第三章 第六話「覆水盆に返らず。されど」

 勉強会が終わった頃には、もうかなり日が落ちていた。

 私は靴を履き替え、ひとりで昇降口を出る。


 私にはどうすればいいのか、全然分からなくなっていた。

 山道具屋さんでの事件は全部私が悪いし、私にできることならなんでもしたい。

 でも、テントにこもってしまった千景さんには何を言ってもダメで、心がくじけそうになっていた。



 八方ふさがりの袋小路に迷い込んだ気分で、私はトボトボと校門を出る。

 その時、スマホが鳴った。

 SNSアプリのダイレクトメッセージを知らせる通知だ。


『……スノウさん。もしかして落ち込んでるのかなっ?

 最近のつぶやきが暗いので……』


 それはリリィさんからのメッセージ。


 あまりに図星で、私は思わずドキッとした。

 現実の私はまだしも、ネットでは「普通」を演じ切れている自信があったからだ。


 リリィさんは心の機微に敏感なところがあるし、ちょっとした変化を察したのかもしれない。


『ちょっと失敗しちゃっただけ~。気にしないで~』


 そんな風にメッセージを返したところ、すぐに返信が戻ってきた。


『部活に入ったって聞いてたし、人間関係でトラブル……なのかなっ?』


 なんだろう。

 軽く流したい気分なのに、今回のリリィさんはやたらと突っ込んでくる。

 でも悩みを聞いてほしいのも事実なわけで……。



 しばらく思案したあと、私はもう一度スマホの画面をのぞき込む。

 せっかくだから相談してみよう。

 ……千景さんに触れないように気を付けつつ。


『実はちょっと悩んでるの……。さすがはリリィさん。鋭いなぁ……』


『鋭くないよっ。人の悩みって、ほとんどは人間関係なだけだし……。

 でも、何日も悩んでるみたいで心配だな。

 ひょっとして覆水ふくすいぼんに返らず……なのかなっ?』


 リリィさんがまた難しいことを言いだした。

 妙に達観してるというか、リリィさんは物事を冷静に分析するところがある。


『その言葉って、水をこぼしたら元に戻らないって奴だったっけ?』


『うん、そうだよ~。

 転じて、水をこぼしたら元に戻らないぐらいに、決定的に溝が入ってしまった人間関係のことを指す言葉なんだって』


 なんか、思った以上に図星のような言葉だった。


『元に戻らない……。ほんとにそうだね……。

 全部私のせいで、もうダメなんだよ……』


 こんな具体性のない悩み相談をして、リリィさんは迷惑だろう。

 本当は全部を話してしまいたいけど、千景さんの名誉のためにも、言うわけにはいかない。


 すると、思ってもみないほど早くに返信が届いた。


『水がこぼれたって、すくいなおせばいいと思うよっ!』


 その文面を見つめ、私は頭を抱える。

 リリィさんが何を言いたいのか分からない。


『こぼした水が全部元通りになるなら、私だってそうしたいよぉ……。

 でも、完全にすくい取るのは難しいってことわざだし、水は地面にしみこんで消えちゃったのかもしれないし……』


 そんなメッセージを送ると、スコップの絵文字と一緒に『地面ごとすくい取ればいいよぉ~』という返信が送られてきた。

 たぶん、理屈なんてどうでもいいから強引にやってしまえ、ということだと思う。


 それって、なんていう力技?

 それが通用するなら、こんなにも困らないのに……。


 リリィさんの力技理論に食い下がるように、私は言い返す。


『それだと土が混ざっちゃうし、とても元通りとは言えないよ?』


『土が増えた分だけ、愛情も山もりだよ~!』


『むちゃくちゃだよ……。

 だいたいそんな力技、普通はできないからみんな困ってるんだよぉ』


『当たって砕けろだよ!

 悩んでるのは相手を大切にしてる証。だから、小細工なんていらないの。

 思いのたけを全部伝えて、仲直りしたいって言えば、いいと思うよ!』


 なんか、鼻の奥がむずむずしてきて、目が熱くなってきた。

 あまりに嬉しい言葉だけど、世の中そんなにうまくいくことなんてありえない。


『リリィさん、焚きつけないでぇぇ。

 それでもっと逃げられちゃったらどうするのぉぉ……』


『大丈夫! スノウさんがそこまで大切に思う人なら、絶対にわかってくれるよっ!

 スノウさんの目は確かだって、私は知ってるから!』


『泣けてきちゃった……。リリィさん、私を泣かせてどうするんだよぉ……』


 リリィさんの熱い言葉に、なんだか感激して涙が止まらなくなってしまった。

 ここが道端だってわかってるのに、心がグッと来すぎて、我慢できなくなってしまってる。


 もう、私に悩む理由はなくなっていた。

 私が初めて友達と思ったリリィさん。

 その人の励ましなら、例え失敗しても納得できる。

 伊吹アウトドアスポーツへと私は駆け出すのだった。



 △ ▲ △



 夜の七時。

 太陽は西に沈み、空は暗いあいいろに染まっている。

 通りに立ち並ぶお店と共に、伊吹アウトドアスポーツも煌々こうこうと光をたたえていた。


 お店が休みでなくて、本当によかった。

 確か営業時間は八時までだし、余裕もある。

 私は入り口から、そっと中の様子をうかがった。


 商品棚の間を動いてる黒いリボンと銀色の髪の毛は、間違いなく店員モードの千景さんだ。

 あの事件のせいでお店に出てない可能性もあったので、ほっと安心した。

 千景さんのお仕事の邪魔までしているとしたら、あまりにも申し訳ないと思っていたのだ。


 私はわき目もふらずに銀髪めがけて走り寄る。



「千景さん!」

 私が呼びかけると、銀色のかつらウィッグを身に着けた千景さんが、にこやかな笑顔で私を見上げた。


「いらっしゃいませ、なのです」


 久しぶりに見た千景さんは相変わらず可愛らしく、フレア状にふんわりと広がったエプロンドレスのスカートを揺らしながら、丁寧にお辞儀をしてくれた。


「あ、あ、あの。千景さん。今日は千景さんとお話がしたくて来ちゃいました!」

「ヒカリなのです」


 唐突に聞きなれない単語が飛び出し、勢いがそがれてしまう。


「申し遅れましたのです。ボクの名前はヒカリ。……千景は家で寝てるのです」

「えっと。……いや、千景さんですよね?」


「ボクはヒカリなのです。

 ……あと、ここは登山用品のお店なのです。

 店員とおしゃべりするお店ではないので、失礼しますのです」


 そう言って、千景さんは背中を見せて去って行ってしまった。

 取りつく島がないとはこのことだけど、そんなことよりも衝撃的な謎が降りかかってきた。


 ヒカリさん……って、どういうこと?

 やっぱり双子?

 それとも別人格?


 千景さんの遠ざかる背中を呆然と見つめてしまうが、私は必死に頭を横に振った。

 千景さんと友達のほたか先輩が言っていたのだ。あの銀髪の店員さんは千景さん自身で、演じているだけなんだって。

 ……だったら疑うべくもない。


 銀髪の店員さんは間違いなく千景さん。

 そして店員の時は「ヒカリ」と名乗っているらしい。


 千景さんがあくまでも「店員ヒカリさん」を演じるつもりなら、店員さんとしての普通の対応はしてくれるということでもある。

 だったら商品について質問攻めにする中で千景さんの心の悩みを解き明かし、適切な言葉と熱い私の気持ちをぶつけて癒すのだ!



 私は気持ちを奮い立たせ、「店員ヒカリさん」の元に向かっていった。

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