少し身体が痛んだけれど、早くその場から立ち去りたかった。

 自分の目から涙が零れ落ちそうになったのが分かったからだ。



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