第5話 オークの巣窟

「くそが、あの女ども必ず思い知らせてやる」


 自分を死地に置き去りにしたユナとアリーシャに対して、ガロは怨嗟の怒号を発した。

 そうしなければ恐怖で己を保てないのだ。

 このような最期があろうか。

 縛られてろくな抵抗もできずにゴブリンに喰われて死ぬなどと。

 同じ死ぬにしてももっとましな死に方があるはずだ。

 これならばあの【赤髪のユナ】に殺されていた方が遥かに意味のあるものだった。

 かつて戦場で憧憬の情を抱きさえした相手。

 赤い髪をなびかせ、一切の慈悲なく敵を葬り去る姿は殊更ことさらに綺麗だった。

 あの冷淡れいたんな目で見下されながら死ぬのであれば、甘美とさえ思える。

 現状も彼女の手によるものといえばそうなのだろうが、最期に見る顔がゴブリンでは死んでも死にきれない。


(よし、つかめた!)


 芋虫のように身体を這って動かして剣の束をつかみ取ったガロは、今にも破られそうな扉に視線を向ける。

 大丈夫だ、まだ時間はあると根拠もない思い込みで平常心をどうにか持ち続けながら、器用に手先を動かして腕を拘束している紐を切っていく。

 縛ることを提案したのはガロ自身だ。

 抜けられる自信はあった。

 やれるはずなのだ。


「切れろ、切れろよ!」


 ミシリと扉が鳴り、いよいよ半狂乱になったガロであったが、ついに執念が実る。

 扉が破れると同時に、腕の拘束が外れたのだ。

 扉を登るようにしてゆっくりと姿を現わすゴブリン。

 さらに続けて二匹、三匹と部屋に入り込んでくる。

 そのすべての目は明らかにガロに向いていて、何を考えているのかは明らかだった。


「へへっ、来いよ」


 首をかしげて見てくるゴブリンに対して、ガロは乾いた笑みを浮かべる。

 足の拘束は未だ外れておらず、戦いながらどうにかするしかない。

 ガロが半ば諦観めいた思いでいると、首をかしげていたゴブリンが唐突に甲高い奇声を上げる。


「キェェェッ」


 思わず身構えたガロに飛びつくゴブリン。

 腕を噛まれ、激痛で身をよじる。

 如何に王国騎士に比する実力があったとしても、下半身を縛られていてはまともには動けない。

 痛みをこらえ、それでも生きるためにガロは己の片腕を犠牲にして、ゴブリンの頭に剣を突き刺す。

 同時に別の個体に激しく足首に噛みつかれるが、振り払うことはできない。

 刃を抜いて突き刺す前に、さらに他のゴブリンたちが覆いかぶさるように次々とガロのあらゆる個所に食いつき、皮を引きちぎって肉を喰らってくる。

 ガロは声にならない悲鳴を上げるが、やがてその痛みさえも愉悦に変えて、浮かべた笑みを絶やさずに剣を持った手を振り下ろしていく。

 気づくと足の拘束は解けていたが、代わりに左足のふくらはぎの肉がごっそりと削れていた。

 それでもガロは壁を支えにして立ち上がる。

 アリーシャが残した剣を支えにして、口の端をつり上げたような笑みは浮かべたまま。

 ゴブリンたちとの宴はまだ、始まったばかりだ。


 欲をかいたが結果すべてを失おうとしているガロの行く末は、ユナたちの知るところではない。

 それでも、生きるために懸命に足掻く男の姿が、確かにそこにはあったのだ。



 ※ ※ ※



 オーク。

 それはゴブリンと並ぶ人間の脅威となる亜人の代表格だ。

 一般的に彼らは知性が低く、野蛮で、食欲と性欲が旺盛といわれている。

 人間の被害の多さであればゴブリンが上回るが、実際に対峙してどちらが絶望的かは間違いなくオークに軍配が上がる。

 オークは人間以上の大きさで力も上だ。

 その上ゴブリン同様に群れて人間に襲い掛かってくる。

 ゴブリンに村が襲われてもせいぜい一家族が犠牲になる程度だが、オークに襲われれば村そのものが壊滅することもある。

 脅威度の差は冒険者ギルドにかかる懸賞金の差がよく示していた。


(ゴブリンの次はオークだと……? こんな危険な山を野放しにするなんて、冒険者ギルドは何をやっているんだ)


 帰ったらギルドマスターに文句を言ってやると憤慨しながらも、いよいよ山に入ったことを後悔するユナ。

 しかしユナが山に入らなければ、今頃アリーシャの運命は人知れず悲惨なものとなっていただろう。

 ならばまだ最悪の一歩手前ということだ。


(一体どれだけの数がいる? それにゴブリンとオークの生息域がこれほど近いなんて、運が悪いという話では済まされないぞ)


 人間からしてみれば同じ亜人だが、オークとゴブリンは相いれる存在ではない。

 互いに縄張りを主張し、武力をもってぶつかり合うことも珍しいことではないのだ。

 その結果ゴブリンが敗れてオークの支配下に置かれることはあるが、ゴブリンの群れにはオークの姿はなく、その傾向は見られなかった。

 まだお互いの存在を知らないのかもしれないが、確かな事実としてあるのは、ユナがオークをどうにかしなくてはいけないということだ。


(オークは冒険者にとってはそれほど怖い相手じゃない。私にも討伐経験はある。だがそれはパーティを組んで十全な準備をしての話だ)


 単独でオークの巣窟に入る者がいれば、それは自殺志願者に等しい愚行だ。

 一対一であればいい。

 隣国アカネイアとの戦争を英雄として生き抜いたユナだ。

 自分より大きな身体の相手であっても、その剣の腕で難なく対処できるだろう。

 しかし、その巨体で周囲を埋め尽くすほどの数がいれば、得意の足も封じられてやがては圧殺されてしまう。

 勝機があるとすれば、仲間が集まらない内しかない。

 ユナが覚悟を決めて飛び出す寸前、状況が大きく動いた。

 鉄製の槍や燃えた木の棒を直に持ったオークが十匹、二十匹と軍が行進するように連なって奥から現れたのだ。


(多い……!)


 待てば待つだけ数を増していくオークの群れ。

 見えていた景色がオークで埋まり、むせかえるような獣臭さで辺りが満たされるとともに、ユナにしがみつくアリーシャの息も荒くなる。


「ひっ」


 通り過ぎようとしたオークの持つ槍が、ユナたちの潜んでいる壁の裂け目の近くに当たり、アリーシャの口から小さく悲鳴が漏れる。

 ユナは落ち着かせようと身体をより密着させて抱きかかえて、同時に緊張からアリーシャの口に当てている手のひらの圧を強くする。


(まずい、気づかれたか!?)


 振り返ろうとするオークに、ユナの胸の鼓動も早くなる。

 飛び出すべきか。

 身動きができないこの状況で見つかれば、完全に詰みだ。

 逆に、アリーシャをこの場に残してユナが注目を集めさえすれば、あるいは彼女だけなら無事でいられるかもしれない。

 打って出るのならば、今が最後の機会だ。

 行動するのか。

 しないのか。

 ユナは数秒の中で多くのケースを思い描き、やはり行くしかないと飛び出そうとしたのだが、アリーシャが握る手を振り払えずに躊躇してしまう。

 機をいっして幸運に賭けるしかなくなり天を見上げたユナであったが、今回はそれが幸いした。

 振り返ろうとしていたオークが流れには逆らえず、再び前を向いて歩き出したのだ。


(頼む、去ってくれ)


 ユナたちが見つからないことを祈りながら状況を注視する中で、オークたちは列をなして洞穴の入り口の方へと向かっていく。

 ようやく列の最後尾が見えなくなって、ユナは安堵の息を吐いた。

 やがて聞こえてくる戦闘音。

 ここでようやくユナは、オークが何のために動き出したのか理解した。

 ユナたちを追ってきたゴブリンの群れと、今まさに勢力圏を賭けた戦争が始まったのだ。

 ユナと対峙して去っていったゴブリンライダーは、そのために仲間を呼びに戻ったのかもしれない。

 あるいはゴブリンの群れがユナたちを襲ったのは道中に居たからで、本命は初めからオークとの戦いだった可能性もある。


「今のうちに進みましょう。きっと抜けられる出口があるはずです」


 いずれにせよ、亜人同士のいさかいに付き合っていられるものではない。

 ユナは隠れていた隙間から抜け出る。

 アリーシャもそれに追従しようとしたが、ユナという支えがなくなってがくりとその場に崩れ落ちてしまう。

 あまりに刺激が強すぎて、腰が抜けてしまったのだ。

 驚いて振り返ったユナだったが、二人は顔を合わせると思わず笑ってしまう。


「情けなくてごめんなさい。申し訳ないけれど、ユナ、手を引いてく――」


 途端、アリーシャの目が驚愕きょうがくで見開く。

 気を抜いていたと言えばそれまでだ。

 獣臭さと暗さで感覚が鈍っていたのもあるのだろう。

 だが、どう取り繕おうとこれほどの接近を許していいわけがなかった。

 ましてや背後から襲われる隙を見せるなどと、冒険者仲間に知られれば失笑ものだ。

 かがり火に照らされたアリーシャの瞳に映ったのは、身の丈ほどはある鉄槍を振りかぶるオークの姿。


「ぐ、あっ」

「ユナ!」


 ユナはかわせなかった。

 それをすれば犠牲になるのはアリーシャだと分かっていたからだ。

 錆びた鉄槍はユナの鍛えられた背を大きく引き裂き、彼女の表情を苦悶に歪ませる。

 だが、それだけだ。

 覚悟していた痛みを歯を食いしばることで耐えきったユナは、一撃で仕留めきれなかった失態を己が命で贖わせようと聖剣を抜いた。


「死ねっ!」


 振り返りざまに大きく剣を斬り上げる。

 主の意に応えた聖剣は、ただの一刀のみでオークを完全に両断した。

 ユナは立ち上がって目をつぶり、ひとつ長く息を吐き出す。

 オークが反撃を予想できなかったのも無理はない。

 普通の人間ならば、容易たやすく叩き潰されるほどの威力で放たれた一撃だったのだ。

 それをとっさの肉体強化で骨に届くギリギリのところで防いで見せたユナの赤髪は、あふれ出る彼女の魔力で逆巻くように浮き上がり、流れ出ていく血さえも吸い上げて炎のように揺らめいている。

 先ほどまでは多くを見通せなかったユナの赤い双眸そうぼうは、闇の奥にまだ数匹のオークがたむろっているのをはっきりととらえていた。

 すべてがゴブリンとの戦いにおもむいたわけではなかったのだ。


「ユナ、回復を」

「オークどもを倒すのが先です」

「待って、その傷で動いては!」


 ユナはアリーシャの制止を振り切って駆け出す。

 ただでさえ傷ついた身体だ。

 こうなれば時間との勝負になる。

 尋常ならざる動きの代償として魔力と血を失い力尽きるのが先か、その力をもって脅威を排除しきるのが先か。

 もちろんどちらかなど問われるまでもなかった。

 低い姿勢で疾駆するユナは、オークに迎撃の姿勢さえ取らせない。

 瞬時に距離を詰めて一匹を撫で斬り、異変に気づいて振り返ったオークの首を一閃して吹き飛ばす。

 留まるだけ不利になることを経験で知っているユナは、吹き抜ける風の向かう先へと視線を向ける。

 その先にあるのは眩いほどの光だ。

 そして、倒すべき敵もまだそこに存在していた。

 ユナは出口を守るように立っていた二匹のオークの、その中央を一息に駆け抜けた。

 否、駆けながら斬った。

 そのことを理解できたのは、半月が連なるように描かれた銀のきらめきを見たアリーシャだけだった。

 アリーシャはユナの怪我をそのままにできない一心から自力で立ち上がって追いかけてきていたのだ。

 そこで垣間見たのは、ユナが戦時の英雄となれた所以ゆえん

 それは恐ろしく、またそれ以上に頼もしいものであったが、今のアリーシャにとって大事なことではない。

 残敵の掃討とともに荒い息で膝を折ったユナに、アリーシャは駆け寄り、回復の魔法をかける。


えよ」


 他にこれほどの癒し手がどれだけいるだろうか。

 瞬く間に治っていく傷に、ユナはアリーシャの王女という立場以上の価値を改めて感じた。

 消耗していた血まで戻るのが分かる。

 さすがに使った魔力までは戻らないが、痛みはすでにほとんど消えていた。


「ありがとうございます」

「お礼なんて……ユナに無理をさせたのはわたくしなのに」

「私は普通のことをしたまでです。この程度は無理には入りませんよ」


 ユナは自分の身体の調子が戻ったのを確認すると、立ち上がって抜き身のままだった剣を鞘へと仕舞う。

 アリーシャの表情は曇ったままであったが、そもそもユナは彼女の護衛で、庇うのが当たり前の立場だ。

 そこまで考えて、まだアリーシャとは何の契約もしていなかったことにユナは気づく。

 ゴブリン、王国騎士クラスの傭兵、ゴブリンライダー、それにオークと、たった一日で随分と苦労させられたのに、まだお金になる保証もない。

 お互いに落ち着ける場所に行けたら、せめて成功報酬だけでも確約させよう。

 そう決めて、ユナは言葉の力でうつむいていたアリーシャの顔を上げさせる。


「行きましょう。ちょうど夜が明けたようです」


 青く広がった空。

 大地を照らしつける日差しは、ユナたちに当面の危機が去ったのを教えてくれていた。

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