6-9

 取り返しのつかない自責のせいで野上に会わす顔がなく、ホテルのロビーで無為な時間を過ごしていたが、つい先ほど野上の方から『そろそろ帰りましょう』とメールが入っていた。

 先に荷物をまとめているとのことで、俺も帰り支度をするために止む無く部屋に戻ってきた。

 ドアを開けると、丁度野上は自身のボストンバッグの中身を整理していた。


「あ、浅葱さん。私の荷物のけときました」


 いつもと変わらぬように機嫌よさげな声音に、若干の無理を感じる。


「先にロビーに降りてますね。忘れ物ないか確認してきてください」

「ああ、わかった」


 俺が当たり障りのない返事をすると、野上はぎこちない笑みで応じてボストンバッグを抱えて横切っていった。

 荷物は俺が持ってくよ、という前は何気なく口にしていた言葉が、気まずさに堰き止められて出てこない。

 野上の姿が廊下から消えてから帰り支度を始めた。

 さして物を多くを持ってきたわけではないので、不足している物がないか確かめて部屋全体を眺め回した。

 ふと、ベッドに視線が留まる。

 睦事まがいの舞台となったベッドシーツに、依然として昨夜の皺が残っていた。


「……綺麗にしていこう」


 ハウスキーパーの人が清掃してくれるだろうが、何故かこのままにして置いてはいけない気がした。

 バッグを床に置いてベッドに近付き、シーツの端を揃え、皺を消していく。

 昨夜のことが無かったことになるわけではない。でも俺はシートを整えた。


「こんなもんかな」


 手をシーツから離す。

 すっかり元通りというわけではないが、乱れた皺はほとんど目に付かない。

 あれが遊びならどれだけ気持ちが救われたことか。今からでも冗談だったと知らされたい。

 再びバッグを肩に提げ、カード式のルームキーを抜いて部屋を出た。



 ホテルの駐車場から待ち合わせた駅前までの帰り道、野上は助手席で終始無言だった。

 けっして俺の方がぺちゃくちゃ喋っていたわけでもない、というか俺の方も何も喋っていない。

 駅前についてからしばらくして、野上の方を見ないようにしてようやく俺は声を絞り出す。


「着いたぞ。降りないのか?」

「……まだ降りません」


 それだけ答えて、また沈黙した。

 語を継ぐ機を逸して、俺も言葉を失くす。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


 さすがに何か話すべきでは。


「……なあ、降りないのか?」

「……降りません」

「どうして……」

「このまま降りたら逃げになりますから」


 逃げ。野上の言葉のチョイスに、微かに意思の固さを感じる。


「……じゃあ、どうすれば降りてくれるんだ?」

「……昨日、付き合ってくださいって言いました」

「……そうだな」

「まだ、浅葱さんの返事を聞いてません」


 こちらに顔を向けずに車窓から外を眺めたまま野上は言った。

 返事か。

 やはり昨夜の事は冗談ではなかったのか。


「……俺が返事をすれば、車から降りてくれるのか?」

「……はい」

「わかった。返事をする」


 口ではそういいながら、少しでも気軽に聞こえるフレーズを探す。

 ごめん付き合えない。ではそのまま過ぎるし、野上のこと恋愛的な意味で見てなかった。ではあまりにも失礼だ。


「……わかりました」


 頭の中を言葉が駆け巡っていると、ふいに野上がゆっくりと振り向き、静かに承知を口にした。


「え、まだ俺は……」


 戸惑い、慌てて返事をしようとする。

 しかし、野上は首を横に振る。


「いいんです。わかってますから。浅葱さんはどこまでいっても浅葱さんですね」


 そう言って、朗らかながら悟ったような微笑みを浮かべる。


「今だって、どう答えれば私が傷つかないか考えてくれてたんですよね。私はもう充分です」

「……」


 返す言葉がない。

 野上には俺の考えていることなど分かりすぎるぐらい分かり切っている。

 俺が黙していると、野上は背くように車窓に顔を戻してドアノブに手をかけた。


「それじゃあ、ありがとうございました。楽しかったです」


 台詞そのものは相変わらずでも中身は空になった声音で告げ、ドアを開けて車外に出る。

 俺に手を振ることもなくドアを閉め、駅の昇降階段へ歩き始めた。


「……」


 まだ、遅くはない。

 野上の後姿は少しずつ遠ざかっていく。


 ――今ならば、追いかけて、呼び止めて、振り向かせて、野上の想いに応えることが出来る。


 ノブに手を掛ける。


 ――いや、やめとこう。


 はっきりと返事しなかった俺が今更未練たらしく追いすがるのは、自分の想いに嘘を吐くことになる気がする。


「……帰るか」


 ノブから手を離してハンドルに載せる。

 フロントドアを唐突な雨滴が叩いた。

 夕立かな。


「これは一雨降りそうだな」


 車窓から臨む空にはまだ晴れ間が残っている。

 だが、ポツポツと次第に雨が降る量が増していく。

 呼び止めなくてよかった。呼び止めていたら、野上を雨で濡らしてしまっていた。

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