第3話
二週間練習して、口笛教室に出席する。みんなとおしゃべりした後で、アキラ先生に手直ししてもらう。そしてまた二週間練習する。
練習すると言っても、せいぜい一日一時間ぐらい。主に大学へ向かって、自転車を漕いでいる時に練習している。時にはモルダウのオーケストラをイヤホンで聴きながら、口笛を吹いてみる。とても楽しい。元々口笛は好きだったけれど、目標があるおかげで練習に身が入った。
八月もお盆を過ぎたころ。口笛教室第四回目。練習の甲斐あって、モルダウはほぼ間違いなく吹けるようになった。高音も、我ながらいい感じだと思う。
「うん。いいんじゃない? 守山さん、もう達人だね。達人二段かな」
アキラ先生が頷いて言った。
「え? 豪傑じゃないんですか? いきなり達人?」
「ああ、そうそう、豪傑だった。豪傑二段。おめでトゥー」
適当だなあ。しかも、おめでトゥーだって。美人が台無しだ。しかしまあ、上達を認めていただいたことは嬉しい。
「じゃあさ、今日は守山さんの、初、昇段祝いに行きますかね」
アキラ先生がそう言うと、大輔君がやったーと言った。タマキ先輩も嬉しそうにしている。
「どこに行くんですか」
「居酒屋ですよ」
大輔君がわくわくした感じで言う。が、ダメだろうそれは。しかしみんな、もう外に出る準備をしている。
「まだ4時ですよ。お店開いてないでしょう」
僕は言った。時間の問題では無いが。
「ここらの人は、もうお昼から飲んでるよ。それが浅草イズム」
見得を切ってアキラ先生が言う。別にかっこよくないですよ。
みんなに引っ張られる感じで、教室の外に出る。出るとき木戸先生に「あなた方! どこに行くんですか!」と言われてしまった。僕が口ごもっていたら、アキラ先生が「逃げろ!」と言った。それで、勢いでワァッと逃げる感じで外に出てしまう。別に逃げる必要ないのに。悪ガキじゃあるまいし。いや、アキラ先生には悪ガキの素養があるな。
左から、アキラ先生(美人)、大輔君(小学生)、タマキ先輩(豪傑)、僕(貧乏大学生)、と横に並んで歩く。ありえない面子だ。逃げ出してきた高揚感があって、みんなのはしゃぐ気持ちが伝わってくる。確かに、僕も面白かったです。しかもこれから行こうとしているのは居酒屋だ。いいのか? ほんとにいいのか? 浅草なら許され……ないよなあ。
「さすがに居酒屋はまずいですよ。喫茶店とかにしませんか。パフェぐらいならおごりますよ」
貧乏だけどなんとか。
「大丈夫です守山さん。行きつけのお店なんですよ」
大輔君が言うと、さまになっているから困る。それでなんとなく納得してしまう自分がいる。ダメなのだが。
浅草の観光ゾーンから少し離れたところ。浅草寺の裏手をずっと行ったあたりは、閑静な住宅街になっている。町の小さな洋食屋さんとか、年季の入ったお店もちらほらある。僕以外のみんなは、ここらへんを歩きなれているようで、足取り軽く進んでいく。僕はひたすらついていく。なかなかいい雰囲気のところだ。道路の真ん中で子供たちが野球をやっている。久しぶりに見たな、こういう風景。
「守山さん、つきましたよ」
大輔君に言われて足を止める。築年数がすごそうな木造の建物。「近藤酒場」とでっかく看板に書いてある。ガラガラと引き戸を開けて、アキラ先生が暖簾をくぐる。町の大衆酒場と言った感じか。僕はこういう場所は嫌いじゃないけど、やっぱり小学生と一緒じゃまずいんじゃないか? もちろん高校生も。
「守山さん」
タマキ先輩に手招きされる。もう入るしかない。
思い切って暖簾をくぐると、店内もすごく年季の入った感じ。使い込まれた木造の長いテーブルに、背もたれの無い木の椅子が並んでいる。狭いスペースに、お客さんが席を詰め合って座っている。他の人と相席になる飲み屋さんか……。ディープだな。嫌いじゃないけど、こちとら子供連れの美人連れ。場の雰囲気にそぐわない気がする。
アキラ先生がお店の中をズカズカと進み、部屋の隅っこ、テレビの下あたりに陣取る。他のお客さんはだいたい、中年以上の男性ばかり。みんなの注目を浴びながら、僕も椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい。今日は早いじゃない」
注文を取りに来たお姉さんが、みんなの顔を見回して言う。
「うん、さぼってきちゃった。新人さんの歓迎会も兼ねて。ね? 守山さん」
アキラ先生がにっこり微笑む。
「じゃあお兄さん、なんにする? やっぱりビール?」
まだ4時半なんだけどなー。ここでアルコールを頼まないと、怒られそうな雰囲気だしなー。
「ここって、食べ物はなにがあるんですか。メインは焼き鳥ですかね?」
「馬鹿言っちゃいけないよお兄さん。馬鹿を言っちゃあいけないよぅ」
アキラ先生が首を回してキメた。……美人がもったいない。
「ここはモツ煮込みで有名なお店なんですよ。わざわざ遠くから来る人もいるらしいです」
アキラ先生はキメっぱなしなので、大輔君がすかさずフォローしてくれる。
「お酒無しで、モツ煮込みだけ食べに来る人も多いです。だから、子供だけでも大丈夫です」
タマキ先輩が目を輝かせて言う。
「マジですか。僕、かなり好物ですよモツ煮込み。嬉しいな。じゃあ、やっぱりお酒はハイボールにしておきます」
「お兄さん、若いのに分かってるねー」
お店のお姉さんが頷きながら言う。
「あたりまえよ。うちの生徒だもん」
アキラ先生が当然、という顔をする。ビールを頼んでたらどうなってたんだ。あぶねー。
アキラ先生が梅サワーを頼んだ。大輔君とタマキ先輩が、同じく梅サワーをくださいと言った。え? という顔をした僕の肩を叩いて、お店のお姉さんが言った。
「ノンアルコール、OK?」
お、おーけー。
食べ物は一通りアキラ先生が頼んでくれた。聞いてるだけで嬉しくなるような、豚の内臓のオンパレード。ここ、かなり本格的な店だな。
「いや、さすがアキラ先生。このお店のチョイスは、さすがだと思います」
僕は言った。アキラ先生が満足げに頷く。
「守山さんが、モツ系が苦手じゃないか、少し心配してたんです。苦手な人もいますから。僕は確かめたほうがいいと思ったんですけど……」
大輔君が、タマキ先輩とアキラ先生の顔を見回して言った。
「苦手だとしても、ここのモツは別物です。無理矢理食べさせようってアキラ先生と話してたんです」
淡々と話すタマキ先輩。恐ろしい。アキラ先生が深く頷いて言う。
「そうそう」
そうそうじゃない! まあ、幸い僕はモツが好物だったわけで、これ以上考えるのは止めておこう。
先に飲み物が出てきた。当たり前のように、大輔君が乾杯の音頭を取る。
「だいぶ遅くなってしまいましたが、守山さんの歓迎会ということで。それと豪傑2段、昇段おめでとうございます。乾杯!」
かんぱーい。大輔君……場慣れしすぎだろ。しかし、ありがたいなあ。口笛教室が、こんな広がりを見せるとは思ってもいなかった。
「みなさん、頻繁にこのお店に来られるんですか? なんか常連さんみたいな雰囲気でしたけど」
僕は言った。
「えーと、それが……」
大輔君が少し困った顔で、視線をアキラ先生に向ける。
「あーそうそう。わたし、この店の店員さんなの。アルバイトだけど」
アキラ先生がなんでもないように言う。
「……そうなんですか。ちょっとびっくりしました……」
「週に2回ぐらいだけどね。忙しいときに、お手伝いって感じで。あとの説明は……大輔君よろしく」
ものぐさだなあ。
「アキラ先生はすごいんですよ。口笛教室の先生に、大衆酒場の看板娘。あと、囲碁と将棋の教室でも教えているんです。ここら辺の顔といってもいいかもしれません」
大輔君、まるで先生のマネージャーみたいだな。
「あと、ピアノ教室」
タマキ先輩が付け足して言った。
「そうそう。あと、老人ホームでボランティアもされてますし、ファンが多いんですよ」
さすがにアキラ先生が、少し恥ずかしそうな顔をしている。
「はぁ。そんなすごい方とは知りませんでした。確かに、内面からほとばしるオーラのような物は感じていましたが、実際にすごい方だったんですね……」
僕は大げさに感心して言った。
「守山さん、馬鹿にしてるでしょ? はっきり言えば、メインの仕事が無いってことなのよ。肩書きは多いけど、収入は少ないし。もうちょっとで三十なのに、親にお小遣いもらってますよ、わたし」
アキラ先生がしょんぼりした顔をする。三十に近いのか……。
「馬鹿になんてしてません。アキラ先生、才能溢れてるし、美人で若いし!」
店内が一瞬シーンとなる。そしてドッと笑いが起きた。盛大な拍手が起こる。なんか変なスイッチが入って、大声で言ってしまった。やばい、超恥ずかしい。
「いいぞ! 兄さん」
「アキラ先生愛してる!」
たくさんの野次が飛ぶ。しかし、かなり優しい野次ばかり。それだけ家族的な場所なんだろうと思った。
「すいません、大声出しちゃって……」
「ううん。ありがとう。嬉しかったな」
アキラ先生が、僕の目をじっと見て言った。血の温度が上がる。
はい、お待たせ! とお姉さんが言って、山盛りのモツ煮込みと、焼き物が出てきた。モツ煮込みは、黒味掛かった濃厚な色合いをしている。
「珍しいですねこれ。ミソですか?」
僕は言った。アキラ先生が驚いた顔をする。
「よく分かったね守山さん。モツの味噌煮込み、東京だとあんまり無いのよ。食べたことあるの?」
「地元にあったんですが、今は無くなってしまって。でも、小さいころによく食べたんですよ。母親に買いに行かされたりして。感動の再会です」
小さなお皿に山盛りになっているモツを、箸で掴んで口に運ぶ。そうだ、この味だ。懐かしくて、おいしくて……たまらない感じ。
「守山さん泣いてる」
タマキ先輩が言った。
「すいません。なんかテンション上がっちゃって。おかしいな、酒もまだそんなに飲んでないんだけど」
「守山さん、意外に熱い男ですね」
大輔君が、片手に梅サワーを持って嬉しそうに言った。違和感全く無し。
酒の席はまだ経験が浅いけれど、こんなに気持ちよく酔えているのは初めてかもしれない。気持ちが妙に高まっている。たぶん、この場がいいのだろう。酒場って、こういうものなのか。
たらふくモツ煮込みを食べ、お会計は全部で2千円だった。アキラ先生の従業員割引もあるのだろうけど、まあ、べらぼうに安い。半分払いますと僕が言ったら、アキラ先生にキッと睨まれた。またその表情が美しい。それで、申し訳ないけどご馳走になった。みんなで表に出る。
「ご馳走様です。ほんと、おいしかったですね」
僕は言った。
「でしょう? また来てね、って言わなくても、守山さんまた来るよね?」
アキラ先生が笑った。
「そうですね。ついでに、酒の味も覚えてしまいそうです」
お店に入ったのが早かったので、まだ7時前だ。うっすらと空が明るい。夕暮れの町を、少し酔った頭で歩くのも気持ちがいい。まずいな、酒飲みになってしまいそうだ。
「いま、自分の内臓の中に、豚の内臓がギッシリつまってる……」
タマキ先輩が言った。
「それ、僕もよく考えますよ。人ってなんでも食べちゃいますよね」
僕の言葉にタマキ先輩が考え深げに頷く。
「もともと、モツは捨てる部位だったんですよね。貧しい時代に食べるようになって、でも、今では好んで食べるひともいて。食の社会学もありそうですよね? 守山さん」
大輔君が言った。
「夏休みのレポート、大輔君に頼もうかな。僕よりよっぽどいいものを書いてくれそうだし。バイト代出すけど、どう?」
「宿題はこれ以上無理ですよ。大学って、夏休みの宿題多いですか?」
ゼミによるけど、ほとんど無いよと僕が言ったら、大輔君がうらやましそうな顔をした。そうだよな、小学生のころが、一番マジメに宿題とかやっていたような気がする。自由研究とかも楽しんでやれていたし。
真っ暗になりつつある空を背景にして、隅田川のほとりでみんなと別れた。歓迎会、ありがとうございました。みんなに手を振って自転車で走りだす。家にたどりつくまで、ずっと口笛を吹いていた。
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