4-18

 錦馬は自宅のあるマンションに帰着した。

 天井の玄関灯の下でローヒールを脱ぎ、上り框に踵を揃えると廊下に上がった。

 壁付きのスイッチでリビングの照明を点灯させる。

 ボストンバッグをフローリングの床に置くなり、窓のカーテンを閉めに他の部屋を行き来した。

 再びリビングに戻ると、一人掛けソファに疲れた身体を沈め、顔を両手で覆う。


「いつからあたし、あいつの事信頼するようになったんだろ」


 帰宅後の第一声にしては、不本意そうな呟きだ。

 男のマネージャーなんてろくでもない、と思ってたはずなのに。

 三日間の撮影期間中の浅葱との恥ずかしい対面が、俄かに思い出される。

 錦馬は大きく嘆息した。

 私を護れ、なんてどうして言ったんだろ。しかもそんな面倒な頼み事を、事情が事情とはいえあっさり引き受けられるあいつも大したもんよ。


「ほんとに大したもんよ……」


 今まで出会った男とは決定的に何かが違う。この二か月でその直感は、錦馬の中で徐々に膨らんでいった。

 下心の全く窺えない男性マネージャー。でも性に全く関心がないとも思えない。


「不思議な男ね」


 錦馬は恥ずかしい思いから変わって、ちょっとした思索に入った。

 あいつ、あたしのこと実際どう見てるんだろ。

 グラビアアイドルとして自分の身体にはそれなりに自負がある。なんとも思ってないなら、それはそれで悔しい。


「どうしたんだろ、あたし。あいつに異性として興味持ってもらいたいなんて、あるはずないのに」


 小声で独り言を漏らし、雑念を振り払うように首を左右に揺すった。

 錦馬は努めて別の事を考えることにした。

 ああ、ボストンバックの中身取り出さないと。

 思索を打ち切ってソファから立ち上がり、フローリングの上に放り出したボストンバッグの前に屈みこむ。

 中から衣服やら水着やらホテル滞在に必要になった物などを仕分ける。

 ボストンバッグの中身のほとんどを取り出して、錦馬はある物が見当たらないことに気が付く。


「スマホ、どこに入れたっけ」

 バッグの中に入れた覚えは――ない。常日頃は手提げ鞄に仕舞っておくのだが、手提げ鞄は持って行ってないから――。

 そういえば、ズボンの後ろポケットに入れたわ。

 記憶を思い返して、ズボンの後ろポケットに手で触れた。

 無い。

 錦馬は言葉を失くして焦った。

 


 俺は住んでいるアパートに帰り着くと、駐車場で車から降り後部席の荷物を肩に抱え上げた。

 荷物の死角になっていたのか、座席の下に四角い物体がマット上に落ちているのが、薄暗闇でぼんやりと認識できた。

 屈んで手に取り詳しく見てみると、ライムグリーンのゴム製カバーを付けたスマホだと分かる。

 見覚えがない以上俺のではないのは明白だ。では誰のだ?

 最近で俺の車に乗ったことのある人物は、錦馬と西条の二人。しかし西条はロケ地に行く時だけしか乗っておらず、撮影期間中にスマホを失くしたという情報は聞いていないし、失くしていたら俺の車に捜索の手が伸びるはずだ。

 可能性のある人物を絞ると、錦馬しか該当しなくなる。ということは落ちていたスマホは錦馬の物という結論に達する。

 持ち主はほぼ断定できた。家まで帰ってきて億劫だが、錦馬もスマホが無いのは何かと不便だろうから、今から届けてやろう。

 一度部屋まで行って戻ってくるのも面倒で、荷物を車内に戻して運転席に再度乗り込んだ。拾ったスマホを自身のスマホの反対のポケットに入れる。


「でも、なんで落ちてたんだ」


 錦馬がスマホを落とした理由を考えながら、俺は来た道を引き返した。



 錦馬はしばらくパニックに陥った後、ようやく正常に頭が働き始めた。

 冷静になって記憶を辿ると、スマホをどこで紛失したのか簡単に見当がついた。


 浅葱の車の中だ。きっと急ブレーキした時にポケットから落ちたんだわ。

 ついでに原因まで思い至る。


 浅葱が気が付いていれば幸いなのだが、気が付いていなければ生活に支障をきたすほどの不便を被る。

 どうやって浅葱に車内に落としたスマホの存在を知らせようか。

 妙案はないかと頭を捻ったが、生憎と浅葱と連絡を取れるのは落としてしまったスマホのみだ。


「気付いてくれるかしら」


 錦馬は浅葱の落とし物発見を願う他ない。

 そんな途方に暮れる錦馬の耳に、インターホンの音が聞こえる。

 仕事が早いじゃない、と常套となった偉そうな口ぶりで評するが、裏腹に足取りはいそいそとして玄関へ急ぐ。

 ドアを開けるなり、いかにも普段の接し方に戻して尊大ぶって言う。


「スマホ落としたの、誰のせいだと思ってるの……よ?」


 錦馬は気付く。

 目の前に立っている人物が浅葱ではない。

 季節外れのニット帽と眼鏡とマスクを着用した、長身で痩せ気味の見知らない男性だ。


「あなた、誰?」


 そう誰何した錦馬に、男性は無言で玄関に踏み出す。

 錦馬は無遠慮に近づかれて、片足を引いて反射的にのけ反った。


「誰なの?」


 男性は錦馬からの問いになんら答えず、唐突に片手を素早く突き出した。


「ん……!」


 突き出された手が瞬時に錦馬の口を塞いだ。

 男性はさらに錦馬の方へ踏み込んでくる。

 錦馬は驚愕に打たれて状況を理解する暇もなく、男性の身体に押される形で沓脱に尻餅をついた。


「ふふふふ」


 愉悦に浸っているような不気味な笑い声が、男性のマスクの内側から漏れる。

 瞬間、錦馬は背筋を震わせた。

 本能的な恐怖で身体が金縛りにかかったように動かず、ただ茫然と男性を眺める。

 男性は後ろ手にドアを閉めると、肉欲と恨みの混じった視線で錦馬を見下ろす。仰々しい手つきでマスクと眼鏡を外す。


「一年前の続きだ、菜津ちゃん」


 強姦されかかった暗闇の記憶にある顔と、目の前の男性の顔が一致する。


「あんた確か……っ」


 錦馬が恐ろしげに身体を震わせながら男性の名を口にしようとすると、男性の手に強引に塞がれた。


「今の俺は根津だ。根津和毅だ」

  

 根津は下卑て笑みで顔を歪ませ、息遣いを肌で感じ取れるほどに、怯え切った錦馬の顔に近づける。

 上り框を跨ぎ超えた廊下のフローリングの上に錦馬を押し倒し、抵抗する錦馬に覆いかぶさった。片手をズボンのバックルにかける。


「やめて……」


 錦馬の口から漏れ出たのは、今朝見た夢と同じ拒絶の言葉。

 助けて、浅葱。夢からは助けてくれたじゃない、あたしを護ってくれるって言ったじゃない。

 危機に瀕する錦馬の頭には、護ると約束してくれた浅葱の顔が鮮明に映った。

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