第10話 夜語り③

 ラグナ王国の王都【キュベェレ】の都市名は、国家の守護神として信奉する大地母神の名から取られている。

 万物の母たる大地の女神。

 その性質が転じての、人々のいとなみと密接な関わりがある豊穣ほうじょうの力。

 そして、生きとし生ける者の死と再生をもつかさどる女神キュベェレへの信仰心は、貴賤きせんを問わずこの国で暮らす者の多くが共有するものだ。


 ――死別しべつした大切な人ともやがてはまためぐり合うことができる。


 そういった教義の中の一節は、親を亡くして身寄りのない子供たちの生きる希望にもなっている。

 王都の神殿といえば中央に位置する大神殿が真っ先に挙げられるが、アリーシャがタリアと共に随行ずいこうする近衛このえの騎士たちにまもられながら向かうのは、西の旧市街の外れにある古びた小さな神殿だ。

 年老いた神官と孤児出身である巫女が祈りを捧げるその場所は、隣国アカネイアとの戦で生まれた戦災孤児たちの暮らす孤児院でもあった。


「この道を通るのもこれが最後になるのかしらね」


 お忍びであるがゆえに王家の紋章が隠された黒塗りの箱型四輪馬車で揺られるアリーシャは、閉じられた深紅のカーテンの先に広がる景色を思い浮かべながら、ぽつりと言葉をこぼす。

 まだ母親の膝の上で、すべての者に愛されていることを信じて疑わずに笑っていられた頃のこと。

 初めて城下の街並みを自分の目で見たアリーシャは、赤瓦あかがわら屋根と白塗りの壁で作られた家々や、そこで暮らす大勢の人々の活気にあふれた様子に、思わず感嘆の声を上げて窓から身を乗り出すほど心がおどっていた。

 危ないからと隣に座るユリウスにたしなめられて、それでもやめようとしないアリーシャの姿に、父親カール母親カトレアが見つめあって穏やかに微笑する。

 王族としてではない、家族としての時間。

 今では記憶の中にしかない、アリーシャの根幹こんかんを支える原風景げんふうけいと呼べるものだ。


「本当によろしいのですか?」


 最大で四人が乗れる車内には、りし日とは違い、アリーシャとタリアの二人しかいない。

 馬車馬ばしゃうまを操る御者と、馬車の前方と後方左右を挟む形で周囲を警戒する騎乗した騎士たちは遠くない距離にはいるが、聞き耳を立てるような真似はしないと信じられた。

 完全に二人だけの空間。

 だからというわけではないが、独り言としてははっきりと聞こえた声に、タリアは問わずにはいられなかった。


「タリアと一緒に自分の足で街を歩いて、出会った人たちの声を聞ける時間が好きだったから、それが無くなるのは少し寂しいわね」

「そうして出会ったあの子たちは、姫さまがアカネイアの国王に嫁ぐと聞いてどう思うのでしょうか?」

「……意地悪なことを言うのね、タリアは」


 アリーシャは、困ったような笑みを浮かべる。

 喜んでくれないだろうとは思う。

 子供たちから、家族を、住む場所を奪ったのは他ならぬアカネイアとの戦争なのだから。

 アリーシャの脳裏に、孤児院で暮らす子供たちの顔が浮かぶ。

 一番歳上で、街で仕事を探して孤児院のみんなのために日銭を稼ぐ頑張り者のヤック。

 お姉さんとしてみんなをまとめるしっかり者のミサ。

 文字の読み書きができる賢いトト。

 歳のわりにおませなルゥ。

「ひめさまぁ」と呼び慕って、いつも真っ先に駆け寄って来てくれるリリィ。

 泣いてばかりだけど、絵本を声に出して読み聞かせると誰よりも目を輝かせてくれるレン。

 アリーシャは孤児院にいる六人の子供たち全員の顔と名前を憶えている。

 彼らとの交流は優しい時間だけではなくて、アリーシャがこの国の現実を知る一助となり、政略結婚を受け入れるだけの覚悟を決める一因ともなった。


「それでも、いいえ、だからこそ必要なことなのよ」


 そう、アリーシャは力強く言い切る。

 たとえ子供たちに嫌われたとしても、それが彼らを守ることにつながるのであれば、アリーシャはそれでいいと思えた。


「子供たちに本当に必要なのは姫さま自身です! それに姫さまがいなくなってしまったら、子供たちの暮らしはどうなりますか? 大神殿があるこの王都で、近隣の住民も寄りつかない寂れた神殿のことなど、他の誰が気に留めるというのです!」


 なおも言いつのるタリアに、アリーシャは純白の手袋の上に付けられた指輪を外して、手のひらにのせて差し出す。


「これを神官さまに渡して。あの子たちが自分で生き方を決めて稼げるくらいまでの資金にはなるはずよ」


 神殿の収入はおもに貴族や商人など富める者や周辺に住まう敬虔けいけんな信者の寄進によって成り立っているが、王都では中央の大神殿に権威が集中している。

 子供たちの暮らす神殿の困窮こんきゅうを知って陰から資金援助をしていたアリーシャは、これが自分に許された最後の訪問になると分かってから、どうするかも決めていた。

 アリーシャに差し出されるがままに指輪を受け取ったタリアだったが、それが何であるかに思い至ると、身を前に乗り出して感情を爆発させる。


「これは姫さまが肌身離さず付けていた王妃さまの形見の指輪……姫さまはそうやって自分を犠牲にしてばかり。そんな姫さまだから、私は……!」

「……そろそろ着くようね。タリア、簡単に分かってくれなんて言わないわ。話の続きはまた帰るときにでもしましょう」


 大通りからゆるやかなカーブを抜けて、二本の細く高く伸びる塔の間の門を抜けるように真っすぐに進むと、徐々に遠くなっていく喧騒とともに、かつては街の中心であった旧市街に入る。

 アリーシャは舗装ほそうが行き届いていない道特有の小さく車輪が跳ねて走る振動から目的地の神殿が近いことを知り、話を一度切ることにした。

 タリアはさらに言葉を続けようとしたが、主が求めていないのであれば口にすることを許されないのがメイドだ。


「もう……いいです」


 最後にタリアがそう力なくつぶやいて、そこで二人の会話は終わった。



 ※ ※ ※



 見上げるほどに高い大理石の柱が外周を並び、基板から屋根にかけてもすべてが石で造られた神殿は、旧世代の建築技術のすいが集められたものだ。

 子供たちを怖がらせないように護衛の騎士たちを敷地の外に残して、アリーシャはタリアのみを伴って石造りの神殿の内部に入った。

 いつもはすぐに気づいて笑顔で迎えに来てくれるリリィの姿が見えないことにかすかな違和感を覚えたが、かつては多くの信徒を抱えていた、古くても広さはある神殿だ。

 奥の部屋に居て気づかないこともあるだろうと、さして気にすることなく進んでいた。


 ――


 不自然な静寂。

 空が耐えきれずにいよいよ雨が降り出したのだろう。

 外から聞こえる強く地面を叩く音と、コツン、コツンと鳴る二人の足音だけが、神殿内に響く。

 リリィだけではない。

 年長組は別としても、ルゥやレンなどのまだ遊び盛りの元気な子供たちが寝静まるような時間帯ではないはずだ。

 それなのに誰一人姿も見えず、物音ひとつしないなんてことがあり得るのだろうか。

 そんなはずはない。

 何かがあっていいわけがない。

 つとめて思考を止めて、タリアから焦った声で呼び止められたがそれも聞かなかったことにして、アリーシャは答えを知るためにひたすらに前へと進んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 知らず足取りは速くなり、呼吸は荒くなっていく。

 空気が薄く感じて、大きく息を吸い込もうとすると、むせ返るような異臭にアリーシャは思わずき込んだ。

 それでも足は止めない。


「姫さま!」


 タリアが何度も呼び止めてくるが、彼女と話すのは帰りの約束だ。

 今は時間を取るつもりはなかった。


「姫さま、引き返しましょう! 何かおかしいです!」


 おかしいことなどあるはずがない。

 今は子供たちが寝転ぶくらいにしか使われていない整然と並べられた長椅子も、神父や巫女が祈りを捧げるための祭壇も、その奥に信徒を見守るように置かれた女神像も変わらずそこに在るのだから。

 あいにくの空模様のせいで神殿内に日は差さず中は薄暗いが、アリーシャの足を止める理由にはならなかった。


(タリアが心配性なだけ。そうよ、今に子供たちが奥から飛び出してくるわ)


 年齢から一度は現役を退いた神官が子供たちを食べさせるために行っている聖水作りを手伝ったこともあるし、ここで育った恩を返そうと巫女になって残った彼女が、子供たちのいたずらに怒って追いかける姿は記憶に新しい。

 ヤックはアリーシャが来る日は出稼ぎに行かずに残ってくれていることが多いし、ミサが今日も年少組が危ないことをしないか目を光らせていることは想像にかたくない。

 トトが眼鏡を光らせながら以前あげた本を今日も読んでくれているのであればそれはとても嬉しいことだし、彼にプレゼントするための新しい本も持ってきた。

 年少組のルゥ、レン、リリィはアリーシャの絵本の読み聞かせが大好きなようで、せがんでくる姿が可愛くていとおしくて、アリーシャも彼らとの時間を大事にしていた。

 もう来られないと告げれば、泣かれるかもしれない。

 アカネイアの王に嫁ぐからだと言えば、怒られるかもしれない。

 みんなと会えなくなるのがつらいと明かせば、逆に励まされるかもしれない。

 どうであれ最後は湿っぽくならずに、笑ってお別れするつもりでここに来たのだ。


「せめて護衛の騎士を呼びに戻りましょう! 私たちだけじゃもし何かあったら」


 ついには肩をつかまれ、アリーシャは強引に足を止められてしまう。


「離して!」


 アリーシャはタリアの手を振り払った拍子ひょうしに、自分の足が何かに触れたことに気づいた。

 アリーシャの視線が下がる。


「――そんな、まさか」


 それは、人間の身体だった。

 人間の身体だと分かるのに、すぐに誰のものか分からなかったのは、胴体から先にあるべき物がないからだ。

 無残にも背中から激しく斬りつけられた痕に、むせ返るような異臭の正体が何であるかも知る。

 濃厚な死の気配をまとった、血の臭いだ。

 流れる血の跡は視線を誘導するように答えまで続いていて、暗さに慣れてようやく見えるようになってきたアリーシャの目が、祭壇にこれ見よがしに置かれたその存在を否定しようと大きく開かれる。


「神官さま……嘘、嘘よ」


 アリーシャは呆然と呟き、タリアは息をんで恐怖に襲われたのか後ずさる。

 それは人間の首だった。

 神殿にやって来た身分だけは高くて面倒な自分を温かく迎え入れて、大切な時間を与えてくれた恩人。

 丁寧に頭を下げて、礼を尽くすつもりだった相手。

 子供たちにとっては親同然の老神官が、苦痛に顔をゆがめた首だけの姿になって飾られていた。



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