第7話『記憶の底』
【夕都】
何度か寝返りを打った後で、ゆっくりと体を起こした。時計を見ると昼に近かった。
昨日は飲みすぎたんだろう。頭が重い。体も怠い。
陽の光の眩しさに目を細めながら大きく伸びをする。
いつもなら自己嫌悪と鬱陶しさしかない二日酔いだけど、今日は違う。そんなネガティブな感情の中に、優しい光が灯っている。
「鬼姫様が帰ってきた。やっと……やっと、帰ってきた」
ずっと夢みていた。
ずっと願っていた。
ずっと……ずっと待っていた。
「これで、終わりにできる」
独り言と共に涙が零れ、両手で顔を覆った。
込み上げてくるのは、二日酔いからくるものか、それとも感情の昂りからか……。
あの日のことは、忘れろと言われても忘れることはできない。
最期のあの日。
鬼姫様の声を、言葉を、顔を……涙を。
「俺のせいだ。俺が……俺が」
……鬼姫様を殺した……
我慢できずに布団を飛び出し、ふらつく足でトイレへ駆け込んだ。
吐き出した苦さと酸味。続く大きなため息。
「……帰ってこなければよかったのに」
ずっと会いたいと願っていた。
ずっと待っていた。
もう一度。
もう一度、あの日に戻るために。
鬼姫の物語と、怨嗟を終わらせるために。
でも、それはあの最期の日を、もう一度なぞる事になる。
姫だ、神だと敬われ、崇められたところで、所詮は鬼だ。
鬼は忌み嫌われ、退治されるもの。
どんな道を選ぼうと、最後に待ち受けるのは地獄の業火。
鬼姫様が帰って来なければ、あの日を再び迎えることはなかった。
会いたかった。
戻ってきてくれた。
帰ってこなければよかったのに。
なんで戻ってきたんだ。
両極端な思いが全身を駆け巡り、それごとまた便器に吐き出した。
コンコン、とノックの音がして
「夕都?大丈夫か??」
黒耀の声が聞こえた。ふらつきながら立ち上がり、トイレのドアを開け
「……水」
いつも以上に掠れた声で、それだけを伝える。
黒耀はドタバタと台所へ戻り、再びドタバタと水の入ったグラスを持ってかけてくる。
ひったくるようにグラスを受け取り、その中の水を一気に飲み干す。
「紅姫は?」
口元を拭いながら問う俺に、黒耀は呆れたような視線を向けながら
「姫様は外で黄雷と遊んでます」
そう答えた。
「黄雷と?雅都はまだ寝てんのか?」
「いや、雅都は今日も早めのシフトだからってもうバイトに行ったぞ」
「は?黄雷を置いてったのか?」
ここにいる鬼の中で黄雷は一番幼く、主である雅都にべったりだった。雅都の出かける先には必ずくっついていく黄雷。1人でここに残っているのは珍しい。
「黄雷が自分から残るって言ったんでね。姫様とあそびたいから、って」
飲み干したグラスを受け取りながら、黒耀は答える。
「夕都はもう少し寝てた方がいい。顔が真っ青だ」
そう言う黒耀に引きずられるようにして、俺は自室の布団に戻された。
目を閉じて耳を澄ますと、確かに外から紅姫と黄雷の声が聞こえる。
子供のようにはしゃぐ黄雷の声を聞くのは、いつ振りだろう。
冷めた視線で生意気な物言いをすることが多い黄雷。
昔はもっと子供っぽく無邪気な笑顔を浮かべていたような気がする。
「そうか、黄雷もあの日からか……」
目の前で大切な人を失ったのは俺だけじゃない。
景都と青凪。
雅都と黄雷。
そして黒耀。
鬼とはいえ、まだ幼い黄雷が負った傷はきっと俺以上のはず。
「……ごめんな」
再び溢れる涙を隠すように、俺は布団に潜り込んだ。
そして、夢を見た。
この神社を建てた時の夢を。
入り口は鬼門と裏鬼門に開けろ。
鳥居は漆黒。
社も漆黒。
拝殿の前には蛇の像を。
祀るのは…………。
古くから、鬼が入ってくると忌み嫌われた鬼門。今の時代も忌むべき方角とされ、北東に向いた玄関や水まわりは避けられている。
裏鬼門は鬼が抜け出る道になる。こちらも鬼門と同じくらい忌み嫌われた方角になる。裏鬼門の先に小さなお社を建てる会社や家もある。
『全ては鬼のための神社。ここは人間のための聖域なんかじゃない』
誰かの声が夢の中で響く。
鬼のために建てられた神社。
鬼姫様が帰ってくるための場所。
鬼姫様を守るための場所。
そして……鬼姫様と最期の時を迎えるための場所。
場面が切り替わり、そこは燃え盛る炎の中。
折り重なるようにして倒れている人影。
消える鬼たち。
地を這うような声で唱え続けられる呪詛。
目の前には2人の女性。
1人は扇で顔を隠している。
お前は誰だ。
そしてもう1人は……
「……夕都、逃げて。あなただけでも、早く……!」
炎に飲み込まれていく鬼姫様。
まだ間に合う。
今ならまだ助けられる。
やめろ。
俺が取るべき行動は……そんなことじゃない!!
「やめてくれ……誰か、誰かぁっ……!!」
自分の叫び声で跳ね起きた。
心臓が気持ち悪いくらい強く鳴っている。
汗もひどい。
荒い呼吸を落ち着けようと、両手で喉を押さえる。
トントン、と襖を叩く音が聞こえた。
黒耀に違いない。追い返そうと口を開いた時
「夕都さん?」
聞こえた声に再び呼吸が荒くなる。
紅姫だった。
「……開けますね?」
そっと開く襖の向こうから、心配そうな紅姫の顔がのぞく。
何か声をかけようと思ったけれど、過呼吸気味なこの状態では、口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
「夕都さん!?大丈夫ですか??」
そんな様子の俺を見て、慌てて枕元まで駆け寄ってきた紅姫を、俺はその勢いのまま抱きしめた。
そのまま布団に押し倒すような形で、紅姫の上に倒れ込む。
「……夕都さん?」
紅姫の上で呼吸を整える。脈打つような強い鼓動は、俺のものかそれとも紅姫か。
「……ごめん。大丈夫。変な夢見ただけだから」
ごめん、そう言ってから紅姫の身体から離れる。続いて身体を起こす紅姫に、俺は問いかける。
「どこまで思い出した?」
質問の意図が分からず首を傾げる紅姫。
「どこまでって……何をですか?」
「いや、いいんだ。忘れてるんならそれでいい」
それがいい。
どうか……どうか思い出さないでくれ。
情けなくてかっこ悪いくらいに溢れてくる涙を、今度は隠すことができなかった。
あの日のことは、ずっと俺の記憶の底にあればいい。
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