自分の気持ちに気づいた時に相手は別の人と結婚を決めてしまった話

satou

第1話

こいつはきっと俺のことが嫌いだ。




コウに対する第一印象は、彼の性格だとかそんなものではなく、そんな漠然とした予感から始まった。




俺は20歳、コウは17歳だった。俺たちの出会いは偶然だったが、必然でもあった。




その頃のコウはちょうど高校2年生で、進路に悩んでいた。実際はすでに父親が勝手に決めた進学先があったのだが、だからこそコウは悩んでいた。


医者か政治家になれ、というのが父親の口癖だったらしい。だがコウには、どちらの姿の自分も想像できずにいた。父親の敷く人生のレールを走るのにも、疲れてきていたのかもしれない。




ある日の進路相談だった。




「遠くに行きたいんです」




いつもは担任の言うことを素直に聞き、父親の意見を自分の意見として告げていたコウは、ぽろりと漏らしてしまったそうだ。


それを聞いた担任は少し驚いた顔をした。




「遠くの医学部がいいのか?」




コウの今までの進路希望が書かれた紙束をパラパラめくって、担任は言った。




「あ…いや…そういうわけでは…」




コウは自分から漏れ出た言葉に戸惑っていたが、担任の目の輝きは増していった。




「そうか?いや、お前は実家から通えるのがいいって最初に言ってたから候補に挙げてなかったけど、遠くでもいいなら、お勧めの大学があるんだよ」




本当ならここで否定すべきだった。だけどなぜか、その時のコウは押し黙って担任の言葉を待った。




「今一人だけ、卒業生がそこに通っているんだ。なんせとてつもない難関校だから、この学校からその大学に行ったのは彼が第一号だ。お前も行ってくれれば、二人目。学校としても嬉しい」




実はそいつも俺が担任したんだ、と教師は続けて自慢したらしい。




「見学の時期じゃないけど、もしかしたらそいつが学校を案内してくれるかもしれない。お前は可愛い後輩だし、大学はもう夏休みに入ってるからな。どうする?興味があるなら、そいつに連絡して日取りを調整するぞ」




二度目の拒絶のタイミング。言うべき言葉は決まっていた。


父親が候補として決めている大学がいくつかあるので、結構です。


コウは口を開いた。




「ぜひ、お願いします」




そうしてこいつは、高校2年の夏休みに、俺の大学にやってきた。


大学は担任が言った通りすでに夏休みに入っていたので、人も少なく静かで見学には向いていた。


だが俺は最悪な気分だった。


ただ同じ学校で、同じ担任だったというだけで、会ったこともない年下の餓鬼を「可愛い後輩」と思えるほど俺はできた人間じゃない。


俺がこの大学を選んだのは、高校の同級生だとかが追い付けないほどレベルが高く、物理的にも遠くにあったからだ。


ただそれだけ。


それだけが、ある意味「遠くに行きたい」というコウの願いと同じだったが、しょせん偶然でしかない。




コウは生真面目にも、高校の制服を着てやってきた。グレーのブレザーに赤いネクタイ。それほど格好のいい制服ではなかったはずだが、コウが着ると、高級感のあるスーツにも見えるのが妙だった。




「祐介さんですか?」




大学の正門前に立つ俺に、コウは人懐っこい笑みを浮かべて声をかけた。


違います、と言って知らないふりをしてやろうか。一瞬、絶対に実行できないのにそういう考えが浮かぶのが俺の悪癖だ。だが俺の脳内だけで浮かぶ妄想なので、誰も気づきやしない。




「ああ、こんにちは。俺が春麿だ。コウくんだったかな?ここまでくるの、遠くて疲れただろ」




俺はコウと同じような柔らかい笑みを作ってみせた。取ってつけたような気遣いの言葉。誰もそれが、全部嘘だなんて気づかない。こいつもそうだろう。そう思っていた。




コウは、俺の笑みを見て、かすかに怪訝そうな顔をした。


薄い唇が、何か言おうとして一度開いたが、きゅっと引き結ばれる。




それはあまりに一瞬の動揺で、俺でなければ気づかなかっただろう。




「見学するの、とっても楽しみだったんです。疲れたりしませんよ」




俺が何か言うより早く、コウはすでに、新しい微笑みを唇に乗せていた。


その綺麗すぎる笑みを見つめて、俺が思ったことは一つだった。




こいつはきっと俺のことが嫌いだ。




俺の予感は、ほとんど断定だった。


こいつは誰も気づいたことがない、俺の作り笑いにも、心のこもらない気遣いにも気づいている。そしてこいつは、それに対して沸き上がった自然な嫌悪感を、仮面の微笑みで取り繕うとしている。


こいつは俺と全く逆だが、ある意味では同じだ。


恐らくこいつも、俺と理由や目的は違えど、この如何にも無害そうな顔で、多くの人間に本音を隠して生きてきたに違いない。




だからよくわかった。




俺もこいつが嫌いになるだろうと。




コウが俺に手を差し伸べた。それは女のように白くて、長い指が5本揃っていた。




「あらためて、コウと言います。よろしくお願いしますね、祐介センパイ」









高校3年になって、コウは正式に俺と同じ大学への進学を決めた。




父親を説得するのに半年近くかかったらしい。酷いときは、勘当を持ち出されたそうだ。だがコウは折れなかった。


そこまでする価値のある大学とは思えないので、俺は内心で、こいつも勉強はできるが馬鹿なタイプの人間だと嗤っていた。そういう人間は世の中に大勢いる。特に金持ちや善人に多い。金銭的にも気持ちにも余裕があるので、自分の愚かさに気づく機会がないのだ。コウはどちらにも当てはまる。




進学に父親の許可が下りたことを、コウはわざわざ俺に直接言いに来た。


ある日、大学の正門を通って帰ろうとしたら、初めて会った時と同じ場所に、あの日と同じ制服姿のコウが立っていた。大学生数人がコウに話しかけていた。サークルの勧誘を受けているようだった。


俺が気付かないふりで通り過ぎようとすると、周りに聞こえる声でコウは俺の名を呼んだ。




「祐介さん!」




コウはわざわざ取り巻きに、いろいろありがとうございました、と丁寧にお辞儀をして、俺のほうに駆けてきた。


辺りにはまだ人が多かったので、仕方なく俺は立ち止った。




「やあ、コウ。久しぶりだ。学校は休みか?」


「高校の創立記念日ですよ。祐介さん、忘れちゃったんですか?」


「高校なんて、大学生のおっさんにはもう遠い過去のことだからな」




周囲の人間には、ちょっと年の離れた先輩後輩がじゃれているように見えただろう。


コウだけが俺の言葉に含まれる微かな毒を理解していた。


だがやはりコウは知らないふりをする。初めて会ったときのような動揺さえ見せない。




「たかだか数年じゃないですか。そのくらいで大人ぶられてもなあ」




この返しは、少し意外だった。怒り…まではいかないが、珍しくコウの本当の感情が覗けた瞬間だった。


コウは相変わらず微笑んでいて、俺が足を進めると勝手についてきた。




「ここまで来るのに、今回は飛行機使ったんですよ。やっぱり新幹線より楽だなあ。でも、搭乗手続きとかは少し面倒ですね。祐介さんは、ご実家までどうやって帰ってます?」


「正月くらいしか帰らないけど、基本は新幹線かな。貧乏学生は、実家が立派なお坊ちゃまとは違って、金がないんでね」


「金がないなんて、嘘だあ。俺、知ってますよ。祐介さん、もう起業してるでしょ。前に‟天才大学生起業家”ってネットニュースで読みましたもん」




思わず舌打ちが洩れかけたのを、煙草を取り出すことで誤魔化した。大学からはすでに遠く離れている。一本、口にくわえて、火をつけた。




「お前、そんな話する為にわざわざクソ高い飛行機乗ってきたのか?」




顔に煙がかかっても、コウの整った顔は揺らがなかった。どこか不敵にさえ見えた。




「俺、来年は祐介さんと同じ大学ですよ」




俺が足を止めると、コウも立ち止まった。




「うざい父親はどうした」


「説得しました。色々あったけど…やっと許してくれました」


「初めての反抗期ってやつか」




俺が鼻で笑っても、コウの表情は揺らがない。




「そうですね」




しばらくお互い無言になった。先に口を開いたのはコウだった。




「俺、妹がいるんですよ」




唐突な告白の意図が読めず、コウが話すに任せるしかなかった。




「小学校の頃に、妹を虐める奴らを暴力で黙らせたんです。武道が趣味の父親に4歳くらいから武道を習ってたので、楽勝でした。でも俺はまず、とんでもないことしたって、すごく怖くなったんです。俺は、人を殴るのが嫌いでした。今も嫌いですけど…。とにかく、武道自体好きじゃなかった。それが好きな父親も理解できなかった。人を傷つけるって、心にしろ体にしろ、たとえどんな理由があっても、しちゃいけないって思ってるんです」




コウは俺の反応を確かめるようにちらっと視線を送ったが、俺が黙ってるのを見ると話し続けた。




「家に帰っても、俺の拳で鼻血を出して呻いてる子供の声が耳に残ってました。すごく嫌な気分で、死んでしまいたいって思うくらい。でも、それをかき消してくれたのは、妹の笑い声でした。‟お兄ちゃん、ありがとう”って」




コウが歩き始めると、おかしなことに俺の足も動いた。いつの間にか、追う側と追われる側が逆転していたが、その時の俺は気づかなかった。




「妹はいじめが本当につらかったんです。そして俺は、そこから妹を救ってやれた。大嫌いな暴力で、人を傷つけて…けどそのおかげで、一番大事なものは守れたんです」




コウが俺を振り向く。青い視線は、俺の心の奥深くまで抉るように鋭かった。




「妹のためとはいえ、俺のしたことはやはり間違いです。でも、同じ状況になったら、俺はやはり同じことをするでしょう。生きている以上、時に他人を傷つけないといけない。そうしなければいけない瞬間が、絶対にあるんです」




そこまで言うと、コウはようやくいつもの微笑みを浮かべた。




「今回の初めての父親への反抗も、俺にとっては同じ状況なんです。父屋の心を傷つけてしまったのは申し訳ないけど、俺はどうしてもそうしなきゃいけなかった」




俺は何度か煙草をふかしてから尋ねた。




「その御大層な理由は?」




コウはまた不可思議な表情を浮かべた。小奇麗な顔と相まって、その表情は、見る人に印象を託すモナリザにも似て見えた。




「いまは秘密です」




コウはそう言うと、続けて、お腹すきましたね、と笑った。









コウは晴れて大学生になった。


同じ大学とはいえ学年が違うのだから、会うこともそれほどないはずだと思っていた。ところがコウは、頻繁に俺のところにやってくるようになった。


大学も3年になるとほとんど卒論に打ち込む時期となり、煩わしい人づきあいもほとんどなくなる。すでに卒業の単位も足りている俺は教室に顔を出すこともなく、特別にあてがわれている個人の研究室で、自分の会社を成長させることに集中していた。


そこへコウはやってくる。


高校卒業と共に制服も卒業したコウは、時にとてつもなくラフなパーカーで、時に高級なスーツを纏ってやってくる。


いまコウは、モデルをしながら大学に通っている。


こちらに来て間もなく、道をただぶらぶらしていただけのコウは、芸能プロダクションのスカウトを受けた。


スカウトマンの熱意に押されてほとんど強引にその世界へ引っ張りこまれたコウは、はじめこそ気乗りしていないようだったが、今は割と楽しんでいるようだ。




「写真に写る姿と、自分が思ってた自分の姿が違うんですよ」




だからなんだ、とその時は言ったが、楽しそうなコウの気持ちはわからなくもなかった。


自分ではない自分。そんなものがいたら、どれだけいいだろう。


そいつはきっと、俺とは違ってコウのような性格かもしれない。心底善人だが、人間臭い闇も持っている。どろどろした暗闇しか抱えていない俺とは、大違いに違いない。そいつが「俺」をしてくれたら、俺はこの世から消えてもいいんだ。




その日も勝手に研究室にやってきたコウは、友達からもらったというチケットをプラプラさせていた。




「祐介さん、遊園地に行きましょう」


「却下」




俺は辛らつに答えた。


付き合いが3年にも渡ると、お互いに遠慮もなくなる。しかも、ここには俺とコウの二人しかおらず、誰に取り繕う必要もない。


コウは子供のように少しだけ頬を膨らませたが、すぐに俺の腕を取った。




「どうせ暇なんでしょう?さっきからパソコンでページ移動してないじゃないですか。行きましょ」


「ちょ、引っ張るな!」




武道をしてきた為か、コウは見かけより力が強い。それに、初めて会った時には思いもしないような、いろいろな表情を持っている。


俺の足が、ガンっと机にぶつかろうと、コウは気にしない。




「お前な…他のやつにもこんな強引なのか?嫌われるぞ。特に女に」


「何言ってるんですか。こんなこと、祐介さんにしかできませんよ」




それはどういう意味だ。俺が睨み上げても、コウは軽く肩をすくめるだけだ。




「さ、行きますよ。人のたくさんいる、遊園地に」






遊園地に来たというのに、コウはほとんど乗り物に乗ろうとしなかった。チケット指定の遊園地は、たくさんのジェットコースターが揃っていることで有名だというのに。




「そもそも俺、ジェットコースター嫌いなんですよね」




思わず俺は、コウの肩をド突いた。コウは、痛いな~と、全く痛くなさそうに言った。


空を見上げると、巨獣のはらわたにも似たレールがそこかしこにあった。俺も特別ジェットコースターに興味もないので、男二人でただ歩き続けた。




昼間の日差しが斜陽になる頃、コウは遠くを指さした。




「あ、祐介さん。あれ乗りましょう」




コウの指の先に会ったのは、巨大な観覧車だった。


一人で乗ってこい、と言ってもまた腕を引かれるのがオチだ。俺はしぶしぶ、係員にチケットを渡すコウの背を追った。




観覧車は見上げるほど巨体だが、二人で入った籠は思ったより小さかった。男二人で向かい合って座ると、ほとんど膝が触れ合ってしまう。


コウは外の景色を眺めず、俺だけを見ていた。




「祐介さんは、なんで自分で起業したんですか?」




このシチュエーションでわざわざ聞くことだろうか。俺は半ばうんざりしておざなりに答えた。




「前も言ったろ。他人の下で働くのが億劫だからだよ」




コウは組んだ足の膝に肘をつき、その手に顎を乗せた。少し前のめりになったせいで、距離がさらに縮まる。




「祐介さん、人、嫌いですもんね」


「お前にだって嫌いな人間がいるだろ」




俺が意地悪く問うと、コウはほくそ笑んだ。




「嫌いな人、いますよ。ほとんど唯一と言っていい人が。だからこそ、目が離せないんです」


「唯一か」


「ええ、特別と言い換えてもいいです」




コウの吐息が頬に触れるのを感じた。それほど俺とコウの距離は近かった。きっとコウも、俺のどことなく熱っぽい呼吸を感じているに違いない。




「お前のような聖人に嫌われるような屑が、特別でいいのか?」




コウはじっと俺の目を見ていた。そのせいで俺は目をそらせなかった。


それからコウは、観覧車が地上に降りるまで何も言わなかった。


俺の問いは答えを得られないまま、小さな籠に残された。









時間というのは気づいたら過ぎ去っている。


大学時代に起業した会社は軌道に乗り、俺は自宅兼事務所でひとり仕事をこなす日々だった。


俺の卒業と共に、コウのやってくる研究室もなくなった。そのせいもあって、コウとは付かず離れずの状況だった。


たまにコウがなんてことない近況のLINEを送ってくるが、それ以上に早くコウを知る機会は、今やネットニュースにあった。


コウはモデルとして成功していた。俺たちがなかなか会えない理由の一端でもある。


単なる政治への足掛かりとして、コウのモデルとしての仕事を許した父親はどんな気持ちでいるのだろう。


その日も俺は、情報収集と称してだらだらとネットサーフィンをしていた。


ふいに、一つのタイトルで目がとまる。




人気モデルKOU、結婚間近?!お相手は!?




マウスのカーソルが小刻みに揺れるのを見て、自分の手が震えていると気づいた。


今度は、俺のスマホが胸ポケットで震えた。取り出してみると、コウからのLINEだった。




(明日、会えませんか?)




俺は短い文面を何度も読んだ。単なる近況報告ではないその要件。場所は俺の近所の公園だった。


思えば、コウから呼び出されるのは初めてだ。いつもコウが俺のところにやってきていた。


俺はしばらく通知画面を眺め、返事をするために画面をタップした。







「来てくれないかと思いました」




開口一番、コウはそう言った。それもそうだろう。俺は「行かない」と返事をしたのだ。


だがコウは指定した公園に来ていたし、コウがそうするだろうと俺にもわかっていた。


だから俺はやってきた。


コウはブランド物のスーツを嫌味なく着こなしていた。あの日の制服と同じくらいよく似合っていた。




「結婚することにしました」




コウはいつも直球でものを言う。




「本当は、あなたとしたかったのかもしれません」




あの記事を目にしてから、煮えたぎるようだった胸の痛みが、それを聞いた瞬間にぞっとするほど冷え込んだ。


コウはブランコに座り、微かにこぎ始めた。俺は馬鹿みたいに突っ立っているしかなかった。




「初めてあなたに会ったとき、きっとこの人は、俺が嫌いだろうなって思ったんです。あなたは笑っていたけど、あなたの目がそう言っていた。だけど、その目はどこか、とても寂しそうだった。そうやって、世間に取り繕って生きているあなたのことが気になりました。あなたみたいな人には、初めて会ったから。同じ大学に行けば、もっとあなたのことが知れると思いました」




いまは秘密です、と微笑んだコウの顔が浮かんだ。何年も引っ張って、そんなくだらない理由だったとは。父親を傷つけてでも、あの大学に行こうとした理由が、俺だったなんて。




「あなたのことを知れば知るほど、俺もあなたが嫌いになりました。それも初めてだった。だって普通、その人を知れば知るほど、悪い面だけじゃなく、良い面も見つかるはずなんです。だけどあなたは、どこまでも空虚だった。その空っぽの部分のほか、あなたは黒い感情だけを抱えていて、俺はそれが嫌だった。なんとか、取り除いてやりたいって思ったんです。ずっと一緒にいて、それを手放させてやれたらって…」


「それなのに、他の人間と結婚するのか?」




俺は自分の口から出た声が信じられなかった。それは震えて、怒り以上の憎しみを湛えて、ひどく醜かった。だが、そんな醜悪なものを浴びせられても、コウは相変わらず静かな目をしていた。




「観覧車で、祐介さん、俺のこと聖人って呼びましたよね」




コウはブランコから立ちあがった。さび付いた鎖が、キイキイと小さく叫んでいる。




「俺があなたを知るように、あなたは俺の暗い部分も知ってる。俺が場合によっては暴力をふるう男であると知ってるのに、あなたは俺を聖人と呼んだ。特別だとそれとなく告げたら、本当に嬉しそうに笑った。…気づきませんでした?自分で。まあいいや…とにかく俺は、そこで、あなたのそばにいちゃいけないって思ったんです。あなたは俺を、自分の空っぽの部分に入れたい‟特別”だと思っている。俺があなたを特別だと感じていたように」




コウが俺に歩み寄り、目前に立った。青い目の奥が揺れている。




「でも祐介さんの空っぽの部分に俺が入ったら、それはもう祐介さんじゃない」




コウの顔に、声に、初めて苦し気な色が滲んだ。


それを見ながら、俺は、もはや遠い過去に感じるあの日、コウから聞いた話を思い出していた。


コウの妹の話だ。




(生きている以上、時に他人を傷つけないといけない。そうしなければいけない瞬間が、絶対にあるんです)




コウは、自分が離れていくことで俺が傷つくとわかっていた。だけど、そうせざるを得なかったのだ。コウは俺を生かすためなら、四肢をもぎ取れる人間だった。


俺は愕然として、膝から崩れ落ちそうだった。


コウは結局、どうしようもなく優しく、それゆえに残酷な人間なのだ。




「今日、あなたを呼んだのは」




「あなたに祝ってほしかったからです。俺の結婚を、心の底から、あなた自身の感情で」




「祝ってくれませんか?」




コウが俺に手を差し伸べた。それは女のように白くて、長い指が5本揃っていた。




俺は、ゆっくり口を開いた。

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