10-2 ※三人称
二月一週目の週末。
月で最初の撮影を済まし閑暇に入っていた錦馬は、この日午前にジムで汗を流し、午後からは家に帰って寛ぐつもりで行動していたのだが、ジムからの帰り道に急遽社長に事務所へ呼び出されてしまった。
布のハンドバックにスポーツウェアを入れたままで仕方なく事務所に赴き、待合いに指定された二階のミーティングルームのドアを開く。
社長が一人でいるのかと思いきや、同じ事務所で顔見知りのグラドルたちが一斉にドアを開けた錦馬を振り向いた。
錦馬の頭の中で疑問符が飛びかう。
「え、なんの集まり?」
「なっちゃん。来るの遅いです」
仲のいいグラドルの一人である野上の声がグラドルたちの中から聞こえた。
喋っていたグラドルの友人から離れて錦馬に歩み寄ってくる。
「ねえ優香。ここってミーティングルームだよね?」
「そうですけど、どうしてそんなこと訊くんですか?」
「部屋間違えたのかと思ったのよ。社長に呼ばれて来たんだもの」
「社長ならいますよ」
野上はそう言い、部屋の端にあるホワイトボードの方を指さす。
錦馬が指を目で追うと、ホワイトボードの横に手に顎を載せて思案の仕草をしている社長が立っていた。
ついでホワイトボードを見遣る。
「は?」
腑に落ちず間抜けな声が出た。
ホワイトボードにはでっかく『サプライズバレンタイン計画』と赤いペン字で書かれてある。
「サプライズバレンタイン?」
「はい。毎年やってますよ」
「そうだっけ?」
「あー。そういえばなっちゃんは昨年まで男性マネージャーがいなかったから、このイベント参加したことなかったですよね」
「そうね。参加したことないわ」
「でも今年は浅葱さんがいるから、なっちゃんにも参加する理由があります」
「参加しないとダメなの?」
野上の口から浅葱の名が出て、錦馬は急に不安そうに眉を曇らせる。
はい、と野上は笑顔で頷く。
「マネージャーが男性の人は全員参加です。特に担当になってから一年目の人は優先です」
「……で、何をするの?」
半ば諦めた口調で訊いた。
野上は笑顔で答える。
「チョコレートを贈るんです」
「バレンタインだからそうなんでしょうけど、それだけ?」
「基本的にはそうです。でも贈るチョコレートに条件があるんです」
「条件ってどんなの?」
「手作りです」
「なるほど手作りね…………へっ?」
オウムみたいに口で反芻してから、錦馬は遅れて意味を理解して頬を赤くした。
バレンタインに手作りチョコレートを浅葱に贈る。なんんでそんな恋人みたいなことしなきゃいけないのよ。
想像しただけで恥ずかしさが身体を駆け巡った。
「考えらんない。あいつにチョコを贈るなんて」
「そんな恥ずかしいことじゃないですよ、なっちゃん。日頃の感謝に添えて贈るだけです」
「だとしても恥ずかしいわよ」
「恥ずかしくても感謝は伝えないとダメです。送り迎えしてもらってるじゃないですか」
「うう、わかったわよ」
唇を尖らした野上の詰る言い方に負けたような形で錦馬は参加を認めた。
錦馬が了承した途端に、野上は顔に笑顔を戻す。
「参加を決めたなら、社長に名簿を取ってきてもらってください。参加人数を把握したいらしいので」
「そう、わかったわ」
あくまで感謝を伝えるだけだと心に落とし込んで社長のもとに近づいた。
イベントに参加することを告げると、社長は安心させるように微笑んだ。
「こういうのは気持ちが大事で作るものの上手い下手は関係ないから大丈夫」
「はい……」
トーンを沈ませて頷いた。
参加を決意してもなお気乗りしなかった。
その後イベントまでの計画予定が社長の口によって説明されたが、浅葱にチョコレートを渡す自分の姿がはっきり思い浮かばなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます