第三章 第五話「天岩戸の千景姫」
千景さんが……テントから出てこなくなってしまった。
自分でも何を言ってるのか分からないけど、事実がそうなのだから仕方がない。
山道具屋さんの事件直後……。登山部の部室の中に小さなテントが現れて、千景さんが隠れて出てこなくなったのだ。
授業には出てるみたいだけど、部活が始まるといつの間にかテントの中に入ってる。ジョギングや筋トレも別行動で、千景さんの顔を見ることは一度もできないままだった。
もちろん事件の直後から謝りっぱなしだけど、私を怒ってるわけではなくて、ただひたすらに恥ずかしいらしい。
でも大会が近いから休むわけにもいかないってことで、ここにいるのだ。
そんなこんなで千景さんの顔が見れなくなって、もう二週間以上。
こんなに恥ずかしがり屋だとは想像以上だった。
私たちは今日も部室で、千景さんが入っているテントを見つめている。
ちなみにテントに入ろうとすればほたか先輩の鉄壁のガードに阻まれるので、強引に突破するのはあきらめざるを得なかった。
「しっかし伊吹さんのコスプレ、可愛かったっすね~。
あの看板娘が伊吹さんだったとは……。常連のつもりだったのに、いままで全然気づかなかったっすよ」
剱さんが唐突につぶやくものだから、テントが飛び上がるほどに大きく揺れた。
姿は見えないものの、中にいる千景さんの動揺が見て取れるようだ。
ほたか先輩が「しぃ~~」っと言って人差し指を唇に添え、「それ以上は言わないで」とお願いしても、剱さんは全く意に介していないように言葉を続ける。
「だって、すごく可愛かったじゃないっすか。いいと思いますよ。
アタシはこんな風にガサツだから、うらやましいっす」
「つ、剱さん……、それ以上は言わないであげて……」
「っつーか、うちの部のテントって小っちゃいんすね。
生地はペラペラだし、大丈夫なんすか?」
剱さんがテントをまじまじと見つめていると、テントの中でゴソゴソと音がして、中から小さくてきれいな手が出てきた。
なにか、紙切れが握られている。
紙には千景さんらしい小さくて可愛い文字で「これはツェルトなのです」と書かれていた。
「……えっとね、ツェルトっていうのは
みんなで寝泊まりするテントは、もっと大きいしっかりとしたのがあるよっ」
ほたか先輩は丁寧にフォローしてくれる。
その様子を見守りながら、私は千景さんのことがよく分からなくなってきた。
今の姿も十分に面白いと思うのだけど、これは平気っぽい。
千景さんが恥ずかしさを感じるツボというものがわからない。
その時、急に部室の扉が開け放たれた。
入り口には天城先生が仁王立ちで立っている。
「明日から一泊、合宿するわよぉ~!」
先生からの唐突な提案に、部員一同はあっけに取られてしまう。
「あの……天城先生。ちょっと急かな……」
ほたか先輩も困惑気味だ。
だって明日は金曜日。学校の授業も普通にあるのだ。
「分かっているわぁ~。
そ、し、て……そんなあなたたちこそ、分かっているのかしらぁ?」
「なにがっすか?」
「県大会までたいして時間がないのよぉ?
この状況をあせらずして、どうするのかしらぁ?」
天城先生は真剣な目で私たちの顔を見回す。
確かになにも準備できてないし、そもそも私は初心者だ。
キャンプ自体、したことがない。
「でも天城先生……。
さすがに明日からだと、キャンプ場の予約は取れない……っかな?」
ほたか先輩も急に言われたせいで、困っている。
しかし天城先生はあっけらかんと答えた。
「学校でテントを張ればいいじゃな~い。
学校なら教室も使えるし、テスト勉強も完璧よぉ~」
「テ、テスト? 先生、何を言ってるの?」
部活中なのに、学校の勉強の話題が出てビックリする。
すると先生は脇に抱えた大きな封筒からたくさんのプリントを引っ張り出した。
プリントは何十枚かの紙が束ねられ、表紙には『予報第一号』と書かれている。
「テストと言えば県大会の審査に決まってるじゃない。
これは次の県予選の詳しい開催内容が書かれてるもので、ペーパーテストの問題もここから出るから、しっかりお勉強するのよぉ」
なんともあっさりとした説明。
つまり、これは大会の教科書ということらしい。
「はぁ? ペーパーテストっすか? 大会って歩くだけなんじゃ……」
「ご、ごめんねっ。お姉さんが説明を忘れちゃってた……。
競技登山の大会は歩くだけじゃなくってね、
テントの張り方や料理のやり方、筆記試験や天気図審査もあって、最終的に得点が一番多かったチームが優勝なの。
先生が持ってきた『予報』がテストの出題範囲なんだ……」
確かに剱さんは初日にすぐ帰ってしまったから、テントや料理のことを知らないのは無理もない。
でもテストまであるなんて、私も想定外だった。
「あぅぅ……。せっかく補習が免除になったのにぃ……」
「空木さ~ん。先生がしっかり教えるので、お勉強しましょうねぇ~」
先生は私にプリントを手渡しながら満面の笑みだ。
教師だし、教えるのが好きかもしれない。
すると、ほたか先輩は冊子を見つめてつぶやいた。
「そういえば、役割分担を決めなきゃ……」
「分担って……、何をすればいいんですか?」
「ペーパーテストには『自然観察』、『救急知識』、『気象知識』、『天気図』の四つがあるんだけどね、これは同時に行われるから、どうしてもお姉さん一人では対応できないの……」
「なるほどです。
……ていうか、同時にやらなかったら、お一人でやるつもりだったんですか?」
「もちろんだよぉ。大丈夫、大丈夫。全然いけるよぉ!」
ほたか先輩は腕を振り上げて力こぶを見せてくれる。
先輩はどこまでパワフルなんだろう。
「……でね、たとえば『自然観察』の出題範囲なんだけど……」
そう言って、ほたか先輩は冊子をめくり始める。
その指が止まった場所には「島根県の山」、「
なんの遊びもない情報の羅列は、まさに教科書と言って差しさわりがない。
「ましろちゃんにはお山のことを知るために、
この『自然観察』をお願いしたいな……」
「あぅぅ……。これ、めちゃめちゃページ数があるじゃないですかぁ」
ページを数えると二十二ページもある!
これ、全部覚えるんだろうか……?
「無理言ってごめんね……。
あ、でもね、『自然観察』は他の三人も少し出題されるから、一緒にお勉強会しようねっ」
なんか……めまいがしてくる。
部活でも勉強漬けとは思いもよらなかった。
「……じゃあ、アタシは何をすればいいんすか?」
剱さんが冊子を眺めながら言う。
すると、先輩は本棚から別の冊子を取り出した。
それは『登山の医学』と表紙に書かれた、二、三十枚はありそうな紙の束だった。
「美嶺ちゃんには『救急知識』をお願いしたいな……。
ケガや熱中症なんかの応急処置方法の知識のことだけどね。
こういう知識は普段でも役立つから、是非覚えておいて欲しいの……」
しかし剱さんは動じることなく、冊子をパラパラとめくっていく。
「ぜんぜん大丈夫っすよ」
「あぅ。なんか私の紙よりずっと多いけど……?」
「こういうのを持ってんだよ……」
そう言って、剱さんは自分の鞄から小さなカードを取り出す。
「普通救命講習……修了証?」
「美嶺ちゃん、すごいね!
心臓マッサージも止血も習ってるってことだし、完璧だよぉ!」
「あうぅ。……意外過ぎる」
「なんだよ、意外って!
……か、空手の師範が講習に行っとけって言うからさ!」
空手と聞いて、ようやく剱さんとつながった。
「ふふふ。なんか、お姉さん、安心しちゃった。
でね、お姉さんが気象知識で、千景ちゃんが天気図なんだけど……」
ほたか先輩は言葉を濁し、ツェルトと呼ばれた小さなテントを振り返る。
「……千景ちゃん。そろそろ出てこよ?
みんな、千景ちゃんを変だって思ってないよ? ね?」
そして、ほたか先輩はこちらに
「そ、そうですよ、千景さん! 絶対に言いふらしたりなんかしません!」
私が明るく呼びかけると、テントの隙間からきれいな手が伸びてきた。
その手に握られた紙には一言、「無理なのです」と書かれていた。
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