第16話

 4人で海に行ったあの日から数日が過ぎていた。


 俺は最近、何もやる気が起きず、漫然と日々を過ごしている。


 そう言えば、あの日から、奈那先輩との会話が突然頭に浮かぶこともなくなった。


 奈那先輩のことを思い出す前に戻った。

 とまでは言えないが、少しは元の生活に戻ったと言えるんじゃないだろうか。


 しかし、あの日から、世良とも、一言も口を利いていない。

 明らかに何かに怒っているのはわかるが、何に怒っているのかはわからなかった。


 いや、正確に言えば、原因はわかっている。奈那先輩のことだ。

 俺が奈那先輩のことを諦めたのが気に入らないんだろう。


 だが、諦めるしかないというのも、世良なら理解できそうな気がするんだが。


 存在しない人を、どうやって助けるって言うんだ。


 会ったことない人と、どうやってまた会うって言うんだ。


 普通に考えれば、それが不可能だというくらい、すぐにわかるはずなのに。

 諦めるしか選択肢がないって、わかるはずなのに。


 なぜ、世良が怒っているのか、理解できなかった。


 司に聞いてみても、はっきりとはわからない、と口を濁らせるばかりだった。



「今日も寝てばっかりだったな」

「ああ、まあな」


 昼休み。司が呆れたように言う。


「また、奈那先輩のことを考えてたのか?」


 茶化してくる訳ではなく、司が聞いてくる。


「いいや」


 別に奈那先輩のことを思い出していて、授業をサボっていた訳じゃない。

 やる気が出なくて、ずっと寝ていただけだ。


 それに、俺が授業に対して不真面目なのは、以前から変わらない。

 まあ、先生に聞かれたら怒られるかもしれないが。


「希沙羅さんとは?」

「話してない」


 最近、世良と口を利いていないことは、もちろん司も知っている。

 それをあえて聞いてくるのは、ただの再確認なのか、それとも何か言いたいことがあるのか。


 司の表情からは、それは読み取れないが、何か思う所があるのは間違いないだろう。


 それでも、奈那先輩のことについてしつこく聞いてこないのは、司なりの優しさなのかもしれない。


 まあ、女子にフラれた男子への気遣いなんて、そっとしておくか、ネタにして笑い飛ばすかぐらいしかできないか。

 そして、司は後者を選ぶような性格はしていない。


 特に何がある訳でもない、他愛もない会話をして、時間が過ぎていく。


 どうしてこうもやる気が出ないのか。考えればわかることだ。

 でも今は、考えたくない。


 考えたって、どうせ空しくなるだけだから。


「なあ、うまく言えないけど……」

「一樹」


 司の言葉を遮って、俺の目の前に立つのは、

「世良」


 見下すような目、冷たい声だった。


 いきなり教室に入ってきた世良に、教室の中は俄にざわつく。


 だが、当の世良は全く動じていなかった。

 周りの目など気にしていないようで、俺を逃がさないようにか、両手を机の上に乗せ、掴んだまま睨み付けてくる。


 だが、その瞳には、いつものような光が込もっていないように思えた。


 真っ黒で、何も感じさせない、暗く黒い目。

 心底蔑むような目だ。


「一樹。あんた、まだそんな顔してんの?」

「顔って。俺は元々、こんな顔だよ」


 何が言いたいのかわからず、少し恐い。

 世良が静かに怒る時は、本気で怒っている時だ。


 どこに地雷があるかもわからないし、不用意な発言はできない。


 黙っている俺に、世良は光のない瞳のまま、俺の胸ぐらを掴む。


「あんた、ほんっとうに、ガキね」


 世良の冷たい声が耳に響く。


「いい? 奈那先輩に、まだ会いたいって思うなら、土曜日、私の家まで来なさい。それ以上、待つ気はないわ」


 まるで、事務連絡のように、何の感情も感じさせない声。

 それだけを言うと、世良は手を離し、教室を出ていった。


「え? え? 何々?」

「希沙羅さんと知り合いだったんだ」

「てか、奈那先輩って、誰?」


 教室は戸惑いの声で溢れる。


 突然、入ってきた他クラスの生徒。知らない先輩の名前。意味不明な会話。

 そういう反応になるのも必然だろう。


 だが、俺も状況をよく理解できず、出ていく世良を見送って、固まったままだった。


 奈那先輩に会いたいと思うなら。


 世良はそう言った。

 そんなの、だが、会った所で。


「どうするんだ?」


 司が聞いてくる。


「行かない」

「え? 行かないのか?」


 司の反応に、俺は目をそらす。


「行ったって意味ないだろ。奈那先輩に会えるはずないし、奈那先輩も、これが本来の姿だって言ってた。それをねじ曲げるなんておかしいだろ」

「いや、そうかもしれないけど、さ」


 まだ何か言いたげな司だったが、開きかけた口は、何も言葉を発することなく閉じられる。

 だが、司がどんな目をしているのか、それを見る勇気は俺にはなかった。


 それから何の会話もなく、というより、すぐにチャイムが鳴り、昼休みの時間が終わった。


 まだざわついていた教室の中も、チャイムと同時に落ち着きを取り戻す。


 司は一言、じゃ、戻るわ、とだけ言って、自分の席に戻っていった。


 残された俺はというと、また始まる退屈な授業に飽き飽きしながら、教科書を出して、筆記用具も出して、外を眺める。


 ふと、グラウンドに、こちらを見る女生徒がいたような気がした。髪が微かに青く輝く女生徒だ。


 しかし、それは瞬きの間に消えてしまった。


 もう一度探そうとしても、いるのは体育の授業に参加するために出てきた下級生ばかり。


「何なんだよ」


 聞こえなくなったと思ったのに。

 見えなくなったと思ったのに。


 結局、また目で追ってしまう。

 奈那先輩のことを。


 でも、もう諦めるべきだ。

 だって、俺と奈那先輩は、本来、会うはずじゃなかった人なんだから。

 夢に踊らされて、現実を疎かにして良い訳がない。


 あれは夢で、今は現実で、夢はいつか覚めるものだから。


 夢見る時間は終わったのだから。


「え?」

 軽く頭を誰かに叩かれた気がした。


 慌てて振り向くと、そこには誰もいない。

 もう、誰の記憶も思い出せない。


 こんな時、奈那先輩なら、

「君は考えすぎなんだよ。私を見習ってみなよ。人生、流れに任せれば、大抵は良い方向に進むものさ」


 そう言うに違いない。


 俺の耳には、もう聞こえないけど。

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