4-19

 先程まで走っていた道を、逆車線で走ることになるとは。

 寛ぎの時間を後ろ倒しにされた辛みを、どういう皮肉で言い表そうか、と自分ながらひねくれたことを思考しながら車を走らせ、錦馬の住むマンションに着く。

 テーブルを運んでやった時にドアの前まで運んだから、錦馬の部屋の位置は覚えてる。記憶通りなら二階の南の角部屋だ。


 階段を昇って二階に上がり、錦馬の部屋へ向かう。

 ドアの前まで来ると、インターホンのボタンを押した。

 インターホンの軽やかな音に人が暴れるような音が微かに混じる。

 部屋の中でなにやってんだ、錦馬の奴。


「助けて!」


 その時、唐突にドアの内側から錦馬の叫びが物音に被さって耳に聞こえてきた。


「クソっ、黙れ!」


 耳に覚えのない男の怒号がドア越しに響く。

 頭で判断するよりさきに手がドアノブに伸びて、勢いよく捻っていた。


「何があった錦馬!」


 助けを呼んだ声に返事をしながら部屋の中に踏み入ると、沓脱を上がってすぐのところで、男が錦馬を組み敷いているのが目に飛び込んできた。


「錦馬!」

「助け――っ」

「静かにしてろ」


 錦馬の返答が男に口を塞がれて途絶える。

 膂力で錦馬を床に押し付けたまま、男は俺に首を振り向け、威圧的な目で凄んでくる。


「なんだ、お前は?」

「こっちの台詞だ。錦馬から離れろ」


 俺は相手に怯懦を見せず睨み返す。


「はあ、お前何様だ?」

「何様でもない、単なる錦馬のマネージャーだ」

「浅葱か」


 男が機先を制するように呟いた。


「なんで俺の名前を知ってるんだ?」

「俺の顔に覚え、ない?」


 煮え滾る怒りで頭が思うように働かず、男の顔をしっかり認識できない。


「知らない顔だ」

「そうかい、ならそのまま思い出せなくていい」


 そんなことより、と口元を下品に歪めた。


「お前も同種だな」

「どういう意味だ?」

「浅葱マネージャー、お前も錦馬を凌辱しに来たんだろ」


 その台詞を聞いた瞬間、自分のこめかみで音が鳴るのがわかった。


「ふざけんな。俺がそんな下司なことをするわけない」

「詭弁だな、どうせお前も性的な目でずっと見てたんだろ」


 人を慰み者にする根性のひん曲がった笑みを、男は口辺に浮かべる。

 俺は男ににじり寄り、知らず腕を振り上げていた。 


「うおっ」


 醜悪な面を目掛けて振り下ろした俺の右拳を、男は咄嗟に左腕で防いだ。が勢いを殺しきれず重心が傾いてよろめき、沓脱の壁際に座り込む。


「あぶねぇな、突然殴んなよ!」


 卑怯だと言わんばかり喚き、憤った視線で睨み上げてくる。

 その視線を真っ向から受け止め、俺は言い放つ。


「出てけ」

「なんだって?」

「出てけって言ったんだ! そして二度と錦馬の前に現れるな!」


 男が頭を掻いてちっ、と舌打ちする。


「わかったよ、出てけばいいんだろ」

「ああ」


 男は手をついて立ち上がり、俺の前を横切ってドアノブに手を伸ばした。その瞬間、ぐるりと反転する。

 やばい、と思う間もなく、男の右拳が眼前に突き出されていて、


「浅葱っ!」


 錦馬の肝を潰した叫び声を耳にしながら、俺はその場に横腹を下にして倒れる。

 逆上して俺に一撃報いた男の姿が、勝ち誇った笑みを残して、ドアの外に逃げ去っていった。


「浅葱、しっかりして」


 男がいなくなると、錦馬がものすごく心配した面持ちで、沓脱で身体を横たえる俺の顔をのぞき込んでくる。

 お前のか弱い少女みたいな瞳は初めて見たよ。


「はは、護ってやったぜ」

「……ありがと」


 軽口を言って俺が笑いかけてやると、錦馬は心の底から安堵したように相好を崩した。

 


 玄関での男との応酬の後、殴られた鼻頭がまだ痛かったが、俺はリビングで錦馬に先程の男の素性について尋ねた。


「以前、あたしのマネージャーやってた汚らわしい男よ」


 嫌悪を露にして答えてくれる。


「なんで俺のことを知ってたんだ?」

「三日間の撮影期間中に根津って人と会ったでしょ」

「ああ、話しかけてきたから少しだけ話したよ。眼鏡で長身の人だろ」

「そうね。それでさっきの男が、その根津って人と同一人物なの。あたしも押し入ってきて変装解くまで気が付かなかったけどね」


 無警戒を恥じるような声音でそう言った。


「あの時のは変装だったのか、じゃあさっきのが本当の姿?」

「そうね。そもそも根津という苗字時代が偽名よ。あたしのマネージャーしてた時は、下里だったもの」

「苗字を偽造してでも錦馬に近づくって、とんでもない下司野郎だな」

「ほんとに下司よ。虫唾が走るわ」


 歯に衣着せず毒づいた。

 堰を切ったようにひとしきり怨み言を吐き捨て、錦馬は鬱憤を晴らす。

 俺も初めは頷くなどして聞き手を務めたが、段々と不満の対象が他に移っていき、怨み言が終わる様子がないので、もういいだろと打ち切らせた。


「ごめん、あたし悪口うるさかったわね」


 錦馬は屈託ない憂鬱を拭いさった表情で、くすくすと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る