12-7

 錦馬の出発当日。綿のような白雲が浮かぶ空から、春めいた陽光が街を明るく照らしている。

そんな気候の中、俺は駅前の道路に車を停めた。

 昨日の夜に突然優香から錦馬の見送りに誘われ、俺は誘いに乗って同伴することにし、待ち合わせ場所の駅前に来た。


「さてと、優香は?」


 優香を探すために運転席から駅前広場を見回そうとすると、広場を横断してくる茶色セーター姿の優香の姿を見えた。

 優香は段々とこちらへ近づき、運転席の横で立ち止まった。

 コツコツと運転席のドアのガラスを叩き、台詞を口ぱくするように開けたり閉じたりしする。

 遅ればせに俺は優香の口が「降りてきてください」と言っているのに気が付き、ドアを優香にぶつけないように開けて運転席から降りた。


「光人さん、おはようございます」

「ああ、おはよう」


 俺は挨拶を返しながら、優香をしげと見遣る。

 いつになく笑顔がぎこちない気がした。


「晴れてよかったですね」

「ああ、そうだな」


 優香とのやり取りが初対面のお見合いみたいだ。

 感じたことのない微妙な空気に、俺は場を繋ぐ意味合いでスマホの時刻を確認する。

 時刻は八時五九分を示していた。


「錦馬が乗り換えるのは九時三〇分発の高崎行きだろ。あまり時間ないな」

「ゆっくり立ち話してる余裕はありませんね」

「だな。急ぐか」


 乗り換え駅の人波の邪魔にならない場所で錦馬を見つけ出し、改札を抜ける前に会わなければサプライズでの見送りなど到底難しいだろう。

 逸る気持ちで運転席のドアに手をかける。


「優香、行くぞ」


 はい、と笑顔で返してくれると思った。

 しかし、優香の顔には見たこともないほどの真剣さが色濃く浮かび上がり、俺を真っすぐに見つめている。


「大事なこと、聞いていいですか?」

「……大事なことって?」


 立ち話している余裕はない、と言ったのは優香のはずだ。

 それなのに、こんな切羽詰まった時に俺に何を問うつもりなのか?

 優香が真剣な眼差しのまま、おもむろに口を開く。


「光人さん。私のこと好きですか?」

「……え?」


 恋人同士でノロけて訊き合うような弾んだ声ではなく、運命の選択を訊き迫るような重々しい声だった。

 唐突な問いかけに戸惑いながらも、俺は口元を笑ませる。


「好きだよ。突然何言って……」

「嘘です。今まで一度も好きだって言ってもらったことありません」


 糾弾の声を発し、俺を見る目を細めた。

 嘘――。

 俺が優香のことを好きなのは嘘――。

 急な展開に回らない頭で、なんとか優香の非難の意を解釈した。

 口元の笑みが強張る。


「もう一度、訊きます。私のこと好きですか?」

「……好きだよ」


 少し苛ついた声で答えてしまった。

 優香のことを好きだと認めようとすると、どうしてこんな心がささくれ立つんだろう。

 言いようのない不愉快さに押し黙っていると、優香の瞳に諦めに似た気遣いの色が宿った。


「光人さんが好きなのは、なっちゃんです」

「そんなことな……」

「あります、私にはわかります」


 優香は迷いない声で言い切った。

 そして、優しく微笑む。


「私、ずっと隣で見てましたから」

「……」


 返す言葉がない。

 確かに、優香は俺が錦馬のことを考えているとき傍にいた。

 優香の眉が悲しそうに下がる。


「なっちゃんのことが好きだってこと、否定しないんですね」

「……否定したら、錦馬のことが嫌いってことになっちまう」


 子供じみた屁理屈だというのは、自分でも理解している。

 でも錦馬のことを好きだと肯定すれば、俺のことを好きだと言ってくれた優香のことを裏切ることになる。

 かといって、優香のことが好きだと自信もって言えるわけではない。実際、俺は一度も好きだと伝えたことがない。


「ごめん」


 いつの間にか、謝罪を口に出していた。

 優香は微笑んで口を開く。


「私と別れてください、浅葱さん」

「……ごめん」


 俺が他の言語を失したように謝り、視線から逃げて足元へ顔を俯ける。

 別れたくない。好きだ、と言えたらどれだけ自分を誇らしく思えただろう。

 しかしそれは嘘に嘘を塗り重ねるだけで、錦馬が好きということを否定できるわけではない。

 もう、錦馬のことを好きだと認めるしか……。


「でも、やっぱり浅葱さんは優しいです」


 胸奥で錦馬への想いを改めようとした時、優香が唐突に言った。

 虚を突かれて優香を見ると、俺を慰めるような朗らかな笑みを返してくれた。


「浅葱さんは優しい人です」

「そんなことないよ」


 自己嫌悪にも似た気持ちで否定する。

 優香の好意を受取り、根底にわだかまる本心は別の人へ向けられたまま、皮相だけで恋人の役に納まっていた。

 所詮は罪悪感だけで恋人を演じていた愚か者なのだ。


「自分を責めないでください」


 優香の声が癒しのように胸に響く。

 慈愛で包んでくれていた彼女を、俺は申し訳なさで正視することが出来ない。


「私を傷つけたくなくて付き合ってくれたんですよね」

「ああ」

「私は浅葱さんの優しいところが好きでした」

「悪かった」

「でも、今の浅葱さんは好きじゃありません」

「そうだろうな」


 嫌われて当然だ。

 俺は好意に甘んじて恋人をしていただけの浮気者だからな。


「我がままかも知れませんけど……」


 優香が断りを入れてから言葉を続ける。


「私のことを好きでいてくれる浅葱さんだったら好きですけど、なっちゃんのことを好きな浅葱さんは好きじゃありません」

「そうだろうな」


 自嘲的な気分で微苦笑が零れる。

 優香の瞳に真摯な光が宿った。


「だから、別れてください」

「わかった」


 すんなりと承諾の言葉が出た。

 錦馬への想いが消えないまま、ズルズルと優香と恋人関係を続けていくのは双方につらいだけだろう。

 別れ話が成立した瞬間、優香は俺の良く知る溌剌な笑みを浮かべた。


「早く見送りに行ってあげてください。急がないと間に合いません」


 胸が詰まりそうになりながらも俺は頷く。

 優香から視線を切り、運転席に向き直った。

 背後で優香が踵を返す気配を感じる。


「それじゃ、浅葱さん。」


 声とともに足音が遠ざかっていく。

 振り返ってはいけない、と自身に言い聞かせながら、運転席のドアを開け車内に乗り込んだ。


 俺は錦馬が好きだ。


 確固たる想いを胸に抱き、ハンドルに手をかけてサイドブレーキを外す。

車を発進させて見慣れた駅前から走り去った。

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