エピローグ
錦馬が強姦未遂の被害に遭ってから、一週間が経過した。
錦馬は被害を機に俺の自宅にほど近い所に建つ中型マンションに居を移した。理由を尋ねると、あたしの家が近い方があんたの心配が減るでしょ、とちょっぴり気遣いを覗かせた真面目な顔で答えてくれた。
俺は今、そのマンションの駐車場に車を停めて錦馬を待ちながら運転席に座りスマホでネットニュースを閲読している。
今朝方に新しく載ったニュース記事に、芸能人のマネージャーが未成年と性行為をしたとして逮捕された事件があった。
容疑者の芸能人のマネージャーというのが根津和毅(30)で、数々の女性アイドルに関係を執拗に迫っていたという同業者の証言があり、事実を目下調査中だそうだ。
他方で別のニュース記事には、以前は違う名でマネージャー業をしていた、という元アイドルの証言を載せているのもある。
事件当夜に男が去った後、錦馬から男の素性を聞かされた俺は、男の名が根津和毅であることを知って、一方ならず驚かされた。
根津和毅とは『東西グラドル 夏の陣』の撮影の休憩中に話しかけてきた眼鏡の背の高い根津さんと同一人物らしく、マネージャーの仕事中は髪型を変えたり眼鏡をかけたりして変装していたようで、錦馬の自宅に押し入った時がどうやら素の彼らしい。
見掛けで人を信じるな、ということの警鐘のような事件だ。
関連記事をあてもなく読み流していると、マンションのエントランスから錦馬が姿を現した。俺の車を見つけると、少し歩速をあげて真っすぐ近づいてきた。
運転席の窓の傍まで来ると、まじまじと俺の顔を見つめる。
言葉を交わさずとも、錦馬の視線の意味は了解している。後部座席のスライドドアを開けろという意味だ。
ステアリング近くのスライドドアの操作ボタンのうち、OPENを押した。
錦馬はドアが開き切る前に乗り込んで、定位置である俺の斜め後ろの席に座る。
「おはよ」
ごく短く挨拶してくる。
こちらも一文字多く「おはよう」と応じた。
「スマホで何見てるのよ?」
「ネットニュースだ、根津のことが載ってる」
「見せて」
何もない手のひらを差し出してくる。
根津和毅の一件以来追跡機能を嫌ってか、錦馬は今まで使用していたスマホを初期化して売り払った。だからネットニュースを簡単に見られる器具を持っていない。
背もたれ越しにスマホを手渡す。
「ふーん、天罰だわ」
記事を読み終えた錦馬の感想は、俺と似ていた。
「日本国憲法の下において犯罪を起こしたら、そうそう法の網から逃れられるものじゃないわね」
いい気味だと言わんばかりに口の端を吊り上げた。
スマホを俺に返す。
「捕まったから、これで一安心ね」
「そうだな」
「連絡取るのに困るから、新しいスマホ買おうかなって思ったんだけど」
「買いたいなら買えばいいさ」
「買うの手伝ってよ」
「……なんで?」
スマホの購入に付き合わせるのは業務外だ。
訳を尋ねる俺に、錦馬は面倒そうに答える。
「スマホ買うのを手伝うだけじゃない。たいした仕事じゃないでしょ」
「私的な買い物に付き合うことはマネージャーの仕事じゃない。俺が付き添おうが、付き添わまいが自分で好きなものを選んで買えばいい」
「付き合い悪いわね、どうせ仕事の後は家で暇してるだけでしょ」
そう言って、不服顔で口を尖らせる。
錦馬の言を否定できないのが悔しい。
「それに、いつ何が起きるかわからないから、まだ少し怖いの」
若干、口調を弱くして呟いた。
ズルいよな。不安げな顔をすれば、俺が断りにくくなるのわかってんだろ、こいつ。
「わかったよ。買い物ぐらいなら付いていってやらんでもないが、時間があんまりにも遅いと俺はお前を置いて帰るからな」
「薄情ね、でもそれでいいわ」
言葉とは裏腹に、少しばかり嬉しそうに微笑む。
「あんたはなんだかんだで頼みを聞いてくれるものね」
「まあ、一応マネージャーだしな」
「一応じゃないわよ」
ムッとした声で錦馬は打ち消した。
「あんたは正式なあたしのマネージャーよ。この前直接に任命したじゃない」
そうだった。根津和毅の事件ばかり頭に残ってて、ロケ帰りの車内で正式にマネージャーとして認められたこと忘れてた。
「すまん、すまん。俺はもうれっきとしたお前のマネージャーだったな」
「そうよ。だから今まで以上にあんたに任せる仕事も多くなるから、覚悟しておきなさい」
いやはや、俺も随分と信用を得たものだ。
ダッシュボード上のデジタル時計を見遣る。小さな液晶画面は、九時半を映していた。
「そろそろ事務所に向かうぞ」
今日もこうして錦馬菜津のマネージャーとして、俺は働くことになる。
正式なマネージャーになってまだ一週間だけど、それなりの責任感を持ってやっていくつもりだ。
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