錦馬アフター 2
菜津と野上に二人きりの時間を与えるため裏方に回ろうとした俺だったが、思惑は叶わず湯上りの野上に宿泊部屋へ連れてこられてしまった。
野上の後に続いて渋々部屋に踏み入ると、菜津は着物姿のままで座卓に頬杖をついて盆の中の茶菓子を頬張っていた。
女将の立場を忘れ、完全に寛いでいる。
「なっちゃん。浅葱さん連れてきました」
野上が報告すると、次の茶菓子に掴もうとしていた手を止めてこちらに目を向けた。
茶菓子を掴んでいたのとは反対の手で座卓を指さす。
「どこか適当なとこに座って」
告げると、また茶菓子に手を伸ばした。
適当なところと言われても、客人ではない俺には座布団ぐらいしか座るとこなどないのだが。
部屋の隅で積まれている座布団一枚を、菜津の隣に置き腰を降ろす。
「私、ちょっとお菓子取ってくる」
唐突に
菜津は唐突に言うなり立ち上がり、野上の横を通り抜けて草履スリッパをつっかけて部屋を出ていった。
菜津がいなくなってしばらくすると、野上が座布団を一枚手にしてから俺の横に歩み寄ってくる。
「浅葱さん」
「なんだ?」
座ったまま野上に問いを促すと、野上は奈津が出て行った方向に首を振る。
「なっちゃんって、あんな感じでしたっけ?」
「意外か?」
「はい。夜にお菓子を食べるなんて、グラドル時代のなっちゃんじゃあり得ませんでしたから」
「そうだろうな。けど、あれが菜津の素だよ」
グラドルを辞めて旅館の女将に納まってからの菜津は、表向きは雅な美人という感じだが、プライベートではだらしない部分が多い。
特に食生活についてはグラドル時代と一変して、炭水化物も甘いお菓子も遠慮なく食すようになった。
「ねえ、浅葱さん」
野上は俺の横に座布団を置いて腰を落ち着けると、覗き込むようにして尋ねてくる。
「今度はなんだ?」
「なっちゃんって太りましたよね」
ふざけた素振りもない口調で言う。
どストレートな指摘だ。
確かに菜津は太った。とはいえその限度は可愛いもので、もとが細いだけに太っても標準体型になっただけのことなのだ。
「さっき、お風呂入ってるときに直接訊いたんですよ」
「なんて?」
「なっちゃん太りました? って」
「直接過ぎないか?」
「そうしたら、どう答えたと思います」
「太ってない、だろ」
俺は即答した。
夫婦になって五年もすれば、妻の返答などおおよそ予測できる。
答えを聞いて、野上は不満げに口を突き出す。
「その通りです。太ってないわよ、って答えられました。どう見てもグラドルだった時よりムチムチしてるのにです」
「太ったのは事実だけどあんまり指摘するなよ。あいつ案外傷つくから」
「浅葱さんは痩せてた時と今のなっちゃんどっちが好きですか?」
興味を強くした瞳で俺を見つめられ、真摯に質問してきた。
菜津本人にもたまに訊かれるが、俺の答えは決まっている。
「俺は菜津そのものが好きなんだよ。昔とか今とか関係なくな」
「なっちゃんは幸せ者ですねぇ」
少し羨望が含まれた声で言って口元を綻ばせる。
その時、部屋の障子が開いた。
俺と野上が振り向くと、案の定敷居の向こうには菜津が立っていた。
左手には業務用のマシュマロの袋を持っている。
「二人で何を話してたの?」
純粋な疑問という顔で尋ねてくる。
野上の横顔が冷やかしの笑みを浮かべた。
「なっちゃんが太ったかどうか、浅葱さんに確かめてたんです」
「そうなの……」
真顔で納得したように見せかけ、ギロリと野上ごしに俺を睨んできた。
ホントのこと喋ってないでしょうね、と脅す目である。
いや、菜津。お前太ったの隠せてないけどな。
「まあ、いいわ」
そう言って俺から視線を野上に移す。
ご機嫌な笑顔でマシュマロの袋を掲げた。
「優香。一緒に食べない?」
「いりません」
にべもないな。
優香に断られて、菜津は袋ごと肩を落とす。
「美味しいのに」
「近いうちにグラビア撮影ありますから。なければ食べたんですけど」
「じゃあ、一人で食べるわ」
仕方ないと言いたげに袋を持って座布団に腰かけた。
一人で食べるんかい。
菜津は袋の口を両手に挟んだ状態で動きを止め、ふと俺に顔を向けてきた。
「光人はどうするの?」
「俺か。俺もいらない」
「そうなの……」
夜食を共にしてくれる相手がおらず、あからさまに気を落とした。
付き合ってあげた方がいいかな、と考えを転換させようと思った時、不意に菜津が決然とした顔を持ち上げた。
「やっぱり食べるのやめる。あたしも自制しないと」
「いいんだぞ。食べたいなら食べて」
菜津が美味しそうに食べる姿は、夫の贔屓目かもしれないが見ていて幸福感を覚える。
しかし、菜津は首を横に振る。
「昔みたいに細くなるためにダイエットしないといけないから」
「いいよ、ダイエットしなくて」
「あたしを甘やかさないで」
「甘やかしてるわけじゃねーよ。痩せたら……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
「痩せたら、何よ?」
菜津が疑いの目で見てくる。
添い寝したときにお腹の肉がつまめなくなるだろ、とは恥ずかし過ぎて口にできない。
「痩せたら……あれだ、着物が似合わなくなる」
「へえ、そういうことなの」
菜津の目から疑いの色が抜ける。
閨での俺の所業を全身で体感しているだけに、あっさり納得してくれるとは予想外だった。
「やっぱり、ほんとに夫婦なんですね」
しばらく黙っていた野上が唐突に発言し、俺と菜津は驚いて振り向く。
微笑ましいですね、と言って野上は目元を緩めた。
「微笑ましい、かしら?」
「はい。二人を見ているとほっこりします」
俺と菜津は顔を見合わせた。
「そういうところですよ。私が二人のことを微笑ましいっていうのは」
「はあ、そうなの」
菜津は若干戸惑っている。
次には、野上が不服気に唇を尖らせた。
「それに羨ましいです」
「羨ましい……」
野上の羨望を感じ取った瞬間、菜津は気まずそうに目を逸らした。
もしかして、昔に野上と俺が恋人同士だったことを思い返してしまったのだろうか?
菜津の心中を慮ると、俺の方も胸の痛みがぶり返してくる。
「なっちゃんも浅葱さんも聞いてくださいよ」
俺達の心情を察してか、野上は溌剌に明るい声で話し始める。
「私はグラドルとしてそれなりに人気があるはずなのに、カッコいい人が全然寄ってこないんです」
「はあ。それで?」
「私もいい歳ですから、そろそろ結婚とか考えてるんですよ。けれど相手がいないんです」
「大変ねぇ」
「告白もたまにされますけど、その人の事好きになれないんです」
「どんな人が多いの?」
「年下です。それもあまり頼りにならなさそうな」
「優香の好みは年上なのね?」
「年上じゃなくてもいいですけど、やっぱり頼りがいのある人がいいです」
頼りがいのある人か。
となると、野上と出会った頃の俺は頼りがいのある人として認識されていたのか。
自覚ないんだけどな。
「それじゃ、あたしの夫とは正反対ね」
八年も前の記憶を辿っていると、隣で菜津がおかしそうに言った。
え、正反対?
「光人って昔から甲斐性なしだもの」
「あー、それは同意です。それに鈍感ですよね」
「わかるわ。さすが優香ね」
八年前に戻ったような雰囲気で菜津と野上が話を弾ませる。
俺のディスりで盛り上がらないでほしい。
「泣いていいか、俺?」
非難に耐えられず伺いを立てる。
しかし菜津と優香は俺の声に耳も貸さず、ディスりワードをぽんぽんと口から撃ちだしている。
妻とその友人の本音だと思うと胸が痛い。
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