71 彼女が誰かなんて分からなかった

 目覚めた場所は、誰も居ない高校の保健室だった。

 朝だか昼だか分からないが、閉じたままのカーテンが陽に照らされて明るい。


 状況が飲み込めずともはそっと起き上がるが、肋骨ろっこつに痛みが走って再び横になった。

 真白な布団に頭までもぐって目をつむると、大泣きする咲とみさぎの顔が浮かんで、「そうか」と納得する。


「え、けどちょっと待って。何で学校?」


 あの広場で倒れてからここに来るまでの経緯が全く分からない。

 困惑しつつ再び起き上がろうと枕の横に手をつくと、再び痛みが同じ位置を襲った。


「やべぇ」


 これは骨をやってしまったのかもしれないと不安になった所で、廊下側の扉がガラリと開いた。


「あ、起きたのね」


 小さな土鍋の乗ったトレイを手に入ってきたのは、養護教諭の佐野一華さのいちかだ。

 そういえばこの間みさぎへの告白を彼女に聞かれていたことを思い出して、気まずいなと思いつつ平静を装った。


「おはようございます」


 チラと確認した壁の時計は、七時半を過ぎたところだ。どうやら今は朝らしいが、彼女はどこまで事情を知っているのだろうか。


「おはよう。そろそろかなと思っておかゆ作って来たんだけど、気分はどう? 食べれそう? それともお肉とかの方が良かったかしら」

「いえ、おかゆがいいです。ありがとうございます」


 まだ熱いからと言って一華はトレイを応接セットのテーブルに乗せると、窓際のカーテンを開いた。

 晴天の太陽がまぶしい。

 一華は痛みをこらえながら起き上がる智の背をそっと支えて、側の椅子に腰を下ろした。


「少し骨を痛めたのかもしれないから、ちゃんと病院に行ってね。御両親にはお祭りでハメ外しちゃったって言ってあるから、うまく合わせておいて」

「は、はい」


 だからどうして彼女はそんなことをしてくれるのだろうか。

 転校してきてまだ一月ひとつきの智は、みさぎとの一件以外で彼女と話した記憶もない。

 彼女が保健の先生だから……なのだろうか。


「あの、俺どうしてここにいるんですか? 全然覚えてなくて。みなとがここに運んでくれたんですか?」

「違うわ、中條なかじょう先生よ。結構きたえてるみたいで、軽々と運んできてくれたわ。お姫様抱っこっていうの?」


 うふふ、と穏やかに笑む一華に、智は「えっ」と声を詰まらせる。想像したくないワンシーンが頭をよぎって、背筋がゾッと寒気を感じた。


 大体、何でここで中條の名前が出てくるのだろう。あの広場は偶然誰かが通りかかる場所ではない。

 途中目を覚ました時、咲たち三人以外に誰かが居たのだろうか。

 確かに湊一人じゃ図体のデカい男一人を下山させるのは難儀だろうから、上手いこと言って担任を呼びつけたと考えれば納得できないこともないけれど。


 魔物の気配は何日も前から感じていた。

 あの甘い匂いは、広場の天井に刻まれた次元のひずみから染み出ていたものらしい。


 祭の待ち合わせ場所に行こうと思ったら、いつもとは比べ物にならない程の強い気配がして、智は駅を迂回うかいしつつあの広場へ向かった。

 一人でいどもうと思ったのは、湊が居なくても戦えるという証明をしたかったからだ。

 まさかハロンと同じ気配を持っている奴だとは思わなかった。


 魔法が効かず、呆気あっけなくやられた。死を覚悟したけれど、自分がまだこうして生きているのはみんなのお陰だ。


「はっきり言って、俺死ぬと思ってました」


 智は沈黙に耐え切れず、そんな話をした。


「けど、倒れてる時に昔好きだったコの名前が聞こえて。あぁ会いたいなって思ったら、戻って来れたんです」


 目覚めた時そばに居たのはみさぎたちだったけれど。


「それって、みさぎちゃんの事?」

「いや、もっと前に好きだったコです」

「へぇ、そんな人がいたんだ。可愛い子だった?」

「はい!」


 何でこんな流れになってしまったのか智自身よく分からないが、戦いの話を避けようと思ったら、妙に一華が食いついてきてしまった。

 一華が「そうなんだ」と恥ずかしそうにほおを染めて、何だかこっちまで恥ずかしくなってしまう。


 智はこめかみを搔きながら続きを話した。


「昔近所に住んでたコなんです。ガキの時だったけど、俺本気で結婚しようって言ったことがあって。けど、バッサリフラれちゃったんですよ。あん時は断られるなんて思わなかったけど、今考えると我ながら自意識過剰だったなって」

長谷部はせべくんって、この間はみさぎちゃんに告白してたわよね」

「そっちもフラれたんですけどね。俺、昔好きだったそのコの事ずっと引きずってるんです。どうせ叶わないし、もう会えないって分かってるから、きっぱり忘れて他の子を好きになろうと思ってるのに」


 リーナへの気持ちはアッシュの時からだけれど、いつも頭のどこかでラルには敵わないと思っていた。だから、みさぎにフラれたのは当然の結果なのかもしれない。


「けど俺、みさぎちゃんにフラれた時、プロポーズした彼女の事考えてた」

「やめて」


 自虐じぎゃくネタを披露しまくった所で、一華がそう呟いたままうつむいてしまう。


「あぁ、すみません。俺しゃべってばっかで」

「そうじゃないの。ねぇ長谷部くん、もしまたそのコに会えたら、どうする?」


 下を向いたまま彼女は尋ねる。

 現実味のない妄想でしかないけれど、智は向こうで最後に見掛けたメラーレの姿を頭に浮かべて、思わず笑みを零した。


「そしたらもう一回だけ好きって言います。結婚したいって断られたまま、何か余所余所よそよそしくなっちゃって話もできなかったから。本当に、もう一度話せたらいいのに」

「じゃあもしもよ? そのコが、貴方が生まれ変わっている間に何歳も歳をとってしまっていたら? 年上になった彼女に同じことを言える?」

「え? 生まれ変わるって。先生……?」


 彼女は何を知っているのだろうか。

 上目遣いの強い視線が智を睨んでいる。そして、何故か泣きそうになっている彼女に狼狽うろたえて、智は眉をしかめた。


「知ってるんですか、俺の事」


 どういう流れでそうなっているのかは分からないけれど、彼女が事情をそこそこ理解している事だけは分かる。

 ここに湊たち三人の誰かが居ればいいのにと思うのに、誰一人として居ない理由は何なのだろうか。


 一華は何も言わずに肩を震わせている。

 ひざについた手の甲に涙が落ちるのが見えて、智は思わず手を伸ばして彼女の腕を掴んだ。

 華奢きゃしゃな肩をビクリとさせて、一華は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。


「先生……?」

「何で……」


 ひくりとしゃくりあげて、一華は智に訴える。


「何で貴方はいつもそうなのよ。何でも分かってるフリして、全然分かってないじゃない」

「えっ、ちょっと待って。それって……」


 まさかという思いが込み上げたけれど、そんなはずはないという気持ちの方が強くて、智は出しかけた言葉を飲み込んだ。


 外見だって大分違う。

 この世界に彼女が居るわけはない――そう思うのに。


「メラーレなのか?」


 押し黙ったままうなずく一華に、智は頭が真っ白になってしまう。


「な……なんで?」


 最初は湊と自分以外にこっちに来ている人間がいるだなんて思いもしなかった。

 リーナとヒルスだけでも十分驚いているのに、ターメイヤでは一般人のメラーレがこっちに居るなんてありえない。


「じゃ、俺を運んでくれた中條先生も?」

「……そうよ。貴方が死ぬかもしれないって言うから、運命を見守るために追い掛けてきたのよ」


 一華は掴まれたままの手に視線を落とす。


「けど、何でメラーレが?」

「お爺ちゃんが貴方たちの剣のメンテナンスをしに行くって言うから着いてきたのよ。助手として」

「お爺ちゃんって、ダルニー爺さんが居るのか?」


 「けど」と一華は声を震わせて、首を横に振った。


「一緒だったけど、来るときに亡くなってしまったの。私たちは転生じゃなくて次元移動――つまり転移でここに来ているの。自分が死ぬかもしれないって、おじいちゃんは言ってたわ。それでも自分の打った剣の責任はとらなきゃって」

「爺さんが……」


 懐かしい顔を浮かべて、智は込み上げた思いに唇を噛む。


「けど貴方が思い詰める事じゃないわ。私にとってはもう十年以上前の事だもの」

「そんなに……」

「だから言ったでしょ? 年上だって」


 日本とターメイヤでは時間の流れが違うのだと、一華は説明した。

 日本での二年はターメイヤの一年分で、彼女は今見た目通りの二十代半ばだという事だ。


「私はずっと貴方が好きだった」

「そう……なの? けどあの時……」


 ダルニーの工房に押しかけて、一世一代の大告白を切り捨てた彼女の言葉に聞き違いはない筈だ。


「あれは奥におじいちゃんが居たからよ。だから、「はい」なんて言えなかった」

「ごめん、俺……」

「謝らないで。私がずっと意地張ってたのが悪いんだから」


 智は泣きじゃくる一華の手を引いて、彼女を胸に抱き寄せた。肋骨が悲鳴を上げるのを涙目で堪えて、もう一度彼女に思いを伝える。


「メラーレが好きだよ。先生がメラーレだっていうなら、歳なんて関係ないから」


 小さい頃の彼女は泣き虫だった。親に叱られたり、飼っていた虫が野犬に食べられてしまったりと理由は色々だったけれど。

 そんな時はいつも丘へ連れ出した。魔法を見せると途端に彼女は笑顔になって、それが嬉しくてたまらなかった。


「アッシュが、生きてて良かった」


 彼女の想いを受け止めて、自分の目まで熱くなった。

 カッコ悪いと思ったけれど、「ありがとう」と言った声が涙を誘って、智は一華を抱きしめながら泣き声を上げた。






5章『10月1日のハロン』終わり

6章『隠し扉の向こう側』に続く

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