12-5

 錦馬を後部座席に乗せて駐車場を出た。

しばらくは他愛もない話を交わしていたが、互いに多弁でないからか錦馬のマンションまであと数分というところで会話が途絶えてしまった。


 錦馬は車外を流れる街の明かりを眺め、俺は沈黙の中で運転に意識を置いている。


「はあ」


 気疲れしたような錦馬の小さな溜息が聞こえた。

 顔がバックミラーに写っておらず表情は窺えない。


「はあぁあ」


 今度はわざとらしくため息を吐いた。

 俺は前を見たまま、意識の一部を錦馬に向ける。


「どうした。溜息ついてよ」

「なんか話してよ」

「はい?」

「何か話題振りなさいよ」


 話題をふれ、と言われても別段思いつかない。

 今までだって車内で沈黙していたことなど頻繁にあった。それでも慣れてしまえば居心地悪いと感じることはない。


 いつもなら錦馬は黙ってスマホでも弄っていたであろうに、今日に限って俺との会話を求めてくるとは思わなかった。


「もしかして……」


 唐突に錦馬の声が疑うような鋭さを含んだ。

 何を訊いてくるのかと身構える。


「優香ともこんな感じなの?」

「突然だな」


 優香のことだった。

 錦馬と共通の話題となれば、彼女の存在は外せないらしい。


「突然でもなんでも、優香といる時もあんたはだんまりなの?」

「だいたい優香の方から話しかけてくるから黙ってることが少ないな」


 車内でも路上でも施設内でも、優香は何かしら話題を見つけては俺に水を向けてくる。

 優香といると会話の種に飽くことがない。


「ふうん。じゃあ上手くいってるのね」


 特に感情を動かしていない声で相槌が返ってくる。

 ――――またも沈黙が降りた。


 運転に意識の一部を戻そうとした時、あっと錦馬の口から声が漏れた。

 錦馬がシートに座りなおす。バックミラーに顔が写った。


「そういえば、優香とはできたの?」


 何がとは言わずに尋ねてくる。


「できたって?」

「ほら、あれよ」


 バックミラーに写る錦馬の頬が少しだけ赤らんだ。

 あれってなんだろ?

 運転の片手間で頭を捻る。が、答えが思い浮かばない。


「わからん、教えてくれ」


 考えを放棄して、錦馬に答案を委ねる。

 バックミラーの中の錦馬が仕方ないという顔で眉を下げる。


「あれって、キスよキス」

「……キスねぇ」


 背中が痒くなるようなワードが出た瞬間、つられるようにバックミラーの錦馬の唇へ視線が行ってしまった。

 慌ててミラーから視線をもぎ離す。


「それで、やったの?」


 遠慮気味に訊いてきた。

 情けない思いで俺は返事する。


「いや、まだだ」

「……あっきれた」


 一瞬にして、錦馬の目が馬鹿を見るように細められた。

 否定できず俺が何も返せないでいると、はあああ、と大きな溜息をつく。


「優香が可哀そう」

「んなこといってもなあ……」


 俺だって優香のことを嫌ってキスしないわけではない。


「いざとなると緊張するんだよ」

「緊張ねえ。いい加減慣れなさいよ」

「慣れるものではないだろ。初めてなわけだしさ」


 俺は反論する。

 しかし、錦馬は常のごとくちょっと怒って強硬な意見でも押し通してくるかと思いきや、真剣な顔付きで顎に手を触れて、俯き加減に何やら考え始めた。

 話しかけにくい雰囲気になり、俺は運転に集中を傾ける。


 マンションの駐車場に乗り入れるところまで来たとき、錦馬がようやく顔を上げた。

 バックミラーで目が合う。


「慣れるには練習でもすればいいわよね」

「練習?」


 運転に集めていた意識のほんの一部を、錦馬との会話に向け直す。

 錦馬は肯定する間の後、バックミラーの中で微笑む。


「キスの練習をすれば、あんたも本番で緊張しないでしょ」

「キスの練習って……簡単に出来るもんじゃないだろ」


 駐車作業をしながら、常識的な考えでそう返した。

 街中でプラカードを掲げて、キスの練習相手を探しています、なんて募集でもかけようものなら即不審者扱いである。しかも応じてくれる人なんかいないだろうし。


「キスの練習ぐらい……出来るわよ」


 否定的な俺の言葉に、少し躊躇いがちに錦馬が言い切った。

 ミラーを介して真剣な視線を送ってくる。


「あたしが練習相手になってあげるから」

「は?」


 最初、からかわれてるのかと思った。

 でも錦馬の表情から冗談の気配は窺えない。

 愕然としてミラーで視線を交わしていると、照れたように急に錦馬が顔を逸らした。


「あんたのためじゃないわよ。優香のためよ」

「そ、そうだよな」


 錦馬はかねがね優香と俺の関係を気にしていたが、それは全て友人の優香のため。決して俺のためではない。


「今そっち行くから。運転席で待ってて」

「え、ちょっ」


 錦馬の行為が自分のためではないと心の中で言い聞かせていると、錦馬は俺に待機を命じて車外に出た。

 躊躇なく助手席のドアを開け、隣に乗り込んでくる。

 

 俺は反射的にシートの上で重心を傾け、助手席から距離を離した。

 錦馬はゆっくりと助手席に座る。

 そう広くない前部座席のせいで、錦馬の身体が腕を大きく動かしたら肩が触れそうなほどに近かった。


「案外に狭いわね」


 シートとダッシュボードの間を見下ろしながら、予想と違うという悩みの顔で呟く。

 狭いならやめとけば、と言いかけて、錦馬が面を上げた。

 緊張感もしていない無表情で俺の顔を見つめる。


「優香はいつもここに座るのよね?」

「ああ、そうだ」

「なら、優香とのシチュエーションを考えてここが最適ね」

「最適? 何にだ?」

「キスの練習」


 なんてことない顔で言った。


 マジでやる気なのか。


 大きな逡巡を感じていると、錦馬は冷やかしの笑みを浮かべた。


「どうして緊張するのよ、たかが練習じゃない。それにあんたの可愛い彼女のためなのよ」

「……別にここまでしなくても」

「ダメよ」


 変じて、力強い視線になって断言した。

 けれども、次の瞬間には柔らかく口元を綻ばせる。


「あんたと優香の仲が進展してくれないと、二人の知り合いとして安心して実家に戻れないじゃない」

「大丈夫だ。しっかりやるから」

「今のままで優香にキスできるの?」

「それは……」


 できる、と言いたかったが、錦馬の懸念にも納得できた。

 錦馬との練習ですら緊張を感じてしまっている俺に、優香との本番を成功できるはずがない。

 だから練習すれば、本番での緊張も少しは減らせるはずだ。


「ほら、目閉じなさい」


 真面目にレクチャーする声で錦馬が言う。

 渋々キスの練習をする覚悟を決めている間に、錦馬は指先で髪を耳にかきあげ、瞼を下ろした。


 錦馬の瞼を閉じた顔にキスの瞬間を想像させられ、心臓が強く掴まれて引き込まれる感じがした。


 俺は後を追うように目を閉じる。

 すっと錦馬の顔が少し近づいた気がした。


「ほら、早くしなさい」


 目を閉じた暗い視界の先で、錦馬の小さな息遣いがそう告げる。


 唇の位置がその息遣いでわかった。


 互いの唇が重なるように、俺は顔を近づけていく。


 もう少し、と思ったところで唇にちょっと硬い感触が覆いかぶさった。


 はっとして目を見開く。


「はい。そこまで」


 目の前で錦馬が感心したような笑みを浮かべていた。

 右手のひらで俺の口元を覆っており、茫然としている俺の顔を押し返す。


「悪くなかったわよ」


 感想を口にしながら手のひらを離した。


「今の感じでキスするなら優香も合格点くれるんじゃない」


 なんか、報酬を貰う寸前で取り上げられた気分だ。

 錦馬が不思議そうな顔に変わった。


「なんでそう残念そうなのよ。練習なんだから実際にするわけないじゃない」

「まあ、そうだよな」


 途中から練習だというのを忘れていた自分は恥ずかしい。

 ムードって怖い。


「どう、キスの雰囲気は掴めた?」


 俺の内心を知らずに錦馬が訊いてくる。

 まあ一応、と返すと安心して口元を緩めた。


「一応っていうのは釈然としないけど、少しでも雰囲気がわかったならそれでよしとするわ」

「これなので、いいのか?」

「うん、大丈夫。本番も緊張しなくなるわよ」


 請け合うようにして俺を励ました。

 錦馬が言うなら、きっと大丈夫なのだろう。


「さ、これで心残りもなくなったわ」


 錦馬は気持ちを切り返えた声音で言い、シートの上で身を翻して助手席のドアノブに手をかける。


「もう行くのか?」


 これが最後の会話だと思うと、急に寂しさが湧いた。

 俺の声に、錦馬はドアノブに手をかけたままの姿勢で振り向く。


「ええ。何か用でもあるの?」

「……いや。行っていいぞ」

「そう」


 錦馬は正面に顔を戻し、ドアを開けて外に出る。

 しかしすぐには歩き出さずに、再度俺の方を振り向いた。

 別れの悲しみは感じ取れない朗らかな笑みを口元に浮かべる。


「一年間、ありがとね」

「ああ、こちらこそ」


 行かないでくれ、なんて言えない。

 言ってしまえば、錦馬に心残りを作ってしまう気がした。


「優香と一緒に頑張んなさいよ。陰ながら応援してるから」

「お前も機会があれば事務所に顔出せよ。そうして何か食べに行こうぜ」

「あんたの奢りならね」

「仕方ないな、その時は奢ってやるよ」

「期待してるわよ。それじゃあね」

「おう」


 別れ際なのに一度も涙を流すことなく、むしろ今までで一番会話が弾んだ。

 静かにドアを閉めて、錦馬は背を向けてマンションに歩み出した。

 錦馬の姿が見えなくなるまで眺めてから、俺は発進準備を始める。


 不意に雨を溜め込めきれなくなった地面から湧く水のように、胸の中に惜別の寂しさが滲みだしてきた。

 けど、これから俺にもやることがある。

 錦馬のことを考えている暇はないはずだ。


 踏ん切りをつけるようにサイドブレーキを踏み込んで解除し、微かに寒い夜の駐車場から車を発進させた。

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