第8話 夜語り①
その日は、刺さるような嫌な肌寒さを感じる、日の届かない
「聞きましたぞ、姫さま。また城下にお出になるようですな。あまり口うるさく申し上げたくはありませんが、無為に
慌ただしく開かれた扉から、大きく張り上げられた声が聞こえてくる。
仮にもラグナ王国の第一王女の私室にこのような態度での入室が許される男は、王家に連なる血筋の者を除けば彼くらいのものだろう。
アリーシャは短く嘆息してお付きのメイドたちを下がらせてから、手にしていた紅茶のカップをテーブルに置いて視線を上げた。
そこには、幼少の頃は世話役、今は侍従長として変わらず
出会ったときは黒かった彼の髪がすっかり白に染まっているのは、こうして気苦労を掛け続けたからだろうか。
そのことに対してアリーシャも痛む心がないわけではないが、それが無用の気遣いであれば感謝には至らない。
むしろ
だから、返す言葉は知らず
「無為とは賢人として名高い元
「それは
一方的に国境を侵して多くの血を流させた国の王に対して嫁に出されると聞いて、まともな神経でそのことばかりを考えていられようか。
ましてやアリーシャとアカネイア国王とは年齢が二回りほど離れていて父と子ほどの差があり、すでに多くの妻を後宮に抱えていると聞く。
まず間違いなくまともな夫婦の関係は望めまい。
(王家に生まれた者が、自分で生き方を決められないのは分かっていたつもりだけれど……)
ラグナ王国は倍以上の国土を有するアカネイア王国の侵攻を一度押し返してはいるが、国力差は依然として存在しており、争わずに済むのならばと
両国の関係修復とは名ばかりの、人質に等しい、悪く言えば国の安寧を得るための生贄だった。
「……わたくしがアカネイアに行けば、民は救われるのよね?」
「少なくとも最大の国難は払えましょう。王太子殿下の判断に間違いは御座いませぬ。私がまだ宰相であったとしても、必ずやこの話を
アリーシャとアカネイア国王との婚儀は、次期国王と定められた王太子であり宰相を兼務するアリーシャの兄――ユリウス・フォン・レ・ラグナが強硬に推し進めた政策だ。
亡き妻の忘れ形見としてアリーシャを溺愛している現国王カールや、次期国王を自身の派閥と共に虎視眈々と狙っている第二王子シグルドは反対したが、今や実権は老いた国王ではなく最大派閥を有するユリウスにある。
すでに国是とされ、両国で取り決めが成された以上は破られれば外交問題となり、再びの戦争状態もあり得る。
アリーシャに選択の余地など初めからなかった。
「いいわ、下がって」
「姫さま」
言葉を強めるロイナスに、アリーシャは大きく息を吐く。
「城下に出るのはこれを最後とするわ。……子供たちに絵本を読み聞かせる約束をしているの」
アリーシャとて国を守るためであれば、人身御供となる運命を受け入れる覚悟はある。
なればこそアリーシャは、その身を捧げる自身の愛する国の民の顔をよくその目に焼き付けておきたかった。
「承知いたしました。大事な御身です。警備を厳重にするよう、
ロイナスは一礼して去っていく。
扉が閉じられるのを見計らってから、下がっていたメイドの一人であるタリアがアリーシャに声を掛けてくる。
「よろしかったのですか?」
「いいのよ。もともと自由でいられるのはあとわずかだと分かっていたもの」
「そうではなく婚儀のことです! 国王陛下が反対なされているのは周知の事実。娘可愛さを利用して泣きついてしまえばよろしいのです。そもそも仇敵であるアカネイアに、【慈愛の聖女】と名高く国民人気も高い姫さまを差し出そうとするなど言語道断。
「それこそ戦争よ」
微笑みながら言葉を返すアリーシャに、タリアは語気を強める。
「戦争がなんですか! 一度勝った相手です。次は逆に国土を奪い取ってしまいましょう」
「ふふっ、タリアは勇ましいわね。将軍の方が向いているんじゃないかしら」
「姫さまー、私は本気です」
取り合わないアリーシャに、タリアは肩を落とす。
そんな彼女のような者たちを守るためにアカネイア王国に向かうのだと思えば、アリーシャにも使命感のような気持ちが湧いてくる。
これは王女に生まれた自分にしかできないことだ。
変わらぬ運命であれば、せめて望んで行こうとアリーシャは前向きに明日を見据える。
「タリア、そろそろ出るわ。準備を」
これが最後となるのだ。
この気持ちを絶やさないためにも、今日の民との触れ合いはしっかりと心に残しておきたい。
アリーシャはタリアを始めとするメイドたちに、衣装を外行きの、刺繡が細かい白を基調としたものに着替えさせてもらいながら、決意を新たにするのだった。
※ ※ ※
「着ていたものは、城に戻っても使えそうにないわね」
アリーシャはそう言って、窓から覗く月明りと
彼女の今の衣装は、革で作られた婦人服で、街中でよく見られるものだ。
ユナがココアを通して彼女の母親の服と靴を新品が買える金額で譲ってもらって、アリーシャにはそれに着替えてもらったのだ。
幸いにも背丈は近かったのでサイズに問題はない。
目立たなくなったかと言われると、彼女の美しく長い金色の髪は、手入れが難しい平民の間では変わらず目を引きそうではあるが。
彼女の髪も切れるなら切ってもらった方がいいかもしれない。
ユナがそう思いながら対面のベッドに座るアリーシャを見ていると、すぐ近くから目敏い相方の声が聞こえてきた。
「処分するの? もらってもいい?」
「構いませんが……汚れていますし破けてますよ? 洗っても落ちるかどうか」
「問題ないならもらう」
アリーシャの衣装の生地はシルクで織られた最高級品だ。
ベッドに寝そべりながら十分に高く売れると満足げな表情を浮かべるシアに、同じベッドに座るユナも頷く。
「そうだな、シアが持ってくれていると私としても都合がいい」
「……どういう意味?」
「気にするな」
目をつぶって微笑するユナを見てシアは悪い予感がしたが、それで得た権利を手放そうとは思わない。
働かずにお金が手に入る機会を逃すわけにはいかないのだ。
「それにしてもアリーシャ様が、まさかアカネイアの国王に嫁ぐ予定だったとは」
「驚いたかしら? そうね、まだ公表はしていなかったようだから。けれどこれでくすぶっていた戦の火を消せる。民を怯えさせないで済む。ユナのような人に、国の弱さのせいで血を流してもらうこともなくなるわ」
国政など多くの平民にとっては
あの戦争が無意味だったとは思いたくないが、今ここでアリーシャを犠牲にして大国に尻尾を振り、属国に近い扱いを甘んじて受け入れるのであれば、もっと他にやり方があったのではと考えてしまう。
だが、少なくともアリーシャには不満はないのだろう。
「――だから、わたくしは必ず王都に戻らなくてはならない」
そうでなければここまで語気を強められるはずがない。
自分を誤魔化す為であるのなら、ここまで真っ直ぐな目を向けられるはずがないのだ。
「アリーシャはまだアカネイアの王様に嫁ぐつもりなの?」
シアはアリーシャに対して敬称を外していた。
談笑を始めてから割とすぐだったと思うが、アリーシャが咎めないのであれば口を出すことでもないとユナは気にしないことにしていた。
「もちろんそのつもりです。ごめんなさい、シアさんと冒険者も楽しそうではあるのですが、これはわたくしの王家に生まれた者としての責務なのです」
「それはいいけど……」
「どうした、シア。気になることでもあるのか?」
言いよどむシアにユナが尋ねるが、シアは首を横に振って否定する。
「……なんでもない。ただ難しいんじゃないかって思っただけ」
「難しい? 確かに今は簡単な状況ではないが、そのために私とシアがいるんだ。依頼人の要望には応えるのが傭兵だろう?」
「そういうことじゃない。分からないならユナは黙ってて。気が向いたら後で説明するから」
突き放すような物言いに思うところがないわけではないが、もともと頭はシアの方が回る。
適材適所だとユナは諦めて、暇つぶしとちょっとした意趣返しも兼ねて、ちょうどよい位置にあったシアの銀の髪に指を絡める。
自身の魔法で清潔さを保っているのだろうか。
面倒くさがりな割には綺麗好きなシアの髪は、サラリと抜ける感触がして心地がよい。
何度も繰り返して一向にやめようとしないユナを鬱陶しげにシアは見上げたが、文句を言うことすら面倒に思えて、されるがままになりながら目線をアリーシャに戻して言った。
「アリーシャ、続きを。依頼として受けるならもっと状況を知りたい」
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