5. 黒坂美都
「……美都」
黒坂は病室に入るなり、ベッドに横たわる彼の娘に駆け寄った。今年で十歳を迎えた彼の娘の美都は、同年代の健康な子どもと比べて細く小さく、今にも消えてしまいそうだった。
意識はあるようで、黒坂の姿を認めた美都は目を細めるようにして微笑んだが、身体を起こすことさえ難しいようだった。
「こんにちは」
後ろからついてきた草薙藍那が優しげな声をかける。既に手錠は外されていた。黒坂の横の椅子に腰掛け、美都の手の甲を軽く握る。
「美都。このお姉ちゃんは……話し相手を落ち着かせてくれる不思議な力があるんだ。ちょっと話してみてくれないか」
そういうと、黒坂は一歩下がる。美都は草薙藍那を珍しそうに眺めている。
「はじめまして。私は藍那って言うの。あなたは?」
「はじめまして。美都といいます」
か細いながらも、礼儀正しい言葉遣いで美都は返す。
「あなたは——生きるのと、幸せになるの、どちらがいい?」
出し抜けに、何の前置きもなく、草薙藍那はそう尋ねた。
「おい——」
黒坂は目を見開き、咎めるように草薙藍那の肩に手を置く。
「生きたいです」
その彼も、美都のはっきりとした意思に、動きを止めざるをえなかった。
「美都、あのな……」
「お父さん。この病院にも、幸福症候群の患者さんはいるの」
ベッドに横たわり、天井を見つめたまま、美都は話す。
「みんな幸せそうで、穏やかで。こんな終わりなら悪くないって言ってた」
まだ彼女が歩ける頃に、院内で患者達に会ったのだろう。
「だったら……」
草薙藍那は片手で黒坂を制する。
「幸福症候群にかかれば、もう痛くないし、穏やかな気持ちになれるわ。それだけじゃない。何かやりたいことがあるなら、それを達成する夢も見られる。いろいろな困難を乗り越えて達成したいなら、そんな筋書きだって体験できるの。美都ちゃんが頭に思い浮かべられることなら、なんだってやれるわ」
彼女はゆっくりと、諭すように話す。
「それでも、生きることを望むの?」
「うん。だって、わたしの気持ちは、わたしのものだから」
病気になんて、左右されてやらない。
そのようなことを言ったのち、美都は再び眠りに落ちた。
「私がいつも会話していることなんて、これくらいのものだけよ。……娘さんは、お父さんより余程強いようね」
淡々とした口調で、振り向きもせずに草薙藍那は言う。
「この病は精神と密接に関係している。既に仮説が立てられている通りよ。死にたい者には甘い死がやってくる。そして生きたい者は——感染しても、発症しない。その気持ちが萎えない限りは」
「それを覆すのがあんたの血なんだろ⁉︎ 一定量以上を投与すれば、本人の意思に関係なく——」
「意思さえも奪ってしまったら、美都ちゃんの生きた証はどこに宿るの?」
取り乱した黒坂に、草薙藍那は冷たく言い放つ。
「幸福症候群は、確かに人間にとって明らかに福音よ。死にたくなったら考えうる限りの幸福の中で死なせてくれる。けれどあくまで時間をかけて進行する病だから、突発的な死には役に立たない。つまり、冒険心のある人間、挑戦する魂を持った人間にはそもそも不要な福音なの。たとえばあなたの娘さんのように」
黒坂は静かに膝を落とす。
「……落ち着いたら、どこか安全な場所に連れて行ってちょうだい。私はそこでまた、必要な人に血を渡すわ。あなたに渡すことがなければよいのだけれど」
「あんたはなぜ罹患しないんだ?」
黒坂は声を震わせながら問う。
「……絶望も希望もないからよ。そういう珍しい人間が、世界中で私のような役割を担っている」
草薙藍那は病室を出ていき、後には黒坂と美都だけが残された。
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