10-4 ※三人称

 バレンタインデー当日、2月14日。


 立春を過ぎても冬の寒さは流れ去らず、街並みにはまだ肌寒さが滞留させていた。

 そんな季節の最中、太陽が昇り切っていない時間から某テナントビルの一室のスチール引き戸の前に、銀鼠色タートルネックのセーターをゆるく着た錦馬が立っている。


「ここよね」


 引き戸の横に設えられた立て看板を見遣る。

 立て看板には、錦馬が所属する事務所が部屋を貸し切っていることを書き示してある。


 この部屋で間違いないとわかると、錦馬は引き戸を開けて中に入った。

 部屋の中では三口のコンロが対面する調理台が間隔をあけて二列に並べられており、錦馬の顔見知り十数人の女性芸能人がめいめい違うエプロンを着けて楽しそうに料理している。


「あー、錦馬君。おはよう」


 講師用の調理台に頬杖をついている社長が、入ってきた錦馬に気づいて億劫そうに挨拶した。


「空いてるところ自由に使っちゃっていいよ」

「空いてるところねぇ」


 各調理台を見る。ほとんどが調理台一つに四から五人で使っており、空いているコンロが見つからない。

 だが左隅の一卓だけ人数が少なく、シックな花柄エプロンの小柄な女性とワインレッドのエプロンの妙齢の女性二人が二面のコンロを占領している。

 その二人を目にした瞬間、錦馬はちょっと気が引けた。


「あたし、部屋の外で待ってていいですか」

「うん? どこも空いてないか?」

「あ、そうだ。優香は来ていませんか?」


 ただいま思い出したように、自分をチョコ作りに誘った野上の名を出す。

 社長は軽く首を横に振った。


「野上君は来てないよ。確か午後の部だから」

「え、午後の部?」


 事務所規模で開いた今回のバレンタインチョコ作りのイベントは、貸し切っている部屋のコンロの数を考慮し、午後と午前の二つの部に分かれている。

 てっきり野上が自分と同じ部と思っていた錦馬は少しがっかりする。

 内心気を落とす錦馬を尻目に、社長は頬杖をやめて教室中の調理台を見回した。

 錦馬が先ほど遠慮を覚えた調理台に目が留まる。


「あそこなら二人だけだし、一方はもうすぐ終わる。あそこ使わせてもらうといい」

「でも……」

「言いにくいなら私の方から言っとくから使わせてもらおう」

「……はい」


 親切心で促してくれる社長に本音を言えず、錦馬はしぶしぶ受け入れた。

 社長が二人のところへ行って一言二言交わすと、調理台の方から錦馬を手招きした。

 錦馬が二人のもとへ近づくと、小柄な女性のほうが軽く手を挙げて笑いかける。


「よっ、ホルスタイン」

「……ホルスタインじゃないわよ」


 小柄な女性――西条かえでの軽口めいた呼び方に錦馬は眉をしかめて否定した。

 西条は胴が細すぎてシックな花柄が背中まで届きそうなエプロンを着けている。


「錦馬さんじゃないか。久しぶりだね、フヘェ」


 妙齢の女性――入澤静香が錦馬の顔を見た途端に妄想を逞しくしたのか、挨拶に交じって鼻の下を伸ばして笑った。

 錦馬は入澤に不安な目を向ける。


「な、なに?」

「いやぁ。相変わらずスタイルいいなぁと思ってね」

「そう」


 錦馬には入澤の裏のある誉め言葉が信用ならず、てきとうに相槌を打った。


「それで錦馬。調理台使うんだろ?」


 西条が自身が今まで使っていたコンロを指さして訊いてくる。

 錦馬は頷きながら、西条の目の前に置かれた三本のチョコバナナを視界に入れた。


「そのチョコバナナ、あんたが作ったの?」

「そうだ。なかなかに上手く出来たぞ」

「ふーん」


 何でもない素振りをしつつも誰にあげるんだろう、と疑問を持った。

 浅葱の顔が頭に浮かぶが、誰にあげようかあたしには関係ないと振り払った。


「錦馬は何を作るんだ?」


 今度は西条の方から尋ねる。


「あたしは生チョコよ。そう手の込んだものじゃないけど」

「浅葱にあげるのか?」

「えっ」


 ついさっき考えていた人の名前が出てきてドキッとした。

 顔を赤らめて西条から視線を逸らすと、ちょっと怒った口調になる。


「そうよ。けど好きとかそういう意味じゃなくて、日頃の感謝を伝えるためだからね」

「何をそんなムキになってるんだ?」

「……勘違いしてほしくないからよ」

「別に勘違いされてもいいではないか。私なんか浅葱とカップルを偽ったことあるぞ」


 さらりとカミングアウトした。

 錦馬は驚愕の目で西条を見つめる。


「え、どういうことなの?」

「錦馬は知らなかったのか。ロズさんのステージを観に行った時に関心を向けさせるために浅葱とカップルを演じたのだ」

「ロズさんって誰?」

「プロゲーマーだ。十代の頃から……」

「よもやま話はこのくらいにして、錦馬さんはバレンタインチョコ作りに取り掛からないと。かえでも早くコンロ空けてあげないとね」


 入澤が表層的な笑みを浮かべながら、西条の称賛を込めたロズの紹介を遮った。

 そうだな、と西条は入澤の内なる憤りに気づくこともなく、話をやめて調理用具を片し始める。

 錦馬は手提げの布バッグからシンプルな紺地のエプロンを取り出し身に着けると、背中の紐をほどけないようにきつく締めた。

 その一連の動作に向かいで立つ入澤が視線を注ぐ。その視線は特に錦馬の胸あたりに集中している。

 料理の支度に入ろうとした錦馬が入澤の視線に気が付き、純粋な疑問符の浮かんだ顔を上げた。


「あたしのエプロン、おかしいですか?」

「……いやぁ、いいと思うよ」


 入澤は視線をそのままに無関心そうに答えた。

 返答が腑に落ちず、じっと見つめてくる入澤の視線を辿る。

 エプロンの布を押し出す自分の巨乳に到達し、さっと顔を赤らめた。

 慌てて背中の紐に手をかけ緩める。

 エプロンが弛み、胸の形が不鮮明になった。


「あー、緩めちゃうの?」


 途端に入澤が残念そうな声を出す。

 錦馬は恥ずかしさと怒りで入澤を睨みつけた。


「せっかくスタイルいいのに。もったいないよ」

「人の胸を見て、何がいいのよ」

「心外だ錦馬さん。私は君の胸は見ていないよ」

「はあ? じゃあどこ見てたっていうのよ?」

「エプロンで締め付けられて君の乳房の形状が浮かび上がっているのを見てたのさ」

「それ同じよ」

「同じじゃないよ。私は直接見ていたわけじゃない。大きくて張りのある乳房がエプロンを迫り出させている事象を観察していたのだからね」

「胸を見ていたこととは変わりないでしょ」

「私が見ていたのは物質ではく事象だ。ようするに存在している有機物ではなく、発生している出来事なのだよ」


 相変わらず錦馬の胸に目線を注いだまま、入澤は淡々と屁理屈をこねた。


「もういいです」


 言い返すのが面倒になった錦馬は入澤から視線を切って、調理台の上にある俎板を手元へ引き寄せた。

 入澤の視線を気にしないよう努めて、バレンタインチョコ作りを始めた。

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