奈津美 ← ? ← 葉月
迎えたのは頭が薄くなり始めた中年の男性だった。受付の女性は軽く会釈をするだけで、愛想笑いすら浮かべなかった。司が「予約していた本城ですけど……」と最後まで言い切る前に、中年男性がずかずかとしゃしゃりでた。
「お待ちしてましたよ、さあそこへ」
そう言うと男はソファを指さした。言われるがままに二人がソファに腰かけると、それに合わせて中年男性も対面する形で深く腰をかけた。
「何がいい? グアバ茶? ジュース? コーヒーもあるよ」
「じゃあお茶二つ。いい?」
司が奈津美をリードした。とりあえずうなずく奈津美。
「はーい、ミキちゃん、お茶二つ持ってきて」
先ほど受付にいた女性は、無言のまま立ち上がると、奥の部屋へ消えた。
奈津美が辺りを見回すと、そこは至って普通の事務所風の四角いスペースだった。ただ明らかに違うのは、壁にかけられたメニューだった。
おためし除霊コース、永久除霊コース、オプションアロマ除霊などまるでラーメン屋のメニューのように除霊のメニューがずらりと並んでいた。
「はじめまして、除霊師の加藤です」
そう言って加藤は名刺を机の上にポン、と置くとすうっと二人の前に進めた。
「二人とも、除霊は初めて?」
「私は何回か。ナツは初めてだよね?」
奈津美はこくりと頭を垂れた。
「あそう、じゃあ物珍しいかもね」
ひっひっひっ、と引きつるような笑い声を上げると、加藤の奥歯の詰め物が光った。
この人大丈夫なんだろうか、それが奈津美の率直な感想だった。服装ももう冬になろうとしているのにアロハシャツだし、かなりラフ。除霊ってもう少し厳かな印象だと思っていた奈津美は拍子抜けしていた。
「加藤さん、この子なんだけど……」
そう話し始めた司を加藤は手で制した。
「いや、聞かなくても分かるから大丈夫」
そう言ってから、加藤は奈津美を舐めるように上から下まで見回した。ミニスカートだった脚を閉じる力が少し強くなった。
「きれいな脚だね」
「もう、そんなんじゃなくて」
「いや、君の姉さん。妹、かな? どっち? ひょっとして双子?」
一瞬その場の空気が凍った。まだ双子の話はしていない。
「姉です」
奈津美の言葉に加藤は、へえ、という表情を浮かべながら数回小さくうなずいた。
「憑いてますよ、お姉さん、ちゃんとね。でもいいの? 本当に除霊しちゃって。まあやれと言われればやりますよ、何せうちは除霊屋ですから」
司が立ち上がって身を乗り出した。
「やるに決まってるでしょ? この子かなり危ない目に遭ってるんだから、大体……」
加藤は司の話を聞くのが面倒になったのか、ハイハイという手振りを見せた。
「分かったよ、ちゃんとやるから。ミキちゃん、除霊セット持ってきて」
と加藤は奥の部屋に向かって声を張り上げた。
除霊屋の帰り道、奈津美は司と花見ヶ丘駅に向かって歩いていた。もう辺りはすっかり夜の帳が下りていて、見上げた外灯の一つがちかちかしていた。
「私、除霊ってもっと厳かな感じかと思ってた」
奈津美が拍子抜けるのも無理は無い。加藤はアロハシャツのまま、御祓いのときに使う白い紙のついた棒を持って、さっさっと振ったり、念じたり、ものの十分程度で終わってしまったからだ。
「最初は私も驚いたけどね、こんなんで効くのかなって。ただ、オカルト研究会の先輩も除霊してもらったんだけど、効果あったみたい」
「へえ、どんな?」
「なんかね、生まれてから一回も彼女ができなかったのに、その一週間後にできたんだって。すごくない?」
奈津美は何かを言いかけて、その口をつぐんだ。駅前の交差点で司は立ち止まった。
「じゃあね、ナツ。あたし、ちょっとハンズで付箋買ってくから。気をつけてね」
奈津美は司と別れ、花見ヶ丘駅から電車に乗った。
最寄駅に着く頃には、いよいよ人通りが少なくなっていた。
駅から奈津美の家までは人通りが少ない道が続く。大通りから一本入っただけで外灯は少なくなり、一気に心細くなった。しかし除霊のおかげか、今までの誰かにつけられているという感覚は無くなった。どうやら除霊は成功したようだ。
(これでよかったんだよね)
念じながらも、奈津美はもやっとしたような、何かとても大事なことを忘れているような、そんな違和感が頭をかすめた。その時だった、突然何者かが奈津美の口を後ろから封じた。声を出そうにも布のようなもので口を押さえられ、もごもごしか言えない。
(何これ、変なにおいが)
奈津美が何かを喋ろうとすればするほど、全身の力が抜けてゆく。やがて、手足の感覚がなくなり、そのまま自分が消えていってしまうような感覚に陥った。
(だめ……このままじゃ)
そのまま奈津美の意識は遥か彼方へ飛んで行った。
次に目が覚めた時、まず訪れたのはツーンという鼻を突くようなかび臭い匂いだった。聞いたことのない英語のハードロックが大音量で聞こえてくる。
(ここは……どこ?)
奈津美がやっとのことで目を開けると、そこは見覚えのない部屋だった。
「おはよう、なつみ」
ぼんやりと見えてきたのは、小太りの男。メガネをかけている。白いTシャツに、息をはあはあ言わせている。
「あなた……誰?」
奈津美が部屋を見渡すと、薄暗い部屋の至る所に何やら写真が貼り付けられていた。全て女子高校生の写真で、電車の中だったり、バスを待っていたり、どれをとってもこちらを向いていない。奥にはテレビが見えた。そこでは動画が流れていた。
「あれは……」
動画の風景は見覚えのあるものだった。奈津美が毎日通っている駅のホーム、そこに奈津美が立っている動画を、おそらく望遠レンズで撮影したものだった。一つ動画が終わると、他の日、そしてまた別の日と、奈津美が電車に乗るまでじっと撮影されていた。
「やっと一緒になれたね、ここで一緒に暮らそう」
そう言いながら男は額から汗を垂らし、餌をお預けされた犬のようにはあはあ、息を荒くしていた。
奈津美は上半身だけを起こしたまま、後ろに手をついて後退りをした。手にざらっとした感触があったが、辺りが暗くてそれが何なのかわからなかった。
「——いや、帰らせて」
大音量のハードロックの中、かろうじてその声は男に届いたようだった。一瞬にして、にやけていた顔が冷たくなった。
「なんで……なんで帰るんだよ。せっかく来たのに」
男の眼鏡の奥が鋭く、冷たくなった。
「何度も君を連れてこようとしたんだよ、でもその度に逃げられて。この前なんか突然道路に飛び出すし」
奈津美は、はっとした。つけられていたような気がしたのは、この男だったのだ。逃げなきゃ、本能がそう叫び声をあげようとしたその時、奈津美の首元に男の腕が押しつけられた。苦しい、の前に痛みとそのまま喉が潰れてしまいそうな感覚に陥った。
「悪い子だ。君もお人形にしてあげようか、そうすればそんなことは言わなくなる」
あっ……あ……という声にならない音が口から漏れた。そのまま男の全体重が奈津美の首元に一気にかけられていく。顔面に血が上り始め、苦しさと痛みが喉元を中心に破裂する。間違いなくこのまま首の骨が折れてしまう力だった。そのまま徐々に奈津美の意識がまるで世界がモザイクにかかったかのように朦朧とし始めていたその時。
ドンドン、ドンドン。
激しく戸を叩く音が聞こえた。それは大音量のハードロックにも負けないくらい、強く、激しく、そして乱暴な音だった。
男は最初は無視していたが、その後もドンドン、ドンドンと激しく叩かれたため、チッと舌打ちしてから、玄関に向かった。そして戸が開くと同時に、一人の女性が戸の隙間から入ってきた。
「あの、ここの女の子いませんか? ポニーテールの高一なんですけど」
奈津美はその聞き覚えのある声を遠くに聞いた。
(司? ここ……気付いて……)
声を出そうにもまるで火傷をしたようにひりひりする喉はまったく機能せず、恐怖と相まって大音量のハードロックの音の海に埋もれてしまった。
「いませんけど、じゃ」
そう言って男は扉をバタンと閉めた。
それから戻ろうとすると、
ドンドン、ドンドン、ねえ、いるんでしょ? ちょっと中見せてよ?
としつこく食い下がる司に、男は再び戸を開けた。そして来客と対面し、
「うるせーな、ぶっ殺すぞ……」
と言いかけた次の瞬間、男の股間に電撃が走った。
「んぐっ」
司の鍛え抜かれた下腿が男の股間を蹴り上げていた。動けなくなった男は、目を丸くすると、その場にうずくまった。
「失礼します」
そう言いながら、靴のまま、汚いゴミの散らばった部屋に入り込んだ。そしてふすまを開けると、壁にもたれかかって血の気が失せた奈津美を見つけた。
「ナツ! 大丈夫?」
すぐさま駆けつけると、奈津美を抱きしめた。
「司……良かった」
「心配したよ、ほんとに」
夢中で抱き合う二人の後ろから、ゆっくりと一つの影が近づいていた。さっき倒れていた男が、手に鉄アレイを持ち司の背後に近づいていた。そしてその鉄の塊を大きく振り上げた。目は血走って、怒りに我を忘れた猛獣のようだった。
「司、後ろ!」
「うわぁぁぁぁ!」
司はそれをさっと避けると、振り向き様に後ろ回し蹴りを放った。その脚が男の首を真横からなぎ倒し、バシっとそのまま90度曲がった。よろめいた巨体のど真ん中にダメ押しのソバットをくりだした。そのまま大きな体は、ドンドンと床を鳴らしながら、よろめいた。机、床に散らばったゴミや、食べかすを巻き込みながら、ふすまにぶつかり、そのままふすまごと男は倒れた。軽く息をあがらせながら立ちはだかる司。その背後に奈津美はつかまった。
「ナツ、逃げるよ」
奈津美はうなずくと、そのまま戸を抜けた。
その後、警察に電話し、ただちに男は捕まった。奈津美と司は事情聴取のため、警察署までパトロールカーで送られることになった。発車を待つ後部座席で、奈津美は司の手をぎゅっと握りしめていた。先ほどのことを少し思い出そうとするだけで、鳥肌が立った。
「良かった、司が来てくれて」
「ほんと、危ないところだったわ」
パトロールカーの窓から、数人の警察官がアパートの周りで何やら調査をしているのが見えた。
「お姉ちゃん、私を恨んでたんじゃなくて——守ろうとしてた」
奈津美はこくりと頭を垂れた。
「ナツのお姉さんは、ナツが危ないよって教えてくれてたんだね」
司は奈津美の肩をぎゅっと抱きしめた。先程の恐怖でまだ震えていた、鼻を啜る音が時折混じった。
「ねえ司。どうして私があそこにいるって分かった?」
「ドコイル使ったから」
「ドコイル?」
「この前の昼話したじゃん。物騒だからこのアプリ起動しといてって」
ドコイルは対象者が今どこにいるかGPSを使って教えてくれるサービスだ。奈津美のスマホにインストールされていたこのアプリから、司は居場所を掴むことができた。
「そっか……」
「もう、ほんっとナツはいっつもこうなんだから」
「ごめん」
そう言ってうつむく奈津美の頭を、司はぽかり、と軽く叩いた、そして優しく微笑んだ。
「でもそれだけじゃないよ。今考えても不思議なんだけど」
そう言いながら司は頭を掻き、考えを逡巡し始めた。
「私がハンズから出ようとしたら、何もしてないのに突然ドコイルが起動したの。今までそんなこと一度もなかったのに。そんで気になって見てみたら、ナツが変なとこにいて。電話かけたんだけど全く出ないからさ、心配になって来ちゃった」
パトロールカーがゆっくり動き出した。辺りはもうすっかり暗い静寂で満たされている。
「でも下手したら司も一緒にやられてたかも」
「やられてたか。でも今回は相手が悪かったかな」
そう言って司は小さく舌を出して見せた。司の家はキックボクシングジムを経営していて、父はその指導者だった。小さい頃から意図せず司は鍛えられていたのみならず、数々の技を覚えさせられていたのだった。
「女子がキックボクシングなんて流行んないよな、なんて思ってたけどたまには役立つね」
「あの時の司、めっちゃカッコ良かった」
「ありがと。でもこんなんだから男が寄ってこないんだよね。ってゆうかむしろ女子から告白されたことあるし」
しおれかけていた奈津美の心が徐々に潤いを取り戻していく。こんな奈津美を少しでも笑わせること出来るのは、世界中でも司一人だっただろう。
突如奈津美のスマホが震えた。除霊師の加藤からだった。奈津美は出ていいですか? と確認してからスマホに出た。
『あ、もしもし? 水瀬さん? すんませんね、突然。あの除霊のことなんだけど、謝んなきゃいけないことがあって』
「謝る?」
『そう。除霊の最後君の姉さんに逃げられてね。なんか最後に一回だけお願い、って言ってそのまま行っちゃったんだよ。だから、除霊料は一部返金するから、今度またうち来てくれないかな? 何か変なこと起こらなかった?』
会話は司も聞いていた。それを聞いて二人は目を合わせた。そして司がスマホに顔を近づけた。
「加藤さん。起きたよ、私の方に変なこと、スマホが勝手に起動した」
『あれ? 本城さん? 一緒にいたの? ごめんねうまくいかなくて……それお姉さんの仕業かも』
「あの……」
奈津美は聞いておかなければならないことがあった。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんは今どこにいるんですか?」
加藤は一時黙っていた。予想しなかった質問に戸惑っている様子だった。
『お姉さん? そりゃ除霊したから、もうこの世にはいないよ。天国にでもいったかな』
わかりました、と力なく奈津美は答えた。
その後、男は以前の女子高校生行方不明事件と関連があることも後々わかった。その女子高校生の遺体が後日山中から発見された。
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