2-2

 撮影班がスタジオを退出した後、錦馬に召し使われて彼女を乗せて駅まで車を駆ることになった。

 夕暮れに染まる街中を会話もなく走る。

 そういった無言空間には仕事の度に身を置くので慣れた。

 通勤ラッシュの時間帯なのか幹線道路は種々雑多な走行車が、整然とした車列を成している。

 赤点灯を示す信号を見て、前のタクシーに続いて停まった。

 錦馬が背後で身じろぎしたのか、衣擦れが聞こえる。


「ねえ」


 スタジオで言葉を交わした以来に錦馬は声を発した。


「なんだ」

「あんた、この後予定ある?」

「別にないが、俺に用でもあるのか」


 俺はちらと錦馬を窺う。

 彼女は質問には答えず、バッグからスマホを取り出していじり始めた。


「あんたって嫌いな食べ物ある?」

「なんだよ急に」

「いいから、答えて」

「ないが、それがなんだっていうんだ」


 錦馬の発問の意図がわからない。

 彼女はまたスマホの画面を触るのに、注意を向ける。

 信号が青に変わったので、問いの意図が気になったまま運転に意識を傾けた。


「進路変更」


 前触れもなく錦馬が口にした。

 反応するのが億劫なので、聞こえなかったふりをすることにしよう。


「進路変更だって言ったでしょ!」


 近距離だというのに、錦馬は声量を考えずに怒鳴った。

 こちとら運転中だ。声量を慎みたまえ。


「なんだ?」


 俺にしては珍しく苛立ちを露骨に出して訊いた。


「進路変更。近くのファミレス」


 不遜な口ぶりで言い付けてくる。


「近くのファミレスって、具体的にどこだ」

「ここ」


 シートの横からスマホを持つ腕が伸びてきて、俺は画面を見る。

 指定先は俺も利用したことのあるチェーン経営のファミレスだ。


「わかったら、ここに行ってくれる?」


 言い付けに従うのが当然みたいになってきているのが、納得いかん。

 だが首を切られる危惧も考慮して、従ってしまうんだよ。これが。

 次の四つ辻で車を転進させた。



 ファミレスの存外に広い駐車場に車を停めると、俺がエンジンを切るのも待たずに錦馬は車を出て店に入っていった。

 待つことのできん奴だな、とつくづくの所見を抱きながら、ドアのロックを忘れずにしてから車を離れる。

 車のキーをズボンのポケットに突っ込みながら、店の自動ドアを潜った。

 ファミレス店内に視線を巡らして、錦馬を探す。

 錦馬は隅の四人席テーブルの座を一つ占めていた。

 彼女のいるテーブルに近づくと、向かいの席に見慣れない男女が座っている。

 男女は錦馬から俺の方に首を転じた。


「こんばんは」


 男女の女性の方が先んじて挨拶と一緒に頭を下げた。

 女性というより正確には少女と言うべきだろう、肩のラインで切り揃えた黒髪と端正で闇のなさそうな容貌が相まって清楚な雰囲気を醸し出している。


「野上優香です」

「浅葱光人です。こいつの仮のマネージャーしてます」

「なっちゃんの新しいマネージャーさん、浅葱さんって言うんですか。苦労が絶えないでしょうけど、頑張ってくださいね」


 初対面の男をいきなり励ますとは、この子はどういう優しい性格してんだ。

 俺が言葉を返せないでいると、野山は笑顔で片手を差し出してきた。


「お会いできて嬉しいです」


 なるほど、握手か。彼女の手を汚してしまわぬよう、念のためにズボンで手のひらを拭ってから手を握り返す。


「優香のお友達がまた一人増えたのう」


 野上の隣に座っている老人があたかも老人のような口調で言葉を発した。


「あっ、紹介忘れてました」


 野山は握手する手を離して、隣の老人に向ける。


「私のお祖父ちゃん」

「どうも、飯山源次郎じゃ。浅葱くん今後ともよろしくお願いしますの」

「はあ、よろしくお願いします」


 俺は飯山さんの貫禄に言い様もなく圧倒される。小柄で顔には皺が点在して年相応、頭髪も余すところなく白くなってしまっているが、一般的な老人とは明らかに違うきりっとした生き馬の目を抜く眼差しが俺を見据えている。


「お互いマネージャー同士、勤しみましょうの」

「飯山さんは、野山さんのマネージャーなんですか?」

「そうじゃよ。わしのような老人にはマネージャー業など似合わんじゃろ」


 俺は失礼を承知で正直に頷いた。


「それが普通の反応じゃ。現にわしよりも年取ったマネージャーは業界に一人としていないからの」

「では芸能マネージャー最年長、ということですか」

「必然、そうなるの」


 新米マネージャーの俺は、この方をもっと敬うべきなんだろう。けっして非礼のないよう振る舞わなければ。


「立って話すのもあれだ。ささ、君も座りなさい」


 飯山さんに促されるまま、俺は錦馬の隣の席に腰を落ち着ける。

 例のごとく錦馬は俺と席の間隔を離した。なんかもう慣れてきた。


「それで優香、用でもあるわけ?」


 錦馬が会話の口火を切った。

 野山は申し訳ない顔をして両手を合わせる。


「ごめん、なっちゃん。本当に用があるのはマネージャー浅葱さんの方なんだ」

「ふーん、でその用って?」

「顔見知りになろうと思っただけで他意はないよ」

「こんな奴と顔見知りになったところで、何もいい事ないわよ」

「でもなっちゃんは前から、もうマネージャーはいらない、って言ってたでしょ。それで事務所でたまたまなっちゃんが男の人を連れているのを見たから、どういう人なのかなって気になったの」

「わしも気になっとった。優香からなっちゃんが男の人と一緒だよ、と聞かされての。マネージャー無用説を標榜しとったからの」


 俺の素性に興味津々の二人に、錦馬はむっとした表情で答える。


「言っておくけど、あたしが好きでxこいつにマネージャーしてもらってるんじゃないの。社長から押し付けられた感じで、マネージャーをさせてあげてるの」


 なんだその、俺が嫌々の言い分は。


「なっちゃん、そんな言い方すると新しいマネージャーに嫌われるよ。仲が良ければ、それだけでグラビアの仕事も楽しくなるのに」


 野上が心配げに錦馬に忠告した。


「あたしは慣れ合いしたくてグラドルしてるんじゃないの」

「私は慣れ合いしてなんて言ってないよ」


 錦馬に反論し、俺の方をちらりと見て続ける。


「浅葱さんはとても良い人そうだから、素のなっちゃんを受け入れてくれてるはずだよ」


 俺、今褒められたのか。底抜けに優しい子だな、野上優香は。こんな子のマネージャーだったら俺も苦労がなくて助かるんだけどなあ。

 野上の助言に、錦馬は言い返す言葉がないらしく、無言でじっと野上を見返していた。

 通例どおりのやり取りなら、錦馬は俺の評価に仮借ない訂正を加えるはずなのだが、今回は黙っているから、逆に違和を覚えてしまう。

 静寂は居心地が悪かったのか、野上が表情を明るくして飯山さんの肩を叩いた。

 飯山さんは孫娘に頷いて、俺の方に少しだけ身を乗り出す。

「浅葱くん。私と優香から錦馬くんに仕事を頼みたいのだが、聞いてくれるだろうかの」

 突然に話題を転じて、仕事を頼まれることになった。急すぎるだろ。

 飯山さんは乗り出していた身を背もたれに戻す。隣の野上が小さく笑んで口を開いた。

「実は錦馬さんと私二人で――」

「コンビでグラビアを撮りたい、でしょ?」


 錦馬が先んじて後続の台詞を口に出した。

 野上は舌を巻いた様子で驚きの目を錦馬に向けた。


「すごい。どうしてわかったの」

「どうしてって、あたしじゃなく仮だけどマネージャーのこいつに話を切り出した時点で仕事関連だと推定できるし、優香と二人一緒とここまで情報が明らかになっていれば、おのずと答えは割り出せるから」と得意満面で言った。


 思考が早押しクイズに似ている。これで広範な知識も持ち合わせていたら、グラビアアイドル界のクイズ王だな。


「二人でグラビアかあ。そういえばまだコンビを組んで撮ったことないわね」

「一緒にやろう、なっちゃん」

「いいわよ。でもコンビを撮るなんて誰が言い出したの?」

「加山さん。知ってるよね」

「あの人ね」


 錦馬はすぐに合点がいったようだ。業界素人の俺は加山なる人物の顔すら思い浮かべられない。


「どういう人なんだ、その加山さんって?」

「奇矯なグラビアのカメラマンよ。二十四歳以下の若い女性しか撮らないの」


 三人の誰にともなく尋ねると、錦馬が答える。

 二十四歳以下ということはアラサーより上は撮影対象外。どういう信念の持ち主なんだそいつは。


「あの男は凄くこだわるからの。撮影が長くなりそうじゃわい」


 飯山さんが面倒そうに言った。


「長いってどれくらい?」

「ビーチでの撮影となると、打ち合わせ含めて午前九時から午後五時まで。それを現地で宿を取って、三日くらいかのう」

「長っ! 二泊三日の海浜旅行じゃないですか」


 海のある街で二泊もすれば旅行として成り立っていると思うのは、多分俺だけじゃないだろう。

 その時、男性ウエイターが俺達の座る席にメモを手に近づいてくる。


「ご注文は?」

「お祖父ちゃん、何か食べる?」


 すぐに野上が祖父に尋ねる。


「丁度夕飯時じゃしな、わしは日替わりセットでも頼もうかの」

「AかB、どっちにする?」

「わしはどちらでもええから、優香が好きな方選んでくれ」

「それじゃ、AとB両方頼んで分け合おうよ」

「ん、それがええ」


 目の前の祖父と孫娘の歓談は、実に微笑ましい。

 野上はウエイターにひとまずの注文を告げると、俺と錦馬に何か頼むの? という視線を向けてくる。


「あたし、ナポリタン」


 訊かれる前から決めていたらしく、錦馬は早々とファミレス定番料理の名を口にした。

 注文のことなどまるで考えていなかった俺は、今らか決めるのも面倒だったので日替わり定食Aを頼むことにした。

 注文を聞き終えて立ち去っていくウエイターをぼんやり眺めていると、話題が仕事のことだったのが切り替わって、突然俺の身の上に関する話になる。


「浅葱さん、彼女とかいますか?」


 野上は遠慮する気色もなく訊いてくる。

 今日初めて会った男に訊く質問とは思えん。


「いないけど」

「へえ、私も今そういう関係の人はいません。そもそも男の人と付き合ったこと一回しかありません」

「そんなプライベートな事言っていいのか」

「心配ないですよ。付き合ってた人の名前は明かしてませんから、誰かに特定されることはありません」


 個人特定の危険性じゃなくて、君の羞恥を慮ったんだがな。

 恋愛話は気が引ける俺とは逆に、錦馬が身を半ば乗り出している。


「それって、いつの時なの?」

「中学二年かな。私の胸はまだこんなに大きくない頃」


 笑いを取るつもりで言ったのか知らないが、悪気はなくても目が彼女の胸元に向いてしまう。服越しだが確かな膨らみを認識できる、計算されたような絶妙な大きさの双丘だ。


「三年生になってから急激に成長したんだ」


 恥じらいなく平然と語る。

 成長過程までも目に浮かびそうで、清純そうな美少女の口からお胸の話は聞きたくない。


「下世話な話はやめんか優香。他の客もおるのだぞ」

「ごめん、お祖父ちゃん。久しぶりに同世代の友達の前だから、つい楽しくなっちゃって」

「女性は皆が淑女であるべきじゃ。言動は慎まないといかん」

「そうだね、わかったお祖父ちゃん」


 マネージャーでもある実祖父の忠言に、野上は力強く頷いた。本当に仲のいい事だ。

 会話が途切れるのを見計らったように、ウエイターが皿を載せたトレイを運んでくる。

 トレイからナポリタンの皿を置くと、一礼して歩き去った。日替わりセットはナポリタンより調うのに時間を要するんだな。

 錦馬はテーブルの中央に置かれたナポリタンの皿を引き寄せる。


「ねえ」


 垂涎の目でナポリタンを見ながら、野上が錦馬に顔を近づける。

「半分ちょうだい。見たら食べたくなっちゃった」

「あたしから半分もらって、セットも一人前食べるの?」

「ダメかな」

「あなたグラビアアイドルでしょう。余分に食べた分だけ太るのよ、目も当てられない姿になったら廃業問題よ」

「大袈裟だよ。今日一日多く食べたって、ほとんど太らないよ。それに撮影の数日前から夕食を抜けば、すぐに体重戻るから」

「ランニングと筋トレは続けてるわよね?」

「もちろん。なっちゃんが誘ってくれて以来定期的に」

「そう、よかった。ならご褒美にナポリタン半分あげるわ。もともと半分残すつもりだったし」

「ありがと、なっちゃん」


 野上は喜色満面で相好を崩した。

 雰囲気はかなり違っているが錦馬と野上は和気藹々としている。きっと親友と呼べる間柄なのだろうな。

 その後少しして日替わり定食も運ばれてきて、四人でよもやま話を語らった。ファミレスで野上と飯山さんと別れて、錦馬を駅に送り届け、マンションに帰り着いたのは午後九時を超えていた。

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