奈津美 ← 葉月
その日のアルバイトは引き継ぎ相手が大幅に遅刻したため、奈津美は帰りが遅くなった。すっかり日は落ち、人気の少ないガードレールの無い歩道に差し掛かった時だった。
やはりいる——時々感じる何者かの予感。一度立ち止まってみた、するとその気配も一緒に消える。何度振り返っても誰もいない。そのままゆっくりと前へ目をやると、
「あ」
目の前に突如あの顔が浮かび上がった。それに驚く間も無く、どん、という衝撃と共に奈津美は車道に突き飛ばされた。奈津美の体と持っていたカバンの中身が車道に散らばった。ちょうどその時、まるで刺すような眩しいライトが奈津美を照らした。下り坂を急スピードで接近するワゴン車。その鉄の塊は奈津美の体をぐちゃぐちゃにするには十分すぎるほどのエネルギーを持って近づいてきていた。
——轢かれる、間に合わない……
奈津美は力強く目を閉じた。
凄まじいブレーキ音と、スリップするタイヤ。ワゴン車は奈津美の目と鼻の先で辛うじて止まった。
「危ねえだろ! どこ見て歩いてんだ」
クラクションを大音量でブー、と鳴らしてからワゴンは去って行った。
呆然とする奈津美。一歩間違えれば自分は死んでいたかもしれない、そう思うとしばらくその場を動けなかった。やがて我に帰り歩道を見上げた。すると、
「……」
そこに立つのは一人の少女。
色白の顔に、まん丸の瞳。じっと見下ろすその表情に生気は感じられなかった。怒りに満ちたその視線が奈津美を刺していた。
(あなたが、押したの?)
心の中で問いかけると、その少女は、ふわっと消えた。鋭い、込み上げる憎しみの表情をにじませたまま。
奈津美は散らばったプリントと筆箱をカバンに入れ、折れ曲がったスカートを整えた。
「……」
奈津美は頭に手を当て、髪を束ねていた蝶の髪留めを外した。さらり、と音がしそうな滑らかな黒髪が夜の闇に舞った。手のひらには生前葉月がつけていた蝶の髪留め、それを見て奈津美は一つため息をついた。
次の日の昼休み、いつもの渡り廊下で奈津美は司は昼食を摂っていた。
「それめっちゃ怖いじゃん。お姉ちゃんの幽霊ってこと?」
司は壁によりかかり、足を投げ出していた。スリムな長脚は筋肉質で無駄な肉がついていない。
「うん、多分」
奈津美は足を折り曲げ、ぴょこんと座りながら、弁当箱を小さくつついた。
「前から感じることはあった。でも直接何かされるのは初めてかも」
司はじっと奈津美の鼻筋が通った整った顔立ちを見つめ、奈津美が口を開くのを待った。
「私、お姉ちゃんのお見舞いに何回か行ったことがあるの。最初はね、まだわがままとか言う元気があった。でも次第に体調が悪くなると面会すらできなくなって。最後の方は本当に苦しそうだった、抗がん剤で髪も抜けちゃって、顔もげっそりしてた。結局何も楽しいこと経験できずに死んじゃったんだな、って……そんなこと考えてると、なんか自分だけ生きているのが申し訳なくなってくる」
司は両手を頭の後ろに組んで、柵にもたれかかっていた。そして上唇と鼻で箸を挟みながらその話を聞いていた。赤茶色のロングヘアが後少しで腰まで届きそうだった。
「へえ、でもそのお姉さんの霊。何かを伝えたいんじゃないの?」
「伝えたい?」
「そう、霊ってそういうもんでしょ。何か未練とか怨念とか、そういうのがあるから成仏出来ないんじゃないの?」
確かに司の言うのももっともだった。しかし奈津美には心当たりはなかった。あの憎しみに満ちた表情が伝えたいこと——それは自分に対する嫉妬以外考えられなかった。
「まあよくわかんないけどどっちにしろその霊、なんとかした方がいいと思う。お祓いしてみる? 私良い除霊師さん知ってるよ」
司が口角を少し上げたタイミングで、挟んでいた箸が地面に落ちた。
日曜の午後5時、奈津美は花見ヶ丘駅前に立っていた。
「ナツ、お待たせ」
司が二段とばしで階段を下りてきた。白いTシャツにダメージのあるジーンズ。黒いキャップには「venum」と書いてあった。
「ごめんね、部活だったのに」
「早退してきた。ってかこっちの方が大事でしょ、行こ」
そう言いながら、足早に司は歩きだした。
「それにしても司の交友関係って、広いよね。霊まで詳しいなんて」
「除霊屋のこと? あたし中学の時オカルト研究会入ってたでしょ、その時のつて。大丈夫、そこの除霊師さんちょっと変わってるけど、腕は良いから。失敗しているところ見たことないし」
成功とか失敗とかあるんだろうか、と疑問を抱きつつも奈津美はハンドバッグの中の封筒を確認した。藁にもすがる思いで貯金していたアルバイトのお金を奈津美はおろしてきたのだ。駅前から少し離れた車の入れない路地を進むと、二人は古びたビルの前に着いた。その一階のテナントに目的の除霊屋はあった。
奈津美が見上げると、確かに看板は「除霊屋」と書いてある。入り口の横に、「除霊始めました」と書いたビラが剥がれかけて揺れているのが気になったが。
自動ドアを抜けると、「らっしゃい!」という除霊とは縁遠そうな威勢の良い声が聞こえてきた。
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