第6話 水の都ラインドルフ

 無事に洞窟を抜けたユナとアリーシャだったが、同時に亜人の生息域であった山林からも抜けていた。

 そこから二人はしばらく岩稜帯がんりょうたいを歩き、やがて山の端までたどり着く。

 切り立った崖から景色を覗けば、森林がしばらく続いていて、その間を流れる川の先で別の大きな運河が合流しており、その近くに人間のものだと分かる街が広がっているのが見える。


「見えますか、アリーシャ様。あそこに在るのが水の都ラインドルフです」

「ええ。陛下が褒めていたのを思い出すわ。ラインドルフ産の葡萄酒は格別だって。わたくしにはよく分からなかったのだけれど」


 水の都ラインドルフ。

 ユナも仕事で何度か訪れたことがある街で、王都とは歩いて二日の距離に位置しており、定期的に商隊も行き交っている活気のある場所だ。

 冒険者ギルドの支部もあるし、ユナはそこのマスターとも顔見知りだ。

 たどり着きさえすれば、便宜べんぎを図ってもらえるだろう。


「私もあそこの酒は気に入っています。もっとも私たちのような者が飲めるのは、陛下がたしなむような物とは違い、しぼりかすを水で薄めたような粗悪品ですが。安く飲めて、酔えるのがいい」


 どうせ味なんて分かりはしないのだ。

 酒なんて気晴らしができて、その日の憂さを忘れられればそれでいいのである。


「わたくしもユナが気に入っているというお酒を飲んでみたいわ」

「でしたら馴染みの店にでも連れて行きましょうか。せっかくのお付きもいない遠出なんです。もうないことかもしれませんから、楽しんでしまった方がいい」

「本当ね。こうして静かに風を受けて景色を眺める時間を持てるなんて、少し前までは思いもしなかったわ」


 アリーシャの金色の髪が、さらさらと風に揺られていく。

 身に着けていた純白のドレスは土埃つちぼこりと血で汚れていて、スカートの丈は破れ、失くした靴の代わりにユナの外套を破って巻いただけの即席の物を履いている有様だが、不思議とユナには今の方が出会った頃より綺麗に見えた。

 あれだけの目に遭ったのに言葉も穏やかで、アリーシャにとって今この場にいるのは不幸以外の何物でもなかったが、それでも彼女なりに意味を見出しているのかもしれない。


「さて、あまりゆっくりしているとまたオークどもが襲ってくるかもしれません。そろそろ先に進むとしましょう」

「そうしたいけれど、下りられる場所はあるのかしら。簡単な道はなさそうに見えるわ」


 そう言ってアリーシャは、不安げに周囲を見渡す。

 確かに見える範囲では断崖絶壁が続いている。

 ぐるっと迂回すればあるいは下りられる道もあるのかもしれないが、今日中に街に着きたいと思っているユナは、そんな悠長な手段を取るつもりはなかった。


「道なんてなければ作ればいいんですよ」

「どういう意味かしら?」

「飛び降ります」

「飛び降りる? ユナは何を言って――」


 言い終わる前にアリーシャを腰から左手で抱きかかえたユナは、言葉通りに崖から飛び降りた。


「――いやぁぁぁっ」


 突如訪れた、空中を浮遊する感覚。

 風を切り裂き、ただただ重力に吸い込まれながら、一直線に森の中へと落ちていく。

 オークに囲まれた時よりも明確によぎった死の予感に、アリーシャは思わず意識を手放しそうになるが、触れたユナの腕の感触がそれをどうにかつなぎ止めていた。

 一方のユナは、アリーシャの悲鳴を聞きながら彼女に気づかれないよう小さく笑っていた。

 落下する中で狙っていた一際高い大樹の幹には行かないよう姿勢を制御し、何本も枝を折りながら、太そうな枝をつかんでは離して勢いを徐々に殺していく。

 いよいよ地面が近づき、アリーシャはギュッと目をつぶる。

 ユナはそんなアリーシャを両腕で抱えて、着地と同時に膝を折って衝撃を逃がし、土埃を舞わせながら降り立った。

 ゆっくりと立ち上がったユナによって、何食わぬ顔で地面に下ろされたアリーシャは、わななきながら声を漏らす。


「……信じられないわ」

「現実です。何事も楽しんでみるべきでしょう?」

「そういう話じゃないわ! ああ、なんてことなの。ユナがここまで道理をわきまえない人だったなんて。死んでいても全然おかしくなかったわ。むしろ死んでいて当たり前なくらいよ」

「最悪でも骨折くらいで済むかと思いましたから。その程度であればアリーシャ様ならば治せますしね」

「だからそういう話じゃ! ……はぁ、もういいわ。言っても無駄なようだし」

「恐縮です」


 次第に増してくる現実感とともに声を荒げたアリーシャは、あくまで悪びれないユナにかぶりを振って気を持ち直す。


「一応きたいのだけれど、ユナは普段からあのようなことをやっているの?」

「まさか。これでも自分の命は大切にする方です」

「もう何も言わないわ」


 大きく息を吐き出してから歩き出したアリーシャに、ユナも従ってついて行く。

 アリーシャの足取りは思いのほか軽やかで、浮遊するような感覚とともに疲れも吹き飛んでくれたのかもしれない。

 そのような効果があるのなら、もう一度くらいはやってみてもいいかもしれないとユナは思う。

 無言で振り返られたのでそれを口にはしないけれども。



 ※ ※ ※


 道中の警戒をおこたらずに進むユナたちであったが、これまでが嘘のように平和だった。

 目指すラインドルフまで続いている川にたどり着き、その川辺で休憩を挟みながら、二人は川沿いに歩く。

 山から流れ落ちたばかりの川の水は澄んでいて、そこには魚もいる。

 ユナからしてみれば、ゴブリンやオークの群れを相手取ることと比べれば、人に警戒感の薄い大自然で泳ぐ魚を獲ることなど容易いものだ。

 これも初めての経験だと意気込むアリーシャと共に、携帯していた火打石で火を起こして魚を焼いて飢えを満たし、川の水で渇きを満たせれば、直近の問題は寝不足くらいだった。

 その眠気さえも、断崖からの飛び降りですっかり吹き飛んでいる。

 ユナとアリーシャは順調に歩き続ける。

 先に進むにつれて川幅は次第に広くなり、いくつか他の山々から流れてきていた小川が合流して勢いを増してきた頃には、太陽もすっかり真上に昇っていた。


「見て、ユナ。人がいるわ」

「そうみたいですね」


 川沿いの丘の斜面には、背丈の揃った葡萄ぶどうの木が、何列も整然と並ぶ風景が見えてくる。

 人の手で綺麗に剪定せんていされた葡萄の園からは、アリーシャの父親であるこの国の王が飲むような高級な酒が造られているのかもしれない。

 川沿いに葡萄畑があるのは、育てるための水を確保するという理由もあるが、何より川があれば収穫した葡萄や作った酒を運びやすいからだ。

 これだけたくさんの葡萄が育てられているからこそ、搾りかすで造られたものであっても、平民が浴びるように飲めたりもするのだろう。

 ようやく見えてきた人の営みにアリーシャの表情は明るくなるが、ユナは逆に思案顔になる。


「どうかしたの、ユナ?」

「いえ、アリーシャ様の今の恰好は目立つなと思いまして」


 まさか王女殿下がこんな姿で暢気のんきに歩いているとは思われないだろうが、あまり悪目立ちするのは避けたかった。

 ユナがそう言うのも、ガロがアリーシャを引き渡す場所として指定されていたと聞いたのが、ここからさほど離れていない【ベラセ】という名の村のはずれにある水車小屋とのことだったからだ。

 アリーシャらしき人物がラインドルフに現れたことが噂になって、取引相手を呼び寄せるようなことになれば面白くない。

 ユナは少し悩んだ末、アリーシャにユナの外套がいとうを着せてドレスを隠すくらいの手段しか取れなかった。

 それにしてもアリーシャの靴代わりとして布地を破いたせいで半分程度の丈しかなく、ほとんど気休めににもならなかったが。

 服は街に着いてからどうにかしようと諦めて、ユナはアリーシャを伴って街へと入る。

 水の都ライドルフは実のところ、おおやけに認められた街とそうでない街の、ふたつの街が存在している。

 安全な壁に囲まれた中にある裕福な商人と貴族や騎士が住まう街と、その反対岸にある、壁の中に済む権利がない人たちが寄り合って出来上がった街だ。

 ユナたちが入ったのは無秩序に広がっている、壁のない方の街だった。

 確かに国に認められた場所ではないのかもしれない。

 それでもユナは、こちら側の方がずっと性に合っていた。


「色々な物があるのね」

「多くの商人が集まっていますからね。探せばそうそうお目にかかることのないようなお宝にも巡り合えますよ」


 立ち並ぶ露店。

 そこらかしこから響く客寄せの声。

 壁がないということは、人や物の出入りも自由ということだ。

 国に認められていないがゆえに何者にも見咎みとがめられないこの場所は、ある種の自由市場となっていた。

 壁の中に店を構えるのは国や貴族のみを相手にするような大商人たちで、ここにいるのは身分を問わずに相手をする商人たちと分けてもいい。

 壁の中に済む権利がない人たちの集まりではあるが、貧困街というわけではなかった。


「興味があるのは分かりますが、見て回るのは腰を落ち着けてからにしましょう。ついて来てください」


 ユナはこの街に来るときは、東側にある宿屋を贔屓ひいきにしていた。

 そこは冒険者ギルドとも提携している、ある程度の信用を置いていい場所だった。


「あ、ユナさん!」


 宿の扉を開けて中に入ると、受付で帳簿を付けていた少女が、ユナの顔を見て快活な笑顔で迎えてくれる。

 明るい茶色の髪を後ろで結んだエプロン姿の彼女の名前はココア。

 客引きから受付、屋内にある一階の食堂の配膳までを行う家族経営のこの宿屋ではなくてはならない看板娘である。


「今回は遅かったですね」

「ん? ああ、まあ確かにしばらくは来られていなかったか。寂しい思いをさせてしまったかな」

「あははっ、寂しさを感じないくらいには繁盛させてもらっていますよ。これも日頃から冒険者ギルドの皆さまにご愛顧いただいているお陰です」


 礼儀正しく頭を下げるココアに、ユナも相好を崩す。


「その分迷惑をかけていないか不安なんだけれどね。部屋は空いている?」

「はい、いつもの壁際の部屋を取っていますよ。というよりとっくにお借りしていただいているじゃないですか。あ、でも後ろのお客さんもだと少し狭いかな」

「とっくに借りている? 私は今この街に着いたところなんだが」


 話の噛み合わなさに、段々と嫌な予感がしてくるユナ。

 ココアは怪訝そうな顔をしながらも、机の上であくびをしている猫を興味津々で見ているアリーシャに触る許可を出して、それから帳簿を開いてユナの名前が書いてあるページを見せてくる。


「いえ、でもユナさんの名前で確かに。朝夕の食事付きで、お金も冒険者ギルドからユナさん名義で頂いていますよ」

「……いつからだ?」

「えーっと、五日ほど前からです」

「何故……とは聞くまでもないのだろうな。シアの奴はどこにいる?」

「シアさんなら食堂で早めの夕食を頂いていますよ。いつも食べっぷりが良くて、料理を作り甲斐があるってお父さんも喜んでいました」

「そうか。ココア、悪いんだがそこで猫とたわむれている彼女を、借りているという部屋まで連れて行ってくれないか」


 眉間を揉んで疲れた顔になるユナに、ココアは「分かりました」と笑って頷く。


「残念ね。もっとこの可愛い猫さんと遊びたかったわ」

「お姉さん、猫はわたしが部屋に連れていきますよ。よかったら一緒に遊びましょう」

「本当? 嬉しいわ。ありがとう」


 嬉々として階段を上がっていく二人を目線で送ってから、ユナは奥にある食堂に入る。


「――シア」

「ユナ? もぐもぐ、旅はもう終わり?」


 聞きなれた間延びした声が耳に届く。

 そこにはよく見知った顔の、銀の髪を首の辺りで揃えた眠そうな眼の魔導士服の少女が、リスのように口の中にたくさん物を詰め込んで座っていた。

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