第9話 夜語り②
「行きましょうか、タリア」
「はい、姫さま」
外行きの衣装に袖を通したアリーシャは、着替えの間にカップに入れ直された紅茶を飲んで気持ちを整えてから、お付きのメイドの中でタリアのみを伴って自室から出た。
専属の女性の近衛が警護する広くて短い廊下を通り、外敵の侵入を拒む為に
前に出たタリアからの声での知らせを受けて外から扉を開けるのは、二人の老練な王国騎士だ。
兵士から一代限りの騎士爵の身分で取り立てられた叩き上げで、前線を退いているが国への忠誠は高い。
二人とも寡黙で、アリーシャが知る限りではずっと変わらずに務めてくれているのだが、アリーシャは彼らの声を聞いた記憶がなかった。
彼らが己の立場を弁えているからなのか、
それを寂しいと思う気持ちはあったが、もうすぐこの国を離れる今となってはそんな感情も
しばし待ち、扉が鈍い金属音を立てて開くと同時に見えてきた空は、灰色の雲で覆われていて今にも雨が降り出しそうだった。
「お気を付けください。風が強いみたいです」
「ええ、気を付け――ッ」
先に外に出て様子を確かめたタリアの忠告を聞いてはいたのだが、アリーシャは背後から吹く風の勢いに背を押されて、思わず前へと何歩か踏み出してしまう。
「大丈夫ですか、姫さま!」
どうにか転ばずに踏みとどまったアリーシャは、心配そうに声を張り上げたタリアのもとまで歩み寄る。
風で横に流れる金色の髪を指で抑えながら、アリーシャは風の吹いた背後を振り返って言った。
「少し驚いただけよ。本当に強い風ね」
アリーシャの視線の先には、先ほどまで彼女が居た一本の塔が高く伸びている。
塔が外部と繋がるのは、アリーシャとタリアが通ってきた重い鉄の扉と、王宮にある国王の部屋から直接伸びている、今は使われていない連絡路のみだ。
母親であるカトレアが生前暮らしていた部屋を、アリーシャは使っている。
アリーシャにこの塔とカトレアの部屋があてがわれたのは父親である国王カールの気遣いのはずで、アリーシャ自身も優しかった母の記憶を風化せずにいられるのは嬉しい気持ちはあるのに、時折なぜかまるで自分がここに囚われているような錯覚に
(そんなはずはないのにね……)
警護のために予定を知らせる必要はあっても、こうして自由に外を出歩けている。
王家に生まれた娘として大切にされている自覚はあるが、閉じ込められてなどいない。
それでもアリーシャがそのように思ってしまうのは、王族としてのこれからの人生を、本心では受け入れきれていないからなのだろうか。
「この空模様だし、嵐でも来るのかしら」
「戻りましょうか?」
「……それには及ばないわ。わたくしに残された時間は有限なのだから。やれることはやっておかないときっと後悔することになるもの」
「姫さま……」
あるいはタリアの言う通りに父に泣きついて、自分の運命に抵抗する道はあったのかもしれない。
けれど、それは国を二分する愚行で、王太子である実兄のユリウスの立場を落とさないためにも、避けなくてはならないことだ。
(ロイナスも言っていたわ。これは正しいことなのよ。わたくしがアカネイアに行けば、民は救われるのだから)
そう自分に言い聞かせるように心中で唱えたアリーシャは前を向いて、
赤と青で彩られた屋根を等間隔で並ぶ左右の細い石柱が支える壁のないこの道は、そのまま国の中枢である王宮へと続いていて、左手には美しい噴水庭園が覗ける。
アリーシャも庭師が整えた木々や花を見るのは好きだったが、今はあいにくとそのような景色を楽しめる天気ではない。
また、アリーシャ自身にもそれができるだけの心の余裕がなかった。
黙々と進むアリーシャだが、タリアもそんなアリーシャに対して無駄口は開かない。
そもそも用事がなければ、主に求められない限りは口を開かず存在を消しておくのはメイドのたしなみだ。
タリアはアリーシャと歳が近いこともあり他に仕える者たちよりも近しい距離に置かれてはいるが、彼女もまた己の立場はわきまえて行動していた。
そしてその沈黙が窮屈と感じるほど、王宮とアリーシャの住まう塔は距離が離れているわけではない。
気づくとアリーシャは風を感じなくなっていて、見慣れた建物内に足を踏み入れていた。
すでにアリーシャを迎え入れてくれた兵士によって扉は閉じられており、外界とは切り離されているが、高度な光の魔法具によって十全な光源がもたされており、太陽の光や火の力に頼らずとも明るさが保たれている。
(いつ来ても見事なものね)
左右対称に建物が突き出したような構成となっている宮殿には有力諸侯が泊まれる部屋まで用意されており、多くの臣下が暮らしている。
中央の玉座の間には国王カールが座しているはずで、王太子であるユリウスもそこにいて今も政治を動かしているだろう。
アリーシャも塔に移るまでは、この王宮に一室をもらって暮らしていた。
すれ違う兵士や騎士の姿も多く、まさしく国の中心であると思える。
金糸で縁取られた真紅のカーペットを踏みしめながら、アリーシャは侍従のロイナスが用意している近衛との合流場所へと向かう。
そこらかしこに置かれた大きな絵画や壺などの美術品は歴代の王家が集めてきたものだが、アリーシャの父であるカールが国王となった代で増えた物も多い。
特にアリーシャの母であるカトレアが亡くなってから、それは顕著になったように感じる。
アリーシャの肖像画と、若い頃によく似ているというアリーシャから描かれたカトレアの肖像画が特に目に付く。
一部では無駄金遣いが
(国王陛下はお寂しいのだわ)
だからアリーシャが他国に嫁ぐと聞いて反対したのだろうし、家族での
せめて残っている家族だけでも集まれれば、その心を慰めることもできるのではないか。
これから国を離れることになるアリーシャにとっては、残してゆく父のことだけが気がかりだった。
そのように考えていたから、アリーシャは偶然見かけた彼らに対して、声を掛けずにはいられなかった。
「叔父上、それにシグルド兄様も。このような場所でお会いできて嬉しゅう存じますわ」
「おお、アリーシャ! 息災であったか」
「……アリーシャか」
向けられる温かい目と、それとは対照的な冷たい目。
中央から少し外れた廊下に、国王の実弟でアリーシャにとっては叔父にあたるバルガス大公と、異母兄である第二王子のシグルドがいた。
バルガスはアリーシャには温厚な顔を見せることが多いが、鍛え上げられた鋼のような肉体を持つ偉丈夫である。
諸外国まで勇名を轟かせる王国騎士団長であり、常在戦場の心得からか鎧を脱いだ姿をアリーシャは見たことがない。
シグルドも副騎士団長の地位に就いてはいるが、剣を持つのが似合わないほどの痩身であり、バルガスとは逆で鎧を着ている姿をアリーシャは見たことがなかった。
『次男は武をもって長兄を支える』と云うラグナ王家の慣例にならって騎士団に身を置いてはいるが、シグルド本人はその在り方を受け入れていないのだろう。
実際、シグルドはアリーシャの目から見ても、王太子である兄ユリウスの下にいる現状を好ましく思っていないのは明らかだ。
それどころか政治的には敵対さえしていて、中央から距離を置かれた貴族を中心に取り込んで自身の派閥を急成長させていた。
アリーシャはせめて兄同士の決定的な決裂だけは止めたいと常々思っていたが、近頃では顔を合わす機会さえなかなか持てていないのが実情だった。
「シグルド兄様、国王陛下が寂しがっておられましたわ。たまには晩餐会に顔を出してくださいまし」
「見え透いた嘘を申すな。あの男が俺の存在を気に掛けるものか」
「そう申すな、シグルド。あれでいて兄上なりに子を愛しておるのだ」
「子を愛している。それは確かであるでしょうが」
鼻で笑いながらシグルドはアリーシャを見やる。
(昔はわたくしに絵本を読み聞かせてくれたこともあったのだけれど……もうあの関係に戻れることはないのでしょうね)
ユリウスとアリーシャの母親であるカトレアは身分の低い貴族の血筋で、シグルドの母親のルトヴィナは他国の王家の血筋だ。
それなのに正室はカトレアであり、ルトヴィナは第二王妃として側室の地位に置かれていた。
カトレアが亡くなってからもその座にルトヴィナが昇ることはなく、王妃を伴うべき外交はアリーシャが代わりに行うようになっていた。
シグルドが晩餐会に顔を出さなくなったのも、国王がルトヴィナを正室にするつもりがないと分かってからだ。
シグルドの王太子ユリウスへの強硬な敵対姿勢は、ルトヴィナの扱いに一因があるとアリーシャは考えていた。
「叔父上も城に居られるのであれば是非晩餐会にご参加を」
「ふむ、そうするか。久し振りにアリーシャの話をゆっくりと聞きたい」
「ええ、楽しみにしておりますわ。シグルド兄様もお待ち申し上げております」
「……そうだな、機会があれば考えてやろう」
「
アリーシャは二人に頭を軽く下げてその場を離れた。
後ろで控えていたタリアも何も言わずにアリーシャの後に続く。
そうしてアリーシャはロイナスが用意した近衛の騎士たちと合流後に、子供たちの待つ城下へと向かうのだった。
※ ※ ※
「結局叔父上とシグルド兄様と晩餐会の約束は果たせていないわ。これもわたくしが王都に帰らねばならない理由のひとつね」
そう言ってアリーシャは、ベッドから立ち上がって歩き、窓辺から月の出ている空を覗く。
その表情は見えずとも
「
「余計なことは言わなくていい」
いつの間にかシアの頭に
これにはされるがままになっていたシアもさすがに
結局無駄だと諦めて、再びされるがままになるシア。
そんな二人の様子にアリーシャは思わず笑みを
「ふふっ、構いません。それにしても二人は本当に仲がよいのね」
「シアは温かいですから。今日は寒いですしベッドも狭いのでこれで寝ます」
「……この扱いは高く付く」
シアの不満げな声は聞き流して、ユナはアリーシャに話の先をうながす。
「もともと気になってはいたのです。アリーシャ様の護衛に付くような近衛は、王国でも腕利きの騎士のはず。如何にあのガロという男が優秀な傭兵であろうとも、果たして王家の膝元である城下町でアリーシャ様をかどわかせるものなのかと」
「……それを二人にも考えて欲しくて、わたくしも当日のことを思い出しながら話しています。これから語るのは、思い返すのも忌むべき記憶ではあるのですが……」
アリーシャの語りに、ユナは再会したばかりの彼女が激情に包まれていたのを思い出す。
かつての戦場では末端の兵士まで癒すほどの慈愛を見せ、今も民のために己の身を捧げることを
その理由を、ユナはアリーシャの話を聞くことで知ることになる。
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