野上ルート エピローグ
清潔なカーテンの隙間から、早朝の弱い日差しが部屋に入り込んでいる。俺は布団から上体を起こした。
朝から観光に出かけるため、昨夜は日を跨ぐ前よりも前に就寝したのだが、枕もとのスマホを見ると午前六時。少しばかり早く起きてしまった。
優香は旅行の疲れからか隣で未だ熟睡しているから、時間を潰す話し相手もいない。
「どうしたもんかな」
一人呟き、やるべきことがなかったか頭の中を探る。
――考えつかない。
二度寝すれば七時一〇分からの朝食に遅れてしまいそうだし、強いてやるべきこともない。
自宅なら朝シャンでもして時間を合わせられるが、この時間に旅館の風呂場が開いているかどうか?
布団から起き出て、座卓に載っている旅館のパンフレットをめくった。
風呂場の開放時間を確認する。
AM6:00~PM23:00
意外にも開いてた。
パンフレットを閉じて座卓に置きなおす。
洗身用具を持って部屋を出た。
風呂場の脱衣所に入ると、着替えを入れる籠の一つが使用されており、解放されたばかりだというのに先客がいた。
この時間なら一人で寛げると思っていたのだが、旅館の風呂場である以上は仕方ないことだ。
そう割り切って、先客の籠とは離れた籠を使うことにする。
身に着けているものをすべて脱ぎ、タオルを片手に風呂場の擦りガラスの戸を開けて中に開けた。
風呂場に入ると洗い場の一席で痩身の若い身体つきの男性一人が、頭髪に泡を立ててシャカシャカと洗っていた。
「誰でやんすか?」
痩身が俺の方を振り向く。
頭髪の泡が微かに辺りへ飛び散った。
「あ」
「あ」
俺と目が合うと、痩身は口をあんぐりと開けた。
こちらも痩身の顔に見覚えがあり、同じように口を開けて驚く。
旅館の庭先ですれ違った、あの坊主頭だ。
特徴として記憶に残っていた坊主頭が泡で隠れているため、顔を見るまで気が付かなかった。
「美人さんの隣にいた人じゃないっすか」
坊主頭が俄然に気軽な口調で話しかけてくる。
「美人さんって優香の事か?」
「そうっす。確か名前は野上優香さんだったすね」
そう言って、だらしなく顔を緩ませた。
野上優香と呼ぶあたり、どうやら優香のことをグラドルとして認識しているっぽい。
「一応忠告しておくが、優香には手を出すなよ。俺の妻だからな」
「出さねえっすよ」
「ならいいんだ」
自分が何故ムキになったのかわからないが、とにかく安心した。
俺はそれきり会話をやめ、坊主頭とは一席距離を離れた椅子に腰を下ろして洗身用具を足元に置く。
「菜津さんとは、どういう関係なんすか?」
唐突に坊主頭が声を潜めて訊いてきた。
俺はシャンプーのノズルから中身を手に出して頭に持っていってから応じる。
「菜津さんって錦馬のことだろ」
「そうっす。仲良さげだったから気になって」
正直に答えてもいいが、錦馬が前歴を隠している場合もある。
念のために坊主頭が情報をどれくらい持っているか探ることにする。
「錦馬が女将になる前に何をやってた知ってるか?」
「グラドルでしょ」
「なんだ、知ってるのか」
あまりの素早い返しに少々ビックリした。
坊主頭はニヤッと口角を上げる。
「ネットで検索かければ、グラドルとしてヒットするっすからね。エロい水着姿がわんさか載ってるっすよ」
「錦馬の前でエロいとか口にするなよ、あいつ絶対機嫌悪くするから」
一応、窘めておく。
「言わねぇっすよ。嫌われたくねえっすから」
「そりゃ賢明だ」
「それで、菜津さんとの関係はどうなんすか?」
少し前のめりになって再び質問してくる。
前歴を知ってるなら、まあ話してもいいだろう。
「あいつのマネージャーやってたんだよ。一年だけどな」
「じゃあ、なんすか。一時期デキてたりしたんすか?」
「ありえねぇ」
俺は即答していた。
ありえねぇっすか、と坊主頭は俺の即答に目を見開いて驚きを隠せていない。
「ああ、ありえない。錦馬と俺が付き合うなんて天地がひっくり返ってもあり得ない」
「そこまで言うっすか?」
「だって、俺と優香がくっ付いて一番喜んだのあいつだぞ」
「なんで、喜んだんすか?」
「優香と錦馬はもともと仲が良いからな。優香の気持ちに気づいてたんだろ、とまあこれは俺の推測なんだがな」
「じゃあ、菜津さんはあなたに未練とかないっすよね?」
突然、真面目なトーンになって尋ねてきた。
俺は軽口のつもりで話していたので、肩透かし喰らった気分になる。
「まあ、未練を持ってるようには見えないな」
「それなら良かったっす」
心の底から安堵したような笑顔を見せた。
錦馬に未練を気にするということは、もしかして?
「最近、錦馬の身辺で何かあったのか?」
「へ? なんすか、いきなり」
「何もないのか?」
「何もないと思うっすよ」
ならば俺の早とちりか。
八年も前とはいえ俺と仕事していたことが今になって障壁となってるんじゃないか、などと心配がもたげたが、そういう事実はないらしい。
「未練なんて言うから問題でも起こったのかと思ったよ」
俺は安心して洗髪に意識を戻した。
そりゃ未練があるか心配しますよ、と坊主頭は当然の口調で言葉を継ぐ。
「だって、おいら菜津さんのこと好きっすから」
「そうか……初耳だな」
一瞬聞き流しかけて、慌てて坊主頭を振り向いた。
「え、錦馬のこと好きなの?」
「はいっす。好きっす」
「それは異性としてか?」
「もちろんっす」
意思の漲った顔で坊主頭が頷く。
いつの間にか彼の頭髪の泡はきれいに流し終えており、丸刈り頭が全貌を晒していた。
胸の内を告白したからか、坊主頭は機嫌をよくした笑みで問わず語りに話し始める。
「菜津さん、おいらが通ってた高校でも多くの隠れファンがいるぐらい人気あったっすよ」
「どうして隠れファンなんだ? 別に公でもいいだろうに」
もとはグラドルで芸能活動をしてたんだ。ファンになったからって隠れる必要はないだろう。
当時を知るがゆえの俺の問いに、坊主頭は顔を赤くして照れた。
「そりゃ隠れるっすよ。菜津さん本人は元グラドルだってバレてないつもりっすから」
「厳しいだろ。そこそこ名が知れてたし」
「元グラドルって知らなくても菜津さんには惚れますよ。グラドルに興味なさそうな旅館の常連にだって菜津さん目当ての客が結構いるはずっすから」
「下心で来るのかよ」
「美人で巨乳っすから」
「男って単純だな」
「そうっすね」
俺の皮肉を坊主頭は爽やかな笑顔で肯定する。
かくいう俺も美人と巨乳には惹かれるけども。
「そんな下心丸出しの理由で錦馬が好きなんだな」
「隠れファンの人はそうかもしれないっすけど、おいらは違うっす」
呆れたように言った俺に、坊主頭は突然真剣な顔になって否定した。
俺の顔を真っすぐに捉え芯のある声で告ぐ。
「菜津さんの気は強いのに意外と臆病なところとか、厳しいけど優しさを感じる叱り方とか、おいらは菜津さんの内面が好きなんす。外見から入ったことは否めないっすけど、それでも好きになった理由には含まないっす」
本気で錦馬のことが好きだと伝わってきたから、冷やかす気になど到底なれない。
むしろ――。
「成就するといいな」
思わず考えていたことを口に出していた。
坊主頭は黙って、先生でも仰ぐように俺の言葉の続きを待っている。
そんな期待の目をしないでくれ。
「俺からアドバイスできることなんてないけど、とにかく恋が実ることを祈るよ」
「ありがとうございますっす」
洗い場の椅子に座ったまま礼を述べ、膝に手を付けて大仰に頭を下げた。
この坊主頭が錦馬のいう『良い人』なのかは定かでないが、探してみれば該当する人物は案外いるかもしれない。
錦馬がその人を好きになるかは錦馬次第だが。
俺が祈るほど錦馬の幸せは遠くなさそうだと思った。
野上ルート 完
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