第五章 第二話「山道我慢紀行」

 姫逃ひめのがルートと名号みょうごうルートと書かれた分岐の立札を過ぎて、登山隊は『三瓶さんべ』の山頂方向に歩みを進めていく。


 女三瓶とは、三瓶山さんべさんにいくつもある山頂の中で、たしか二番目に高い山。

 今日の予定はこの『女三瓶』の山頂でお昼ごはんを食べ、行きの道を引き返してスタート地点まで往復するコースになっている。


 厳密に言うと、下山の時はさっきの分岐点の立札を『姫逃ルート』のほうに進むらしいけど、今の私にはそんな細かいこと、どうでもよかった。


 本当にどうでもいい。


 周りを気にしてる場合じゃない。


 さっきからおしっこが漏れそうなのだ!


 ……私は完全に大ピンチに陥っていた。

 そういえば出発前に気が緩み、トイレに行くのを忘れてたことを思い出す。


「ましろさん、大丈夫? ……さっきから、静か」


「ははぁ……。余裕ぶってたから、疲れても言えないんだな」


「うん。登りが……きつくなってきた」


 千景さんと剱さんが私の前後でしゃべってるけど、会話する余裕がないっ!

 ……ヤバイ。

 確かにもうハイキング気分じゃない。

 しかも傾斜がきつくなってきて「遊歩道だ、お散歩だ」なんて言っていられない~。


 おしっこを我慢しすぎて、変な歩き方になってないかな?

 そういえば、山でトイレがない場所でこうなった時、どうするんだろう。

 まさか、草むらで?

 みんなと一緒に歩いてるのに「ちょっとお花摘みに行ってきます」なんて言うつもり?


 ……いつも以上に思考がぐるぐる回る。

 めっちゃくちゃ緊急事態だ。

 私は誰にも見られない場所がないかとあたりを見回す。


 すると、登山道近くの木の枝から見慣れないものがぶら下がっていた。

 手のひらに乗りそうなぐらいの小さな白い三角柱の筒で、『A』と書いてある。

 よくわからないけど、オリエンテーリングの目印のポストのように見えた。


 道の何かを示しているのかと思って周りを見たけど、道はまっすぐなままだし、急な登りが終わって平坦に差し掛かったぐらいしか特徴のない場所だ。


 あたりを見回していた時、進行方向にありえないものが見えた。

 ……なんか、白い四角い建物。

 印象としては公衆トイレに見えるんだけど、こんな山の中にあるはずがない。

 おしっこを我慢しすぎて、幻覚が見えちゃってるんだろうか……。


「ふええぇぇぇ……」


 本当に泣けてきた。

 幻覚まで見えたら、私はもう終わりかもしれない。


 すると、千景さんが驚いたように私を振り返る。


「ましろさん? 何?」


「あぅぅ……。千景さん。ごめんなさい。私、もう無理です……」


「空木、ひょっとしてトイレを我慢してるのか?」


 剱さんも心配そうに声をかけてくれるけど、もうどうしようもない。


「千景さん……。もし笑われても、友達のままでいてね……」


 私があきらめきって微笑むと、千景さんは白い四角い建物を必死に指さした。


「だ……大丈夫! ……あれ、トイレ」


「あぅ? ……あれって、現実の……トイレ?」


 私が聞くと、千景さんは何度も何度もうなづいている。

 ああ……トイレの神様、ありがとう……。こんな山の中にトイレを用意してくれるなんて!

 私は心の底から救われた気持ちになるのだった……。



 △ ▲ △



 ありがたいことにトイレの建物近くで休憩となり、私は誰よりも先にトイレに飛び込んだ。


 登山慣れしてるみんなによれば、こんなちゃんとしたトイレは珍しく、基本的に登山道にトイレはないものらしい。

 出発前にトイレに行っておけば、汗も出るので五、六時間はトイレに行かなくても済むということだった。


「あぅぅ……。なんかトイレが心配だから、飲むのをやめよっかな……」


 手渡されたスポーツドリンクを手にしながら、トイレの不安がよぎって躊躇ちゅうちょしてしまう。


「……ダメ。脱水症状……怖い。行動食も、ちゃんと食べて」


 千景さんが真剣な顔で見つめてくる。

 ちなみに行動食とは休憩時に食べるおやつのことだ。


「そういやコーヒーやお茶は利尿作用もあるから、アタシは山では飲まないようにしてるな」


「今回は持ってきてないけど……ハイドレーションシステム、オススメ」


 千景さんの言う『ハイドレーションシステム』とはドリンクの入った袋にチューブがついた道具で、歩きながらでも水分補給ができる優れものらしい。

 こまめに必要な分だけ水分を補給できるので、過剰な水分摂取にならない分だけおしっこも減るらしい。


 さすがは千景さん。

 山の道具屋さんだけはあって、いろいろ詳しい!


 感心しながら千景さんを見ると、千景さんは松江国引チームに視線を送っていた。

 その視線を追うと、どうやら相手チームの部長、恵那山つくしさんを目で追っているようだ。


「千景さん……どうしました? つくしさんに何か用でも?」


 その問いかけが図星だったのか、千景さんは慌てふためいてうつむいてしまう。


「あ、ああ……あの。……お、同じぐらいに背が低くて、親近感……」


 そう言って千景さんは頬を赤らめ、黙ってしまった。

 その様子を見ていると、なんとなく千景さんとつくしさんの距離感が分かってくる。

 たぶん千景さんは親近感があって仲良くなりたいけれど、恥ずかしさのあまり声をかけられないのだろう。

 友達が作りたくても声をかけられない気持ちはよく分かるので、千景さんを応援したくなる。



 私が千景さんに応援の微笑みを注いでいると、ふいに剱さんが口を開いた。


「そういや梓川さん。……さっきから静かっすね」


 確かにそうだ。

 出発してから、ずっと先輩の声を聞いていない。


 珍しいと思ってほたか先輩を見ると、小さなメモ帳に文字を書いているところだった。


「え? ……あ、ごめんね。記録を書いてたから……」


「記録って、なんすか?」


さんこう記録書だよ~」


 そう言って、ほたか先輩はメモ帳を見せてくれた。

 そこには出発地点を出た時間や分岐を通過した時間の他に、それぞれの場所の気温や山道の状態、植物の様子などが細かく書かれている。

 今はこの休憩地点の情報を書いているところのようだ。


「すごく細かいところまで書かれてますね!

 ……もしかしてこれも審査されるんですか?」


「うん。ゴールした後に提出するんだけど、なかなか書くことが多くって……」


 登山大会って歩く以外の審査もあるけど、これは冒険家の探検記録を見ているようだ。

 ほたか先輩はペンを握りなおして、みんなの顔を見渡した。


「あとね、休憩時のみんなの体調も記録が必要なのっ。みんなの体調を教えて~」


「アタシは元気っす」

「ボクも……元気」

「私は……おトイレだけピンチでした……」


「ましろちゃんはおトイレ……」


 ほたか先輩がメモ帳に書こうとするので、私は慌てて止めた。


「あぅぅ! 冗談ですよぉ。元気モリモリです! 恥ずかしいから書かないでぇ~」

「えへへ。分かってるよぉ~」


 ほたか先輩はいたずらっぽく舌を出して、私の名前の横に『体調良好』と記してくれる。


「……そろそろ休憩も終わりかな。じゃあみんな。ザックを背負おっか~!」


 周りを見渡してザックを背負うほたか先輩。

 その足元にはコップが置き去りだった。


「あれ? ほたか先輩、まだドリンクを飲んでないですけど……?」


「あ、忘れてたっ。えへへ。ましろちゃん、ありがとねっ」


 慌ててドリンクを飲み干す先輩を見て、ちょっと心配になるのだった。

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