10-3

 錦馬の撮影が一段落して連日で休日になっていた頃、源次郎さんから話があると事務所からはちょっと離れた喫茶店に呼び出された。

 野上のことだったらどう謝ろうかと悩みながら喫茶店に入ると、隅のテーブル席からスウェットにジャケットの格好をした源次郎さんが手招きしていた。

 テーブルに近づくと向かいに座るよう促され、会釈を交えて俺は向かいに腰かけた。


「すまないね、休日に呼び出してしまって」

「いえ、予定もなかったので大丈夫です」


 源次郎と会う予定がなければ家で寛いで一日を過ごしていただろう。

 呼び出した源次郎さんが話を切り出すのを待つ。


「何か飲むかね?」


 そう尋ねる源次郎さんの側には何もカップスすら置かれていない。

「なんでもいいですよ。源次郎さん何飲みます?」

「わしもなんでもいいんだがね。じゃあ無難にコーヒーにしておくか」

「そうですね」


 互いの注文が決まり、源次郎さんが近くを通りかかったウェイターにブラックのコーヒー二杯をオーダーした。

 ウェイターが立ち去ると俺のほうに顔を戻す。


「ところで浅葱君。錦馬君とはどうかね?」

「どうって?」

「亀裂は生まれてないかね?」

「まあ、問題なく続いてますよ。あいつがどう思ってるのかはさておき」


 喧嘩したということもないし、露骨に嫌っている素振りもなかった。

 俺の返答に満足したのか源次郎さんは深くうなずいた。


「錦馬君は少々男性不信なところがあったからね、上手くいっているようでなによりだ」

「男性不信ですか。件のあれがあったからですか?」


 件のあれとは錦馬が過去に受けたマネージャーからの凌辱行為だ。

 思い出すだけで虫唾が走る。


「あれがあってから錦馬君はしばらくマネージャーをつけてなかったからね。担当のいない女性マネージャーも見つからず、一人で仕事抱え込んでたんだよ」


 錦馬は一人でこなしていた経験があるからか、時々俺がいなくてもよくないかな、と思ことがあるが、最近は俺に仕事をゆだねる機会も増えてきた。

 それだけ信頼してくれるってことだから少し嬉しいんだよな。


「そこでだがね浅葱君」


 源次郎さんの顔に真剣みが帯びる。

 つ、ついに野上のことを切り出されるのだろうか?


「はい。なんですか?」

「わしの頼みを聞いてはくれないだろうか」


 まさか野上の告白を断った俺に無礼を言い聞かせるつもりなのか。

 源次郎さんがそんなお節介をするとは思えないけど、野上はこの人の孫娘だしな。

 どこが気に入らないのか、と訊かれても俺は自信ある答えを持ってないぞ。


「毎年バレンタインの日に事務所をあげたイベントがあるのだが」

「は、はい」

「おそらくそのイベントで優香はわしにチョコレートをくれるだろう」

「それで?」

「あちらはサプライズバレンタインと考えているだろうからね。ちょっとこちら側から驚かしてあげるのもアリではないか、とわしは思っているわけだよ」

「……よかった」


 思わず口に出していた。

 源次郎さんが何か? という顔で俺を見る。


「いえ、なんでもないです。それよりバレンタインにイベントがあるなんて初めて聞きましたよ」

「浅葱君は一年目だからね。知らなくて当然だよ」

「それで、驚かすって何をするんですか?」


 訊くと、その言葉を待ってましたとばかりに口元に笑みを浮かべた。


「花を贈るのだよ」

「花?」

「フラワーバレンタイン、聞いたことあるかな?」


 言葉だけは聞いたことあるような、ないような。とにかくはっきりとした情報はない。


「どういうものなんですか?」

「バレンタインの日に男性から女性へ花を贈る行事でね。近年になって日本でも行う人が増えてきたらしいのでね。機に乗じてわしも挑戦してみようかと」

「それで俺もフラワーバレンタインをやらないかってことですか?」


 源次郎さんはしっかり頷いた。


「でも俺、贈る相手がいませんよ?」

「何を言ってるんだね。浅葱君が贈る相手は錦馬君だよ」

「錦馬にですか」

「わしは優香に贈るつもりでいる。日頃の感謝を込めての」

「日頃の感謝……」


 俺は一度でも錦馬にちゃんとした礼を言ったことがあるだろうか?

 思い返してみても、社交的で気軽い感謝しか記憶にない。

 誠意を持った感謝を伝えるのは、恥ずかしいけれどすべきことなのかもしれない。

 それに花を添えてなら少しだけ実行できそうな気もしてくる。


「協力してくれるだろうか?」

「はい。ぜひとも一緒にやらせてください」


 迷う必要もなかった。

 花を贈ってちょっと照れる錦馬が頭に浮かんだ。

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