錦馬アフター 3
今夜は従業員の立場を忘れ、夜が更けるのも気にせず三人で昔話に花咲かせていた。
そろそろ客室からお暇するために菜津に話しかけようとした時、唐突に部屋の障子が外から開かれた。
開かれた障子の向こう側で小さな身体をピンクのパジャマで包んだ娘の菜々美が、いかにも眠たいといった目をして立っている。
母親である菜津を見つけると、背中に垂らした長い黒髪を揺らしながら菜津にゆっくりと近づいていく。
「菜々美?」
首をかしげながら菜津が立ち上がり、両手を出して娘を抱きとめる姿勢を取る。
菜々美はお母さーんと甘ったるい声を出しながら母親の腰に抱き着き、菜津のお腹に顔を埋めた。
「どうしたの菜々美?」
眼下に見下ろしながら菜津が問うと、菜々美はのそりと顔を上げた。
「おばあちゃんが、寝る準備しようねって言ってたぁ」
「あれ、もうそんな?」
菜津が部屋の壁にかかった時計を見た。
時計は午後十時を指している。
「確かに、もう寝る時間ね」
「その子、なっちゃんの娘さんですか?」
菜々美に興味を持ったらしい野上が、抱きあう親子に歩み寄った。
「そうよ。菜々美っていうの」
菜津が嬉々として受け答えすると、菜々美も首だけで野上の方を振り向いた。
じぃーと菜々美が野上の顔を眺める。
対して野上は身を屈めて菜々美と目線を同じにした。
「私、お母さんの友達で優香っていうんです。よろしくね菜々美ちゃん」
「ゆうか?」
菜々美が母親に抱き着いていた腕を離した。
野上は微笑み返す。
「そう、優香」
「ゆうか。お母さんのお友達」
「はい、お友達です。それとお父さんともお友達」
「じゃあ、お父さんと仲良し?」
菜々美が無垢な顔で質問した。
俺が不倫してるみたいじゃねーか。
「お父さんとは仲良くないよ」
野上は笑顔で躊躇いもなく否定した。
仲良くないと言われるのも、それはそれで傷つく。
「お父さんとお友達なのに仲良くないの?」
「菜々美ちゃん。私とお父さんが仲良しだと、お母さんが一人になっちゃうでしょ?」
「うーん、よくわかんない」
「おっきくなれば菜々美ちゃんにもわかるよ」
野上は誤魔化すようにそう諭し、屈めていた腰を上げた。
「なっちゃん……あっ」
野上が菜津に何か話しかけようとした途端、菜々美に抱き着かれた。
目線を菜々美に落とす。
「どうしたの菜々美ちゃん?」
「んっー」
菜々美は言葉にならない声を漏らし、野上のお腹に顔を埋める。
「こら、菜々美。離れなさい」
見かねて、菜津が手を差し伸べる。
菜々美が埋めていた顔を離した。
不満げに唇をへの字にする。
「お母さんみたいにお腹プニプニしてなーい」
「……」
凍り付いたように菜津の動きが固まった。
「ダメだよ、菜々美ちゃん。お母さんをプニプニなんて言っちゃ」
優しく教え諭す声音で野上が注意する。
えー、と菜々美は不平を訴えた。
「ほんとにプニプニだもーん」
「ほんとにお母さんのお腹がプニプニでもプヨプヨでも、お母さんが傷つくことを言うのはダメだよ」
「うー、わかった」
まだ不満そうだが菜々美は頷いた。
プヨプヨって菜々美は言ってないじゃないの、と菜津が一人でボヤいている。
菜津がショック受けてるから話題戻してあげるか。
野上に抱き着いたままの菜々美に顔を向ける。
「菜々美。寝る準備するんじゃなかったのか?」
「お父さんも寝るー?」
「ああ、寝るよ」
「お母さんは?」
「お母さんもだ」
「じゃあ、わたしも寝るー」
「よーし、いい子だ」
愛しい菜々美の頭を撫でてやりながら、野上の方を向く。
「ごめんな野上。せっかく来てくれたのにゆっくり時間取れなくて」
「気にしないでいいですよ、浅葱さん。充分おしゃべりできましたから」
「そうか。ごめんなほんとに」
繰り返し謝る。が、当の野上は屈んで菜々美に視線を合わせていた。
「菜々美ちゃんもお母さんとお父さんと寝たいよね?」
「うん」
力いっぱい満面の笑みで頷いた。
「お母さんのおっきいお胸に埋まって寝るのー」
純朴だけど大胆な発言。
微妙な空気が流れる寸前、菜津が娘の腕を無理やりに掴んだ。
「行くわよ菜々美」
そして有無を言わさず部屋の外へ引っ張り、住み込み用の寝室のある方向へ廊下を歩き去っていった。
思わず苦笑が漏れた。
野上も肩を揺らしている。
「なっちゃん、菜々美ちゃんに弄ばれてました」
「菜々美に悪気はないけど、正直だから恥を晒したな」
「せっかくなら浅葱さんの恥ずかしい話も聞きたかったです」
意地悪っぽい笑みを浮かべ、俺の方に向ける。
「からかうなよ」
「冗談です。それじゃ私も寝ますね」
「そうか。じゃあ俺も部屋に戻るわ」
「また明日、時間があれば来てくださいね」
「ああ」
誘ってくれる野上に軽く手を挙げ返して、宿泊部屋を後にする。
今日もこれから菜々美を寝かしつけないとな。
日常へと還る足を進めながら、寝室で待つ妻と娘に思いを馳せた。
錦馬ルート 完
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