第7話【邂逅】(1)

## 001


 静かだ、とユマは思った。

 まだ昼間で、しかもあんなにも派手な戦闘のあとだったと言うのに、野次馬は一人としていない。がらんとした街路をユマとシャルマの二人は歩く。

 足取りは重い。

 この先には「行きたくない」と、本能が拒絶しているかのようだ。

 気を紛らわすため、ユマはシャルマに尋ねる。


「……ゆ、【勇者連合】の目的って、なんなの? 向こうの世界で子供を自殺させたりしてまで、一体なにをしようとして――」

「それは、我らの首領の言葉で確かめるといい」

「…………」


 結局、会話はそれで切られてしまった。

 沈黙が重い。息苦しさすら感じられる。無意識のうちに呼吸が浅くなる。正体不明の重圧が全身に染み込んで身体を重くする。

 それでも足を前に進めるユマの耳に、一つの声が聞こえてきた。


「――。――」


 何かを語る男の声だった。何を語っているのか、そこまでは分からない。誰かが何かを話しているという程度の事実しか、ユマには分からなかったが――たったそれだけのことで、ユマは膝を屈した。


「??、?」


 突然、視界が低くなったことにユマは驚きを隠せない。その理由が、膝をついてしまったからだと気づくのには時間を要した。脚は震え、力が入らない。固くて冷たい地面の感触だけが明瞭だった。


 首を上げ、見上げる視界の中、シャルマがこちらをじっと見つめている。かつて、修行の日々の中で幾度となく向けられた視線だ。「お前はその程度のところで終わるのか?」――そう言っているかのような冷たく、しかし穏やかな眼差し。

 ユマはそれに応えようと、力を込める。立ち上がろうとする。


 だが、うまく行かない。


 脚は震えるばかりで力が入らないのだ。


「あ、え? な、なな、なんでっ! う、うそ……」


 頭の中が焦燥感でいっぱいになる。

 頬を大粒の汗が流れ落ちた。

 視界が揺れて、ぼやけて、潤んで――地面に落ちた水滴の正体が汗か涙かわからなくなる。

 どうしてこうなっているのか、まったく分からない。ゆえに混乱は増す。


(それでも、私は)


 立ち上がって、進まなくてはいけないからと、歯を食いしばって全身に力を込めた。


 それでもまだ、立ち上がるには至らない。


 身体に力を込めれば込めるほどに、身体の奥底にまとわりつく何かがその存在を主張して、手足が竦む。


 駄目だ。無意味だ。敵わない。諦めるしかない。


 ぬるま湯のような絶望が、全身に浸透する。


「――――」


 やがてユマは何も見なくなっていた。目は開いている。だが、視覚情報の認識は完全に放棄していた。汚泥に絡め取られ、底無し沼へと沈んでいくように、意識が沈みゆく。

 それでも、諦めたくないという意志は残っていたのだろうか。ユマは暗く沈む意識の奥底で、無意識に記憶を漁っていた。

 求めるのは安心。絶対的な、いかなる恐怖をも退ける癒やし。

 最も強くそれを覚えたのは、100年以上前、幼少期のことだった。まだ、ユマの母が生きていた頃。


 その日、村の老人が亡くなった。ユマはいつか必ず訪れる死を生まれて初めて意識して、眠れぬ夜を過ごしていた。

 ユマが布団の中で小さく震えていると、不意に、その背が優しくさすられた。母の手だ。母は何も聞かず、何も言わず、ただ、歌を歌った。

 歌が終わる頃にはもう、ユマの恐怖は消えていた。死に対する恐れがなくなったわけではない。だが、底知れない安心感に包まれているため、死への恐怖が相対的に些細なものとなっていたのだ。

 ただの歌なのに、異様に心安らいだことに疑問を持ったユマは問う。


「お母さん、さっきのお歌はなあに?」

「……秘密にするって約束、できる?」

「うん!」

「あれはね、祈りの歌なの」

「いのり?」

「この世界には怖いことがたくさんある。そんな世界で、みんなが心安らかに生きられますようにっていう、大昔の人達の祈りが込められたのがこの歌。神竜メイグラーヤさまの巫女にだけ許されてるから、外では歌わないでね。私が神竜さまに怒られちゃう」


 はにかんで言う母の顔はとても良く覚えている。

 ユマの母が亡くなったのは、それから3年後のことだった。葬儀の時も、その歌を思い出せば涙を流さずに済んだ。母の温もりに包まれているように感じられたおかげで、寂しさはなかった。


 ……気がつけば、ユマはその歌を歌いはじめていた。

 はじめは、口の形を真似るだけ。けれど徐々に、メロディーを鼻歌で奏でられるようになり、ついには、声を出して歌えるようになった。


 そして一度、歌い終えてユマは初めて気がつく。

 自分が、もう地面に膝をついていないことに。

 まだ、身体の奥底に嫌な感覚はじんわりと残る。しかし、立って歩けないほどではない。


「ついてきなさい」


 そう言うシャルマの背にユマはうなずきを返し、再び歩き出す。

 幾度となく湧き出る「進みたくない」「諦めたい」という思いを、小さく口ずさむ歌で断ち切りながら。


## 002


 ユマが立ち上がったのを見て、シャルマは密かに瞠目した。

 【勇者連合】の首領が放つ圧力――恐怖はそう易々と乗り越えられるものではない。

 恐怖にも様々な種類があるが、首領の強いる恐怖はその中でもとりわけ強力な、根源的恐怖だ。根源的であるがゆえに人々は理由なく怯えてしまう。暗闇や死といった具体性を持たないがゆえに、あらゆる思想の人間に大して効力を発揮する、極めて原始的で形なき恐怖。


 【勇者連合】の首領たる男が、ともすれば空中分解しかねない転生能力者だらけの組織をまとめ上げられるのはひとえに、この「恐怖を強いる能力」のおかげと言っても過言ではない。


 シャルマのような幹部クラスの者には、首領の放つ恐怖を軽減する施術が施されている。これがなければ一体どうなっていたことか、とシャルマは歩きながら思わずにはいられない。

 あるいは、自分は膝をついたまま、ユマだけが立ち上がっていたのではないかと。


(ただの、精神性の問題ではなかろう)


 シャルマは耳を澄ませた。聞こえるのは一つの歌。


(ユマの歌を聞いていると心が安らぐ…………おそらくは、この歌が恐怖を軽減させているのだろうが……さて、一体これはどういうことだ?)


 その歌をシャルマは以前、聞いたことがある。何百年か前、ユマの祖母が歌っていたものだ。シャルマがその歌について尋ねると、彼女は「姉にこっそり教えてもらった」と言っていた。

 ユマの祖母の姉は先々代の神竜の巫女である。このことから考えるに、あの歌は神竜の巫女の間で代々継承されてきた、特別なものなのだろう。

 だが、心安らぐ効果まで付与されているはずはないのだ。

 確かに、心安らぐようなメロディの綺麗な歌ではある。だがそれ以上でもそれ以下でもない。あくまでも、ただの歌のはずだ。首領の恐怖を軽減させるなど、到底考えられない、


(と、すれば。ユマに何らかの異能が宿っており、それが歌によって発動していると見るべきか?)


 おそらくは、ユマ本人にも自覚のない異能。それが歌によって発揮され、安心感を与えているのだとすれば、


(ユマは、我らが首領の天敵となるやもしれんな……)


 小さく笑みを作って、シャルマはこれからを思う。これから、【勇者連合】の首領に対面して、その主張を聞いて、ユマはどう出るのか。首領と戦うとして、どのような主義主張をもって相対するのか。


(これだから戦は面白い。何が起こるか分からぬという期待感が、心底私を高揚させる)


 果たして、シャルマは道の先に人混みを見つけた。背中を見ただけで分かる。彼らは怯えていた。


「……高いところへ移動しよう。ここからでは群集に遮られ、我らが首領の姿を目にすることができぬやもしれぬ」


 シャルマは有無を言う間も与えず、ユマを抱えて移動を開始した。


 階段を上り、柵を乗り超えて隣の建物の屋根へ。そこからまた別の建物のベランダに飛び移って庇の上に高く、ユマを投げる。即座に自分も跳んで、手で庇の端を掴んで上り、上に乗ったところで全力の力を込めて跳躍。ミシッ、という庇の悲鳴を下方に聞きながら、ユマを空中でキャッチしてさらにその上へ。配管を蹴って屋根の上に踊り出た。


「――ふむ。ここからであれば丁度良かろう」


 借りてきた猫のようにおとなしくなったユマを脇に下ろし、シャルマは指を指した。群集の中心、噴水広場の真ん中、普段はショーなどが催されるステージに立って、朗々と言葉を紡ぐ一人の男を示して、


「見なさい。あそこにいるのが、彼こそが、我らが首領ユダだ」


 男――ユダは大きく手を広げ、声を大にする。


「私は、世界から一切の恐怖を拭い去りたい」


 語る言葉に恐怖と重圧を乗せて、ユダはそう宣言した。

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