第三章 三途

寒い。

濡れた体に、冷たい潮風に当てられ、クソほど寒い。

蓄積した疲弊も相俟って、頭を上げるのもやっとなくらい眠い。

おまけに濃密な霧がかかって視界も悪い。

このまま死ぬのか…?

ゴトン

横腹に小さな衝撃を感じた。

俺にぴったりとくっついていた少女の頭が、項垂れたようだ。

…寝息を立てているようだ。

「おい…、俺より先に寝てんじゃ無え…。」

俺の掠れ声に反応した少女が「ごめん」と、こちらも掠れた声で返した。

俺は啖呵を切って、この子に着いてきたんだ。

ここであっけなく朽ちるなんて、たまったもんじゃない。

だが…あまりにも寒い。

湧き出た決意や情熱は、すべて搔き消され、無に帰す。

そんな熱い感情よりも大きな、心のもっと奥底から出ずる、此処の空気よりもずっと冷たい感覚。

そういう大きな怪物に引き摺られ、飲み込まれるようだ。

「ねぇ…大丈夫?」

少女は小さな声で俺に聞いた。

「…大丈夫な訳無いだろ。」

と言ったつもりだが、実際に出た声は、言葉にならない呻き声だった。

それから、何度も心の中で同じ言葉が反響した。

あの水平線も、俺の心も空虚だ。

何もありやしない。

というかこれ、進んでるのか?それすらも疑わしい。

空虚な体からは何も出ない。

からの嗚咽が響いた。

これでもう3回目だ。

死ぬほど気分が悪い。

…体を揺らす波が恨めしい。

「ねえ、何か見えない…?」

「何かってなんだよ…。」

「………島?」

「あ?」

まるで青天の霹靂。

俺は身を乗り出して、前方を確認しようとした。

だが、まともに見れたもんじゃない。

霧と眠気で視界は霞む、額からはべたつく汗が絶え間なく流れ、呼吸の仕方も忘れてしまったかのように喘いでいた。

体はとっくに限界を迎えていたようだ。

諦めた。

不確定な事実だが、もうそいつに縋るしかなかった。

そこから暫く、記憶は無い。



「ッハ!?」

ハアハアと荒い息遣い。

強く嚙み締めてた顎の緊張を、周りを見回すついでに解いた。

簡素なベッド、薄い板で作られたような壁、はめ込んであるだけのような窓。

質素な造りだが、しっかり雨風が凌げる建物にありつけたのは久し振りだな。

初めて見る木製の内装に、異物感を覚えるが、同時にどこか安堵している自分もいる。

まるで死人の世界だな。

さて、ここはいったいどこだ。

徐に体を起こし…

!?

体を持ち上げると、強烈な頭痛が迸り、思わず脳天を抱えた。

その瞬間、今までの出来事がフラッシュバックした。

あの少女は!?

焦ってベッドから立ち上がり、ドアを吹き飛ばす勢いで開けた。

廊下の先に階段が見える。

何も考えずに俺は、駆け下りた。

下には、大きなテーブルに椅子が並ぶ、食事をする場所…なのか?

俺の足音に反応したのか、奥から中年くらいの女が出てきた。

そして俺に話しかけているようだが、何を言ってるのか理解できなかった。

表情から、何かを案じていることは分かる。

しかし、どこかで聞いたことある言語だな。

その疑念は、俺の焦っていた心を鎮め、冷静に思案させた。

その時、幼い記憶が蘇った。

イフェル。その男にこの言葉を、暗号という名目で教わった。

俺は幼き日の記憶を手繰り寄せ、たどたどしい口ぶりで言った。

「もう いち ど いって。もっと ゆっくり。」

「動いては いけないわ。 …で 休んで いなさい。」

一部知らない単語があったが、表情の通り俺の身を案じているらしい。

女は俺の胸元に手を当て、埃を払いのけるような動作をし、上の階に誘導した。

「いっしょ に いた おんな どこ」

ジェスチャーを交えながら、たどたどしく聞いた。

「あなたの 隣の部屋に いるわ」

それを聞いて急いで確認しようとしたが、女に腕を掴まれ、止められた。

何か言っていたが、速くて聞き取れなかった。

「なに」

「女…の 部屋に 勝手に 入っては いけないわ」

「なぜ」

「聖なる 大地に 聞いて」

なんだそれ。

「水は 必要?」

「ほしい」

「部屋で 待ってて」

女は手のひらを重ねてそう言い、下へ戻っていった。

少女の安否が気になるが、あの様子じゃあ大丈夫なのかもしれないな。

しばらくベッドの上でぼうっとしていると、女が入ってきた。

水をベッドの近くに置くと、そのまま椅子に腰かけた。

「あなた がうちぇの 人?」

その言葉に、俺はひどく警戒した。

まさか、上層部と関わりのある人間か?

いや、ここは違う土地だし、そんなことは…。

「警戒 しないで。 昔 他にも がうちぇの 人を 助けたの。あなた…と 一緒で とても 弱ってた。」

聞き覚えのある話だな…。

「そういえば あなた 女 単語 なんで 知ってるの? がうちぇには 女… いないんでしょう?」

「イフェル おしえた。」

俺がそう言うと、女は口を手で覆った。

「本当!? さっき 言った がうちぇの 人 イフェルよ!」

…やっぱりな。

ってことはあいつ、一回脱走してたのか?

「だから 言葉 分かるのね」

しばらく愛おしそうに頭をなでられた…。


「食べ物 必要?」

女はゆっくり立ち上がって聞いた。

「すこし。  まて。」

俺の返事を聞いて部屋を出ようとした女を呼び止めた。

「おんな みる」

会うという単語を知らないので、何とか頑張って伝えた。

「分かった。 後で 下で 集まりましょう。」

伝わったみたいだな。

女はまた手のひらを合わせた。

「その て なに」

さっきから、不思議なハンドサインをするのが気になった。

「これ? 肯定。 逆は 否定。」

そういうと、今度は手の甲を合わせた。

手のひらを合わせると肯定、手の甲は否定か。

こういう些細な文化の違いが、俺は違う世界に居るんだという現実を感じる。

胸がざわつくな。

帰りたい?いやまさか。

「後で 呼ぶね。 あ 名前は 何。」

物思いに更けていると、女に話しかけられて、びっくりした。

そのせいで体が跳ね、頭を壁にぶつけてしまった。

心配され近寄ってきたが、手で女を制止し、「アフェル」とだけ伝えた。

そういえば、アフェルにもよく笑われたっけな。こういうところ。

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Fly two the unknown 灯明 故雪 @Lantern-snow

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